西村賢太「痴者の食卓」他 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

痴者の食卓/新潮社
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子供の時に家族で食事していて、急にテレビからエッチなシーンが流れ出して

気まずくなるというのは昔からよくある話。


今でこそ地上波の規制が厳しくなっているが、昔は極端にそういうのがありすぎた。


まさかこの番組でそういうシーンが流れるとは思っていなかったと意表を突かれる場合も

あるが、だいたい子供ながらの傾向と対策はわかってきていて、メシ食いながら、この番組は

たとえ正月の家族の食事時間帯であっても、そういう映像を流すだろうなといった

キケンな臭いは感じることが出来た。

特にバカ殿の後半あたりとか。


とくに批判するわけじゃないが、当時のフジテレビの節操のなさはすごかった。

家族で夕食をしているときに流す映像として、ただ裸を出すくらいならいいが

いわゆる表現的なモノの規制がほぼ無いに等しかった。


オレは昔からモノマネが好きで、「ものまね紅白歌合戦」や「ものまね王座決定戦」

が夕食時にやっていた時は、だいたいみんなでメシ食いながら観ていた。


タレントがひとりづつ、モノマネを披露して終了したら次のタレントが登場するという流れ。

ひとりのモノマネが終わって、司会者が「続きまして次の方は……」と、言うたびに

食卓に座るオレの心臓はバクバク。


「頼むから、こうやって家族でメシ食いながら観ているときに清水ア○ラは出てこないでくれ…」

そう願うのを繰り返していた。


当時の清水ア○ラの下ネタは度を越えていた。

コンサートなどで演芸するぶんにはいいかもしれない。

だけど、夜7時の家族で楽しむ番組の中で、露骨すぎる性描写を含んだモノマネをするのだ。

はっきりいって裸が出てくるよりも数十倍重い空気が食卓を取り巻くことになる。


当時はまだ小学生だったので、詳しくは何のモノマネをしているのかわからない場合もあったが

なんとなくすごいシモをやっているというのは感じることができた。

そういう時は、ただひたすら意味がわからないフリをして、キョトンとした表情をしながら

味噌汁でもすすって、ただただ清水ア○ラの芸が早く終わるのを祈ったものだ。


小学生でもオトナの世界のルールやモラルの存在をなんとなくはわかっていたので

正月のモノマネ特番などがあった際は、

「いくら清水ア○ラも、新年のゴールデンから下品なことはしないだろう」と思ったこともあったし

また、「フジテレビの番組スタッフもそういうネタをやらせないし、やってもカットするだろう」と

くらいは考え、それを期待していた。


それでも結果としてやるのが清水ア○ラ。

そして、それをそのまま流すフジテレビ(爆)


