遺伝子ぼっちゃん・遺伝子お嬢ちゃん | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

韓国大統領をとりまく一連の事件は多少進展があった様子。

 

朴槿恵を操っていたといわれる黒幕は崔順実(チェ・スンシル)というオバサンだが

その娘であるチョン・ユラというのが、なんでも親の金で裏口入学をしたといわれ

叩かれていた際、SNSにて「親の金も実力のうち」と反論し大炎上だとか。

 

当然のなりゆきである。

 

娘であるチョン・ユラという人間の感覚は明らかにオカシイ。

金銭的な感覚に限らず、人間としてネジが緩みまくっている印象を受ける。

そして、裏口入学などの不正はいうまでもなくやってはいけないことである。

 

ただ、いった人間がこのチョン・ユラという勘違いネエチャンだということはおいといて

「親の金も実力のうち」

という言葉自体は、風刺や皮肉の意味であると同時に、単純な現象として考えても

完全に的を外れていることもないように思えてきた。

 

まあまあ、ここでムキになったり反論したりせず、記事を最後まで読んでいただければ

誤解して受け止められることはないと思うし、オレのいいたいこともボンヤリとは伝わると

思うので。

そしてチョン・ユラという人間をフォローしようなんて気は微塵もないし、彼女に関しては

人間的にオカシイのもわかっているのであしからず。


親の金……

 

そう、世の中にはチョン・ユラのように親が裕福で、その親から車なり、ペットなり、旅行代

なり、多額なおこづかいなり、いろんなものを与えられ、不自由をあまり経験してきたことの

ない人もいる。

 

世間ではそういった人たちのことをお金持ちの家の「おぼっちゃん」「お嬢ちゃん」と呼んで

いる。

 

その呼称には愛嬌と嫌味が混在していて、いわれたほうが耳に心地よくとるか不快にとるか

の個人差は発生すると思うが、おぼっちゃん、お嬢ちゃんであることは間違いない。

それはオレも認めるところ。

 

しかし、そういった彼ら彼女らだけを果たして「おぼっちゃん」「お嬢ちゃん」といって

正しいのだろうか。

オレはこの世の中にはもっとたくさんのあらゆる、おぼちゃんやお嬢ちゃんがいると思うのだ。

 

現金や車やバイクや楽器や犬や猫や別荘というものはすべて形がある。

誰の目にもはっきり映るものなので、人から人に渡り、受け取った人がそれを所持している

のをみれば、それが人(親)からもらったということが明確なのだ。

 

だが、人から……つまり、親や祖父母が子に与えるモノというのは決して形あるものだけでは

ない。

 

たとえば命。

一番初めに親からもらうのはコレだ。

 

みなさんは自分が今この世にいることが当たりまえだと思いだろうか?

否。

 

小学校だったかな? それとも中学1年くらいだったかな?

保健体育の授業とかで教わった。

 

精子と卵子が出逢って受精して子供の姿になるその確率を。

 

それを考えると、今地球上にいるすべての人間ていうのは、ふつうもらえない貴重なモノ(生命)

を与えられたようなモノ。

 

親からお金や車を与えられている人間が「金持ちぼっちゃん」ならば、この世に生まれてきた

人間はみんな、とても貴重で普通もらえないようなモノを与えられた「命おぼっちゃん」や

「命お嬢ちゃん」といって良いのではないだろうか。

 

それだけではない。

命と与えられると同時に、人は親から「人格」「性格」をもらう。

人によっては、各方面における「感覚(センス)」「能力」「体質」も授かる。

 

いってしまえば、これら人格・性格や感覚・能力だって人間が生まれた瞬間に

自ら修行したり、収集して身に着けたわけではない。

 

人間に限らず、すべての生物において、オギャーと生まれた瞬間、命のオプションとして

すべて親から与えられたモノである。

ただひとつ、個人差があり、人によって与えられたり与えられなかったりする能力がある。

 

なにをするにおいても技術や知識といったものは生きてゆく環境の中でそれなりにグングンと

伸びてゆくことはあるかもしれないけれど、性格やセンスに関しては多少修正したり発展する

ことはできたとしても、やはり生まれた瞬間に、その基盤と伸びしろの限界値は決まってしまっているというのがオレの持論。

 

