姿なき第3の原爆投下 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

去年の年末あたりから年始にかけて「戦後70年」というワードをよく耳にした。


そういえばちょうど去年、最後のエノラゲイ搭乗員と言われたアメリカの

セオドア・バンカーク氏が亡くなったという報道が流れた。


バンカークおよび原爆投下の件に関しては4年ほど前にこのコラムにて

『はだしのゲンへの手紙』 という記事を書いたので、まだ読んで頂いていない方は参考に

リンクをご覧頂ければ幸い。



戦後70年の直前(かな?)にして、バンカーク氏がこの世を去ったということは何か

暗黙のメッセージか、歴史的な時代を向かえるにあたり神々による証拠隠滅が行われたと捉えられなくもないと個人的には感じてしまう。

ちなみにオレは無宗教なので。念のため。


年末によく放映する振り返り特番の「今年なくなった人」というコーナーではバンカーク氏が

紹介されていた。日本人は心が広いと感じた。


今さら正論すぎることをいうのは控えると断わったうえで言うと、始まってしまった

戦争に関してはそこで武器が使われるのは当然の流れだと思う。

だが、そんな武器の中でも「原子爆弾」というのはあまりにも非人道に値するのは誰もが承知。


そんな「バケモノ」を唯一落とした国がアメリカで、落とされた国が日本。


広島には「リトル・ボーイ」、長崎には「ファット・マン」が投下された。


しかしオレは思った。

アメリカは日本全土にもうひとつ、原子爆弾を投下させていたのではないだろうか。

姿なき原子爆弾……

いや、「原子爆弾」というよりも「源資爆弾」と表記したほうが的確そうな、姿なき思想の爆弾。


「リトル・ボーイ」「ファット・マン」に続く3つめのその源資爆弾は、海外視線から想像するに

「エコノミック・アニマル」という名称がつけられていそうだ。


それは日本に勝利した経済大国アメリカの思想粒子の詰め込まれた爆弾。

敗戦後の復興方向において、巨大な経済大国にどこか憧れて目指し手本にしてしまった

結果、格差の拡大が止まらないアメリカの二の舞、いやもはやここでそれを追い抜いて

ナンバー1になってもおかしくない状況になった今の日本。


国土全体が姿なき3つ目の爆弾により、資本主義という観念に被爆しているように見えてきた。

そして、その後遺症として日本あちこちで見られる現象が「格差拡大」と「自殺者増加」だ。


そう、実際に年間3万人以上が死んでいるのだからこれは純粋に被害だとは言える。

年末にあって飲んだ友人いわく、その3万人が生きていればそのぶんの労働力は

確保されているわけだ。だけど毎年格差や貧困をあおるようなシステムを野放しにするために

貴重な労働力を1年間に3万以上(最低限)失っていることは、ひょっとしたらコレは資本主義としてもすでに破たんしているんじゃないかということだった。

なかなか的を得ている。資本中の資本というのはそもそも労働力だと考えている。

モノを生産する貴重なその労働力を排除するような社会であれば、もう資本主義ともいえないのではないだろうか。


アメリカの持っていた資本主義に被爆した日本。いまだに除染しようとする気配はない。

むしろ原発行脚する政府はじめ、さらに拍車をかけようとしているくらいだ。


「リトルボーイ」と「ファットマン」の2つに関しては、世間から決断力のない大統領だと思われる

ことを懸念したトルーマンなどの決断で意図的に投下された爆弾に違いない。


しかし、第3の爆弾に関しては、果たしてアメリカが意図的に落としたのだろうか。

日本も自国のようなシステムにするようにと企んだのだろうか。


その時代を生きていないから正解はわからないが、違うかもしれない。


「投下した」ののではなく「ただ落とした」だけかもしれない。

あるいは「爆発しなくてもいいし、迎撃されてもいいからとりあえず落としてみた」程度だったかも

しれない。


いや、もしかしたら空中で破壊出来る程度のものだったにも関わらず、 日本はあえてそれを

空中にあるうちに破壊せずに、受け入れるように爆発させてしまったのかもしれない。


あるいは破壊するわけでも爆発させるわけでもなく、そっと不発状態で捕獲して、それを分解して

研究することでアメリカの資本主義というシステムと、それの作り方を勤勉ゆえに学んでしまったのではないだろうか。


分解して研究するためだけならいい。だけど分解した時に中に含まれる‘ソレ’が実は漏れて

いたのだ。そしてやがて広まってゆく。アメリカの負の粒子が。


実際観てはいないが、ニカウさんが出ていたブッシュマンシリーズの映画で上空を飛ぶ飛行機から放り捨てられて地上に落ちてきたコーラの空き瓶を、現地の民族がなにか神様からのお告げだと思って広い崇め奉るようなエピソードがあったと聞いたことがあるが、それと同じように敗戦国と

