私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

この前の3月11日は東日本大震災があった日だった。

それに合わせ、当日およびその周辺の日には各テレビ局でその特集がたくさん

組まれていたようだった。

 

改めてだが、震災で亡くなられた方々には心からお悔やみを申し上げます。

以降の記事の書き出しについて誤解のないようにそれだけ先にお伝えしたところで

……

 

3月といえば、そのあとの20日にも死者や負傷者を出した忘れてはいけない事柄が

あったのだ。

 

そう、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」。

早いものであの事件からも先日の20日で22年になる。

 

数にこそ差があるかもしれないが、両方とも死者と負傷者がでた大きな事件だったにも

かかわらず地下鉄サリン事件のほうはあまり振りかえられることもなければ、身の回りで

もあまり話題にする人はいなかった。

 

原発問題はおいといて、震災による死者の発生は天災。

政府の対応の遅い早いはあったと思うが地震そのものを防ぐことはできなかったし

人災でないだけ悲しさはあっても忌々しさや憎しみはない。

 

そこに「がんばろう」とかいう最大公約数を掲げれば振り返ってもいい方向にゆける

という心構えなのかもしれない。

 

一方でサリン事件のほうはあきらかな人災。テロである。

振り返ってもそこにあるのは忌々しさと憎しみであり、「がんばろう」というのはまた

違うところにある事件だから、メディアも世間も3.11に比べてあまり振り返った特集を

しなかったり話題にもださないのかもしれない。

 

ただ、本当に風化させたくないのであれば、「がんばろう」とか「絆」とか前向きなベクトルに

変換できないような事件事故であっても、しっかりと回想すべきだとオレは思う。

 

なので、改めて地下鉄サリン事件で亡くなられた方および被害者の方にもお悔やみ申しあげます。

(別に3.11についてしかお悔やみをしてない人がサリン事件に関心ないといっているわけではないので、あしからず)

 

ひとつ感じることは、今さらオレごときがいうのもなんだし、いいたくもないのだが、

あれだけ世間が騒いだ「一連のオウム事件」また先日書いた連合赤軍の「あさま山荘事件」

以降、日本はそれらの事件からなにかを学び、なにかを直すことができたのだろうか。

 

オウムや連合赤軍がやったことにたいする多くの社会の声は正論だと思う。

 

ただ、そんな彼らを生み出したのは日本の社会であることは事実。

悪を叩くだけならば幼稚園児でもできる。

悪の芽が育ってしまったような土壌汚染(社会環境)の除染作業はあれからなにも

されていないように思えてしょうがない。

 

今おもえば当時メディアが流していた映像も数字稼ぎのエンタメだった。

今の時代に改めて流される映像の扱いもそれに近い。

 

あさま山荘の映像も演出的には「鉄球で壊しまSHOW」だし、

連日オウム特集をくんだワイドショーも「幹部コレクション」と化していた。

おまけに終盤にはオトボケ老人芸人が登場して、「もぉ~!やめで~!!」という

一発ギャグだけを世の中に放ってよくわからんまま終わったような印象だ。

 

しかし!

世間がオウム一色だったあの頃から数年たった今だからこそ、メディアの情報に煽られたり

せずにじっくり冷静にオウム事件を振り返ることができるともいえる。

 

事件当時逮捕されて死刑が確定した実行犯や、刑務所に入らず比較的短い時間で

釈放されてもあまりオモテに出られなかった信者、幹部が本をテレビに顔をだしたり、

また本を出したりしている。

 

最近になって静かにオウム関連の事件について、知ることができることは知りたいと思い

ちょっと前になるがオウム関連の人間の書いた本をいろいろ読んでみようと思った。

 

麻原の側近だった早川紀代秀死刑囚の本や、厚生省幹部の医師で地下鉄サリンの実行犯だった林郁夫の本はかなり前に既に読んでいたけど、気がついたら出版されて数年経つにもかかわらずまだ未読の本があった。

 

しかもある意味で幹部より麻原に近い位置にいたオウムの人間の告白本……

そう、麻原ファミリーの娘たちの書いた本。

 

1冊はこれ。

麻原の4女が書いた本。

 

 

 

麻原は子供が多い。

息子がふたり。娘が4人。

 

最高幹部のマハー・ケイマこと石井久子との間に出来た子供も含めると、笑点のざぶとん

運びの方と、元大阪知事のところと同じくらいの子供、いや、それ以上いる。

弟子には性的なことの戒律を厳しくしていたくくせに、自分はやりたい放題だったのは

有名な話。

 