これはネガティブでもなんでもなくオレの正直なシビアな意見として書かせてもらう。

 

‘技術や忍耐力は本人の努力や周囲の環境によって伸びるかもしれないが、基本的な人格と

体質とセンスは周囲の力や努力を持っても変えることは不可能’

 

周囲の部員に比べると、比較的へたくそだけれど、もともとそれなりの運動神経を持った

人間が野球をさらに熱心に練習すれば、すごい選手になる可能性はある。

技術は伸びるから。

 

だけれど、もともと親から運動神経を与えられなかった人間はまわりの10000倍練習しても、

まわりに追いつくことは出来ないと思う。

それは技術でなくて、基本的な運動神経(センス)の問題だから。

 

運動神経一つに関しても、素晴らしい運動神経を与えられた人もいれば、まったく与えられなかった人もいる。

 

文化系においても同様だ。

 

周囲よりひとつふたつ抜けた絵の才能や文章の才能などを与えられた人もいれば

まったく与えられなかった人だってたくさんいる。


 

はっきりした形こそないにせよ、、「素晴らしい運動神経」や「優れた芸術センス」を

もらうのも「金」や「車」をもらうのも、恵まれなかった人もいる中でそれを親から与えられた

というのはそれほど差がないのではないかと思ってきたのだ。

 

いや、この例は才能だけに限らない。

人と向き合った時における「性格」に関しても同じようなことがいえる。

 

たとえば、誰かと面と向かって話していて、熱い討論になった際にもいろんなタイプの人が

いると思う。

 

討論の波長がほぼバトルの域に達したあたりで相手に向かい、

 

「何度言ったらわかるんだ!」

「いいかげんにしろ!」

とか強くでられる人もいれば、もっと上をゆき、いきなり相手の胸ぐらをつかむ勢いの人

だっていると思う。

 

その一方で、明らかに自分のほうが正しいことをいっているという自信があっても

優しさのあまり相手にあわせ我慢して、穏やかな対応を続ける人もいれば、

単純に気が小さくてキレ返せないタイプの人もいると思う。

 

その際、強気にでる人にはこういうことをいうタイプが多い。

 

「オレは相手が誰だろうと、ちゃんと言える人間だから!」

「オレはそういうのに我慢せず、思い切り怒れる人間だから怒る!」

 

うん。間違ってはいない。

自分でその言動が本当に正しいと思っているならば、それは正統だし、

心から相手のことを思ってなら、そこは強く出たりキレたりするところだ。


 

それはまったく否定するつもりはない。

 

ただ、そこで自分みたいな性格を基準だと決めつけず、討論でキレられた相手の気持ちも

少し考えてみていただきたい。

 

どちらの意見が正解かなんてわからないが、討論である以上相手だって自分の考えに

信念を持って正々堂々と真正面からぶつかってきたわけである。

 

だけど、気の弱い人や相手を気遣う人だったなら、そこで「いいかげんにしろ!」とか

キレられたら、萎縮するかもしくはその場を何とか平和に収めようと一歩引くかもしれない。

 

相手だって基本的には自分の意見が正しいと思って討論してきているわけだから、

相手がヒートすれば自分だって言い返したいに決まっている。

でも、言い返せない。

 

理由のひとつとして、相手を気遣う優しい遺伝子は親から与えられたが、強気に出る攻撃的な

遺伝子は与えられていないから。

どんなに平和主義者であっても感情を持った人間……批判されたら言い返したいはず。

だけどそういった攻撃的遺伝子には恵まれなかっただけ。

 

「オレははっきり意見が言える人間だ」

「オレは何事にも進んでガンガン攻めることができるタイプだから」

……

 

そういう人はそのまま地でいってもらっていいと思う。純粋に。


 

ただオレにはそういった人たちにひとつだけ伝えたいことがある。

 

老若男女問わず、「オレはそういうことがちゃんとデキる男」「ワタシは積極的にいえる女」

ということを‘あたりまえ’だと思わないでほしい。

 

人としてこの世に生まれてきて、なにかしら楽しみながら人間関係をうまく進めて生きて

ゆきたいというのはきっと皆共通のはず。

 