たとえお茶の間が凍り付いても、実際数字をとるためにあの露骨なネタをゴールデンで

流していたのか、それとも、ものすごい表情で清水ア○ラをにらみつける淡谷のり子先生の

画が欲しかったのかわからないが、とにかくあの節操の無さはすごかった。


今のテレビの規制は厳しすぎるような気もするが、あの頃の電波は無法地帯過ぎたかも

しれない。まさに両極端。


そういった例を考えると、家族の食卓にしても、電車のシートにしても、あらゆる場所にある

椅子に座っていると、急に尻がひっついたような引力が発動することがある。

それは、その風景の中に何かそういった場違いなものが入り込んできた時に発動する。

食卓で言えば、その場違いなモノとはエッチなシーンである。



気まずいから、椅子から立ってその場から一度離れたいと思うのだけど、なかなか立てない。


「この場から抜けたい」という思いがあると同時に、周囲から「あ、こいつ気まずくなってさりげなく

逃げようとしているな」と思われるのも抵抗あるから。言いたいことわかるかな。


じゃあ、もうひとつの例。

電車のシート。

この場合の場違いなモノとは、ひとりで怒鳴りながら隣の車両から自分のいる車両に歩いて

移ってきたオッサン。あるいは駅に停車した時、ヘラヘラ笑いながらひとりごとブツブツいって

乗り込んできたオッサンのような種類。


自分のいる車両に入ってきた瞬間にその異様な気配に勘弁してくれと心で呟く。

だんだん近づいてきたので、頼むからそのまま自分の前を素通りして、前の車両まで歩いて

いってくれと願う。


ところがどっこい、よりによって自分のすぐ近く(最悪の場合は隣)に座りやがったりする。

座ってからもまだ怒鳴ったり、ひとりごと言ったりしている。


ヒジョーに気まずいし、その空間のいづらい……


だけど、座られてしまったらなぜかもう立てないのだ。

別に足首に鉄球付きの枷がはめられているわけでもない。

ジーンズのケツを瞬間接着剤でシートと結合されたわけでもない。


物理学的には、ただ腰をひょいと持ち上げればいいことだ。そしてさりげなく別の車両の移れば

イイだけの話。

そんな簡単な作業なのに、なかなか難儀なのだ。


理由は食卓でエッチなシーンが流れた時と同じ。

周囲から「あ、あいつ逃げてやんの」という目でみられることに感じなくても恥ずかしさを感じないといけないからである。

また、ヘタしたら当人から「おい! 兄ちゃん! オレが座ったから逃げたんだろ!」と車内で

怒鳴られる可能性もあるからそれも避けたい。



「食卓」という文明は一家団欒の場でホノボノとしたイメージがある反面、気まずい時は

拷問部屋のような存在にもなる。


椅子という道具は、本来は人が自分の体の負担を抑えるために作られた発明だが、

時として、それは人を気まずい場所から逃れさせなくする拘束器具のようなものとなるのだのう。

(立っている時であれば、そういった場違いなものが入ってきても、比較的そそっと逃げやすいと

思える)


そういえば、自分たち以外にお客がいなくて、なおかつBGMがまったくかかっていない韓国居酒屋に上司と

ふたりで行った時も辛かった。

図書館のように静かな空間でいくつも年上の上司と向き合うこと約2時間……

その間ずっと仕事の話だけ。息苦しいこと、この上なかった。

キムチ食ってても、鉛を口にいれて胃に流し込んでいるような感覚だった(笑)


食卓という現場は、一緒にいるのが誰かということと、それを取り巻く環境で楽しい時間にも

なれば苦痛な時間にもなるということを覚えておいたほうがいい。


ちなみに、よく「食事はみんなで食べたほうがいい」とか「大勢で食べたほうがおいしく感じる」

とかいう人がいるが、オレは出来ればひとりで食べるか、気の合う2,3人で食べたほうがいい。


ひとりで食べれば素材の味に集中できる。

大勢で食べると、自分が「美味い」と思った料理に対して、ひとりくらい「これイマイチ」

と口にする奴が絶対いて、せっかくの良い気分が粉砕される。


オレなりの教訓。

「本当に好きで楽しみたいものは、ひとりでやるべきだ」

とか言いつつ、オレもなかなか一人で酒場放浪できる道連れを引き込んでいるんだけれど。

いつかはひとりでも数人でも、両方で楽しめるようになりたいね。


そんなこんなで食卓に関する経験や持論を書いてきたけど、ここで紹介した西村賢太の作品は

厳密に言えば、食卓というよりも、食卓で使う鍋の購入を巡って起きた同棲相手とのイザコザ。


詳細はレビューを読んでください。




今回のもう1冊。


パズル崩壊 WHODUNIT SURVIVAL 1992‐95 (角川文庫)/KADOKAWA / 角川書店
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法月作品は何気に初チャレンジ。いわゆるミステリー作品。


短編集なのだが、正直言うと波長の合う作品と合わない作品があった。

だから失礼ながら数篇は、ある程度読んだあたりでトバしてしまった(爆)


でも、文章表現というか、言葉の言い回しはかなり勉強になった。

他の作品も時間ある時読んでみたほうがいいかな。