これは本の中で実の娘も認めている。

 

3女のアーチャリーと比べ、事件当時はまだかなり幼かったことで存在感もあまり

濃くなかった4女だが、本の内容はすべてとはいわないが信ぴょう性があり、

それなりに好感も持てる内容だった。

 

幹部や信者とはまた異なり、娘として父・麻原彰晃を見た視点はかなり貴重な

文章だといえる。

 

犯罪者といえど父は父、それが事実なのはしょうがない。

ただ、読んでいて驚いたのはこの4女が父は父という存在をしっかり認めたうえで

その父が犯した罪や、それを擁護する母・松本知子(現在は改名しているらしい)に

ついては冷静な第3者視点でしっかりと見てそれを読者に伝えているということ。

 

正直読んでいて意外だったので驚いた。

父は父に変わりないが、やってきたことは許されないし、父の逮捕後も父がひどい目に

合わせた信者たちから集めたおかげで母はじめ家族が美味しい物を食べたりする生活が

許せないと語っている。

どうしてそのお金をお詫びにまわさず、自分たちが贅沢を続けるのかと。

 

書いていることが本心かどうかはさすがにわからないが、本心ならばスゴイ人格者だ。

黙っていれば読者にはわからないファミリーのひどい内情も告発している。

 

かつてプロ野球でロッテから中日、そして巨人へと渡り歩いた三冠王がいたのだが

奥さんとの間にできた息子が当時とんでもなく生意気なドラ息子で、テレビ局は逆に

それをネタにしてよく取り上げていた。

 

どうしても王様、独裁者、経営者、人気者の子供は世間ズレしている生意気が多い

というイメージというか偏見があるが、4女の書いている文章を読むと、ちょっと考え方を

改めるきっかけになった。

 

あの父親にして、この娘か……と。

 

普通どころか、もしかしたらすごくマジメで自分のまわりにもいないんじゃないかという

くらい愚直な女の子の印象。

 

本のタイトルどおり、麻原彰晃の娘に生まれてしまったことが不憫に思えてきてしまう。

 

裁判で意味不明なことをつぶやいていた父親、

面会にいった時に様子で、「父は明らかに詐病」だと確信したということも文章にて

世間に発信している。

 

一方で、その4女のひとつ上の姉、アーチャリ―こと松本麗華が書いた「止まった時計」

も読んでみた。

 

 

 

文章からして嘘を書いている匂いはしないのだが、4女とは証言が食い違っているのが

目立つ。

 

実際この2冊を読み比べ、さらに他のオウム関連の資料を読むとわかることなのだが

麻原ファミリーは3女と4女の間で紛争が起きている。

さらに母親とももはや分裂状態で、アレフ(元オウム)に残っている高弟子とも争いが絶えず

今はもう複雑な状況のようだ。

 

4女が「裁判の場の父は明らかに詐病」と書いているのに対し、3女は「メディアが詐病と

報道していたから最初はそう思っていたけど、会ってみて本当に精神を病んでいることがわかった」と告白。

 

3女の書いた本の内容について、4女は「3女の本はウソばかり!」といっているようだ。

 

これについては本当のところはわからない。

 

それぞれの文章を読む限り、双方とも作為は感じないのだが、正直いうと4女のほうは

さっきも書いたとおり第3者視点で父親を見ているが、3女のほうは4女が反論しているように、まだどこか父親を教祖としてその教義を信じたい願いがあるように映ってしまう部分があった。

 

どちらかがまだ父とその教えを盲信しているのかもしれないし、どちらかがどこかで嘘を

ついているのかもしれない。

 

ふと頭をよぎったのは最近あった籠池氏の証人喚問だ。

みんな淡々と主張しているけど、食い違っている以上は誰かが嘘をついている。

 

口頭だと表情に動揺がでたり、口調が焦り気味になったりするが、これが対面でなくて

紙の上に文字を並べた視覚による一方的な文章報告になると、文体が落ち着いてさえ

いればどんな内容でも妙に真実味をおびてしまうことが怖い。

 

まあ、再び凶悪事件さえ起きなければ麻原ファミリーの内情はどうでもいいけど、

この2冊を読んでいて今の社会にも通じることとして教訓になったのは、ひとり、もしくは

ひとつの方向から入ってきただけの情報だけを信じないということだ。

 

人間というものは、どうも一番はじめに入ってきた情報に信頼性を置く傾向がある。

誰かがでまかせで「○○がお前のこと、こういってたよ!」とかいってきてもそれを

信じてしまいがちである。

 

デマや、人間関係を悪化させる煽りに関しては先にいったもの勝ちといった傾向が

あるのでそこだけには気をつけようと感じた。

 

 

それではせっかくなので、最後にオウムや連合赤軍の事件に関して総括!