強気な性格や、器用な人間に生まれてきたかったのに、そういったものを親から与えられなかった人だって多い。

 

「強気な性格」「攻められる性格」「相手にたいしてハッキリとモノをいえる性格」……

 

こういったものは決して‘あたりまえ’じゃなく、‘周囲よりも恵まれたものを(親)から与えられた’

のだと認識して、そのありがたみをしっかり把握してほしいと思う。

 

重ねていうが、もちろん生きてゆくうえの逆境や経験である程度もまれて強くなったという

のもあるかもしれないが、それもやはり親が‘強くなれる基盤の性格’を与えてくれたからだ。


 

機動戦士ガンダムに登場する敵将で、ランバ・ラルという男気溢れる登場人物がいる。

そのランバ・ラルがグフというモビルスーツに乗って、主人公の少年アムロの乗るガンダムと

対戦するのだが、グフはガンダムに敗れる。

爆破寸前のグフからロープを使って脱出する時、人生経験も戦闘経験もアムロより豊富な

ランバ・ラルはこう言った。

 

「見事だな。しかし小僧、自分の力で勝ったのではないぞ。そのモビルスーツの性能の

おかげだということを忘れるな」

 

……

 

性格や能力において、

技術的な部分では多少自分で精進した面はあるかもしれないが、それでもやはり

その基本的な性格や初期設定されていた能力は、あなたが自分の努力で手に入れた

ものではなく、親が与えてくれたものなのだ。

 

せっかく与えられたものなのだから、それを使うのはいいと思う。

 

でも、そんな強気な性格や、頭ひとつ抜けた能力などにたいして当たり前だと思って

ありがたみをまったく感じないのは、ある意味で「遺伝子おぼっちゃん」「遺伝子お嬢ちゃん」だ。

 

「自分の親が与えてくれた金を、自分の好きに使って何が悪い?」という金持ちおぼっちゃん

にたいして

「親が与えてくれたこの性格や運動神経を『私はそういう人間だから』というふうに当たり前に

思ってなにが悪い?」

といったふうに感覚がどこかおかしくなっている遺伝子おぼっちゃんに遺伝子お嬢ちゃん。


 

金も性格も能力も誰もがすべて親からもらっているのだ。

そして、それは千差万別で良いものをたくさんもらえた人もいれば、ほとんどもらえなかった人だっている。

 

環境と待遇という面で考えれば、生きてゆきやすい性格や秀でた才能は親から与えられなかったけど、そのかわり親がちょっと裕福だという人もいると思う。

 

そこで冒頭の話に戻るのだが……

 

強気な性格の人間も弱気な性格の人間も、才能のある人間も才能のない人間も

すべての人々が最低限の幸せを同等に味わう資格があると思う。

 

家が貧乏で「金持ちおぼっちゃん」ではない男性でも、それなりに抜けでた「運動神経」を

親から与えられた「遺伝子おぼっちゃん」であれば、もしかしたら将来有名アスリートになって

大金を稼ぐ可能性だってある。

 

その反面で理不尽ながら、まじめに生きているのに運動の才能も芸術の才能も世渡りの才能も

与えられなかった人がいたとする。

 

なにやってもダメだから、みんなとスポーツやゲームをやっても楽しむこともできない。

将来もとくに期待がない。

でも、まっとうに生きている限りはそんな人間にだって周囲を同じくらいに人生を楽しむ権利はある。

もし、親が多少金を持っていて与えてくれたらば、最低限金銭感覚を麻痺させず、ありがたみを

忘れないという前提の上で、そのお金で何か楽しんでもいいんじゃないかとも思うのだ。

 

言葉はちょっと不適切に聞こえるかもしれないが、周囲に人間と比べて、いろんなことを楽しむ

能力を与えられなかったぶんの金銭補填として。

 

考えてみれば親から能力をもらうか金をもらうかというだけの違いといっていいかも。

 

プロ野球のFAみたいなもので、他チームのスター選手をひっぱって獲得した球団が、その

選手が元所属していたそれなりの大金を払って、吊り合わせるようなモン。ちょっと違うか(笑)