カフカはなぜ自殺しなかったのか | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

いきなりだが、みなさんは家族、友人、知人を試すにあたる「踏み絵」はどんなものをお持ちだろうか?

 

 

趣味や価値観、生き方は十人十色であり、たしかな正解はなく、また自分となにからなにまで一緒なんて

いう人間は存在しない。

だから、それなりにスムーズな人間関係を構築および維持するためには、ある程度自分の世界観を

封印したり、趣味を我慢したりし妥協し、相手に合わせることは必要だ。

 

だが、最低限これだけは、そうあってほしい確認したい気持ちはあるのではないだろうか。

 

その他の趣味は違ってもいいし、それ以外はまったく話があわなくてもいいし、一緒に楽しめなくても

いいけど、この部分だけは絶対に‘共感しあえる’もしくは共感できなくとも ‘討論はできる’ 相手じゃないといけないという最低限の人格判断の確認である。

 

それをしるために友人知人家族を試すものをここでは「踏み絵」といっている。

 

たとえば映画。

イラストレイターの阿部真理子さんという方は先日このブログで紹介した「M★A★S★H」が

お気に入りで、新しい友人ができると、このビデオを送るそうだ。

もちろん、もし相手が「あまり面白くなかった」と答えたとしても、そこで関係をバッサリと

断つとかそんなことはしないが、本当にこれから先ずっと仲良く一緒に信頼できる関係を続けられる相手であれば、きっとその相手も映画を気に入るはずだという意味で、「M★A★S★H」を踏み絵として

試しにおくり反応を見るという。

そういうことだ。

 

ちなみにオレが友人知人を試す踏み絵は「自殺論」である。

 

これについて話すときは話せる相手かどうかで、相手がちゃんと個を持っているかとか

いろいろ信頼して心を許して話せる相手かを判断する。

 

テーマがテーマでヘリウムガスのように軽くはないので、いくらオレでも合コンで初対面の相手の

女の子を前で「ところでキミは自殺についてどう考えてる?」なんていわないし、知り合いのおめでたい

披露宴の丸卓で、席が隣になった人に向かっていきなり「アナタの自殺論をお聞かせ願いますか?」

などはいうまでもなくいわない。

 

たとえ気がしれた仲間だって、会うたびに最初から最後までそんな重いテーマをふられたら、ゲンナリ

するだろうからそこはさすがにわきまえる。

 

だけど、たまに……

そうほんとにたまに、そういう真剣モードにオレが入った時、しっかりと討論してくれるかどうかが

重要なのだ。

 

ただ、先に断わっておくと、この「自殺論」に関して、オレは決して共感も同意も求めない。

もちろん、自分と考え方が重なる分に関しては嬉しいし盛り上がるが、それはあくまでオレと

同じというだけであり本質的正解ではないので、そこまでは求めないし、押しつけもしない。

 

いってしまえばオレの論を徹底的に批判するような論だってまったく構わないのだ。

 

一番大事なのは、たとえオレと正反対の考え方だとしても自分なりの考えをしっかり持っているかと

いうことなのだ。

反論であったとしても、それがあればオレの踏み絵はクリアである。

 

自分なりの価値観を持っているかどうかという他に、「たとえ苦手なジャンルだとしても相手が真剣に

問いかけてきている時はできるかぎり、真摯に対応しようとする姿勢を持っているか」ということを

たしかめてもいる。そのふたつを確認する踏み絵だ。

 

難しくて、まともに答えられないにしても、相手の気持ちを考えて

「真剣に話してくれているのに申し訳ないけど、難しくてちょっとわからないかな」

と答えてくれた場合も、まあクリアではないかもしれないけど、ノーカウントといった判断だ。

 

その時だけ、真剣に意見を訊いただけにもかかわらず、

「そんな暗いわけのわからない話やめて、もっと明るい話しようぜー」とかいって茶化し、

テーマを下ネタにスライドさせたり、

「そういうネガティブな話したくねえんだよ!」とかいって突き返してきた場合は、もうそこで

踏み絵ノットクリア。

 

それで嫌いになったり、距離を置いたりすることはないかもしれないが、あくまで知人友人どまりで

親友の域までは達しないかなと。

ちょっとした相談ならば乗れるけど、本当に悩んだ時、そういう人はおそらく自分の世界観だけを

押し付けるか、他人事でまともに心配してくれないかのどちらかだろうなって思える。

 

つまり重ねていうけど、オレの場合はたまたま周囲の人間を試す踏み絵が「自殺論」という

ヘヴィなテーマであっただけで、踏み絵は別になんでもいいのだ。

 