(総括といってもここではリンチではない)

 

繰り返しになるけど、オウムも連合赤軍もそれを生み出したのは今の歪んだ社会なのだ。

もちろん、歪んでいるなかでもまっとうに我慢して生きている人間がたくさんいるのは認めるが。

 

オレは死刑制度反対を唱える人間ではないので、それなりのことをやった人間に対しては

遺族の方々の心情を踏まえたうえで死刑は執行すべきだと思うが、ひどいことをやった

人間を葬ればそれで解決ということではない。

 

死刑執行とならんでやらなければいけないことは、できるかぎり死刑囚となる人間を

生まないようにする環境に修正することだと思う。

 

オウムの信者も、連合赤軍のメンバーももともとは痛いほど真面目な人たちだ。

 

みんな、世の中を良くしよう、変えようと思って集って活動するうちに、ヘンな指導者に

よって違う方向へ向かうようになってしまった。

それは連合赤軍の兵士も語っていたが、オウムにも共通する部分はあると思う。

 

テロリストを産んだ土壌汚染を除染しない限りは、これからも死刑囚が増加する一方

ではないだろうか。

 

基本的な改革をまったくせずに、死刑廃止だとか賛成だとかという論議に熱をあげる

のはなにかページをとばして、いきなりクライマックスだけを知ろうとしているような

違和感を感じてならない。

 

これはあくまでオレの個人的な意見。

そう簡単にできるようなことじゃないとうのもちゃんと承知したうえでいっている。

 

ただ、オレがいいたいのはネガティブだといわれることや、忌々しいことでも

本当にそういう事件を繰り返したくなかったり、犯罪者を生み出したくないという願いが

あるのであれば、そういったこともしっかりと関心を持ち、そして振り返ろうよ、という

想いだ。

 

そして自分と考えが違っても、世間一般でマイナスだといわれるような意見にも

しっかり耳を傾けよう。

 

前向きになれるような話しか聞かないほうがいいっていうのも、オレはひとつの洗脳であり、

そして、そういうことを考えたくない、語りたくないっていう‘逃げ’だと思う。

 

いろんな考えを吸収した人間こそがあらゆる視点からものごとを俯瞰することができるのだ。

 

連合赤軍の本と、今回紹介した2冊の本を読んだあと、たまたまその3冊の読書後の

デザートとして最適な本を図書館で発見したので借りて読んだ(笑)

 

 

 

田原総一朗は本の〆として、これらの団体の破壊活動について、集団の中の誰かが

「やめようよ」といえる勇気を持つべきだった、と語っている。

 

たしかにその通りだと思える。

 

だが、連合赤軍の元兵士である植垣氏は先日紹介した著書の中では「踏みとどまる勇気とかやめさせる勇気とか、そんなもんじゃないんですよね」みたいなことを別件で書いていた。

 

それを読んで現場のリアルを改めて思い知らされた気がした。

 

そうだ。

いわれてみれば、日本人は日常の仕事のしくじりにせよ、テロ行為を行ったことを振り返って

反省する際にせよなにかと、

「あの時踏みとどまる勇気がなかった」

「あの時、一歩踏み込む勇気がなかった」

「あの時、友人を止める勇気がなかった」

と、いったように‘勇気’というワードを用いれば、その場にいるみんなが納得して

議論が綺麗に‘オチ’ているような気がする。

 

日本人は「あの時の私は勇気がなかった」というオチがやけに好きな民族ということを

再認識した。

 

この‘勇気’という発言にしていえば、はっきりいって植垣氏のほうにリアルと納得を

感じてしまった。

 

「あの時‘勇気’がなかった」という言葉を免罪符というかジョーカーとして出して

その場をうまく反省美談のようにオトす人間と、それを聞いてすぐ「こいつは反省しているな」と納得してしまう人間が多くなったのは感性の劣化を感じて残念な気がする。

 

まとめ。

 

前向きとか後向きとかにとらわれず、いろんな意見を聞こう。

そして自分なりに哲学しようじゃないか。

 

もっとも大事なのは勇気なんかじゃない。

自分の頭で考えることだ。