なった日本は、アメリカが落とした見習わなくてもいい思想を、大国になるための神聖な考えとして拾ってしまったのではないかと思えてならない。


となると、第3の爆弾は炸裂はせず不発に思ったのだ。

ただ爆発しないだけなら良かったのだが、日本はそれを大事に回収し、分解してその仕組みを

調べて同じようなモノを作り上げれば当時のアメリカのような経済発展を成し遂げることが出来ると思い、技術を重ねた結果似たような種類で、さらに性能が高い思想の「源資爆弾」を国じゅうに

ばらまいてしまった。


そして扱いがヘタな富裕層はそれを国内で爆発させてしまい、思想の被爆は連鎖してゆく。


もう手遅れかもしれないが全くやらないよりかは今からでも「資本主義」に汚染された

土地の除染作業をしなければいけないのではないだろうか。


そう考えると、オレらが生まれる前からもう70年も汚染されたままになっているのか。


こうして普通に暮らしている空間の中や、飛行機の中にもわずかな放射能は存在する。

レントゲンなどの医療にだって多少は必要である。

そう、多少はどうしても必要だったり、あって当然だったりするのだ。

だが、第3の爆弾のもった威力と、その後遺症はあまりに強すぎた。


国を上手く守ったり、他の国に大差をつけられないようにする意味での抑止力となる

多少のアメリカ粒子を詰め込むだけならよかったのだけれど、識者はあまりにも強力な

爆弾を作り過ぎてしまったのだ。

それは使い方によってまさに「繁栄」にも「破滅」にもつながる諸刃の剣にして、悪魔の兵器。


このままではアメリカと共に自爆へのカウントダウンも必至だと危惧する。


最近は「21世紀の資本」とかいうぶ厚い本が爆発的に売れているようだ。


こうやって書いてきたけど、資本主義のすべてが悪いというつもりはないというのは

今まで何度も書いてきたのでそのへんは割愛する。


文学有志の知人と会うと決まって、資本主義の終焉だとか、日本はもうダメなんじゃないかと

かいう話が飛び交うが、他の面々に「日本はもうだめなんじゃないか」というと

「そんなことねえよ」とか「終わらねえよ」という答えが返ってくることが少なくない。


でもオレらがそうやって嘆くのは決して自国を否定しているわけでもなければ、嫌っているわけ

でもない。逆に好きだからこそ、そういった面倒くさい話からも目をそらさずに憂いているわけだ。


ほどよい競争だって必要だろう。だけどバランスやタイミングというものもある。


格差を拡大されてまで一部の発展を求める必要はあるのだろうか。


海外に対するアピールか?

日本の主役は「日本」じゃない。「日本に住むすべての人々」ではないのか?


格差や過剰資本主義反対と言っているからって、別に富裕層などに対して貧乏になれとか

地獄におちろとか言っているわけじゃない。


むしろ、今これを読んでて「オレは資本主義賛成だ」と言っている人も含めた‘すべての人’

がそれなりに安定した幸福な生活を出来る世の中を望んでいるということだ。


そう……偏りはないけど安定とトリクルダウンは誰にもしっかりと存在する世界。


作家の司馬遼太郎も言っていたらしい。

日本は一番最初の段階で方向を間違えたと――


全てすべきだとはいわない。今からでもある程度の除染作業はすべきだ。



さっきも書いたが「資本主義はもう終わったんじゃないか」と投げかけると

「ダメじゃねえよ」だとか「終わってねえよ」と言う声が返ってくる場合が多い。


日本という国はたしかに忍耐と持久力がある。


だから、終わったように見えて実はまだ終わってなかったりするかもしれないし

崩壊へのカウントダウンもまだ始まっていないかもしれない。


だけど時間がたてば、ずっと先だと思っていた時期なんてあっという間に来てしまう。


カウントダウン開始はまだ始まっていないかもしれないけど、

‘カウントダウンを開始するまでの「カウントダウン」’ 秒針は確実に動き始めている。


我々がこれからどう動くかだ。


平和な時間というものは稼ぐためだけにそこに流れているのではない。



最近思ったこと。



戦争を身近な存在にしたいという人の感覚も危険だけれど


戦争から離れ過ぎた環境にいる人の感覚も別の意味で危険かもしれないということ。