これについてもっとも重要なのは「相手が物事について考える人間かどうか」ということと、

「時と場合によっては相手に合わせて話す優しさを持っている人間かどうか」のふたつ。

 

実際に誰かに試す試さないはともかく、相手を試す自分だけの「踏み絵」を持っていない人は

是非ひとつ、こしらえることをおすすめしたい。

 

人間関係を維持する破壊するとは関係なく、自分の中にある観察力もきっと磨かれるのではないかと思う。

 

 

で、だ。

 

せっかく自殺論を例にだしたから、もうちょっとそれに付随する記事を書いてゆこう。

 

オレは思う。真剣にだ。

 

「ニッポンは地震と自殺の国である」

今年になって自殺者が大台を割ったとか、あたかもそれが良い傾向のように取り上げられていたが

それでもまだ十分多い。

それなのに、どちらかというと改善されたと評価する傾向がむなしく、そして情けない。

全体では減っていても、若者の自殺率は大幅に伸びているのだ。

 

それにも関わらず、日本人の大半がその現実から目をそらして、なにかと「生きることのすばらしさ」

という救命ボートに必死にすがっている。

 

日本人は「生きる」という言葉がやけに好きだ。それは別に悪いとはいわない。

 

でもそれは同時に人間が絶対に避けて通れない「死」についてもしっかりと語れるという前提のもとで

「生きる」を語るべきではないだろうか。

 

これだけの自殺者を生産している現状から目をそらし、「死」をネガティブなものに位置付け、

ひたすら「生きる意義」を語るのはポジティブではない。

人生を前向きに生きているふりをしている「逃げ」である。

 

普段弱々しくても、本当の強さを持っている人間はたえず「死」と向きあい、そして「死」を考えながら

生きている。

 

勇者のふりをしている臆病者はひたすら「死」という概念や可能性から目をそらし、明るく生きることの

大事さを理由に火葬場の中まで逃げ続けるのではないか。

 

天寿をまっとうするにせよ、自らの手でその人生にピリオドを打つにせよ、人はいずれ死ぬ。

そしてやがて天に発つ。オシャレにいえば。

 

「人生の道のりを歩み続ける」

それは言い換えれば

「人はみな、最後天に発つための‘死の滑走路’を走っている」

ではないだろうか。

 

でも、オレはこうやってここまで「死」について書いているし、書けてもいる。

 

そう考えると決してマイナス的な要素だけでなく、文学や哲学でひとびとを語らす力や

妙な魅力があるのじゃないかという考えは否めない。

 

作家でも「自殺」や「死」の持つ魔力にとりつかれた者は少なくない。

 

代表的な作家は日本ならば太宰治。

外国ならカフカではないだろうか。

 

太宰は未遂マニアだったが、最後には本当に死んでしまった。

一方でカフカはずっと自殺願望を打ち消すために戦い、結局自らと世の中に絶望しながらも

生き続けた。

 

「死にたいという願望はある。そういうとき、この人生は耐えがたく、別に人生は手が届かないように

見える」

カフカはそう語った。

 

ただ、この本の著者(カフカではない)も書いているが、情緒不安定な時は創造性が高まるという。

カフカがいうには、その人生を自殺願望との闘いだけに費やしたというが、もしカフカが不満もない生活をおくり、なにごとにもポジティブな性格だったら、カフカは「天才作家カフカ」にはならず、近所のカフカさん止まりだったかもしれない。

 

全体的の考えると、文を書くことだけに自信を持っていたカフカにとって、世間一般でいう幸福な生活を送っていたのと、このように自殺願望にとりつかれながら苦しんで生き続けたのと、どちらが幸せだった

のだろうか、と悩んでしまう。

 

ずっと死にたいとかいいながら死なない。

「本当に死にたいと思っていたのか? 口だけじゃないのか?」

と人はいう。

本の著者はいう。人は白黒つけたがるものだと。

 

そしてこう書いている。

 

――

人生の多くのことは、白と黒の間にあります。

実に曖昧なグレーゾーンこそ、私たちが息をしている場所ではないでしょうか。

 

――

自殺したいけど、自殺したくないというのは矛盾しています。

しかし、私たちの気持ちというのは、たいてい矛盾しているものではないでしょうか。

好きで嫌いになったり、会いたくて会いたくなかったり、忘れたくて忘れたくなかったりします。

それはおかしなことではなく、それこそが真情というものでしょう。

 

――

しかし、曖昧さや矛盾は、本当にいけないものでしょうか?

そこにとどまることでこそ、生き続けられるということもあるのではないでしょうか?

 

 

以上、一部引用させていただいた。

 

続き、そしてまだまだあるカフカの他の名言はぜひ本でごらんください。

図書館にもおそらくあります。