リアルからの逃避 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

物語を書く作業をしていると悩む部分がある。

惨状な場面や、冷酷で凶悪な妄想の描写だ。


オレは執筆開始当初は、発信したいメッセージでがっちり固めた文章や描写を詰め込んだ

物語を書いてゆくつもりだった。

だが、2作目を書き終えた時に、それは違うということに気づき、メッセージや警鐘の密度の濃い

作品を書くのはやめた。

純文学に露骨なメッセージは必要ない。友人からも追ってそれが正解だと聞いたから

まんざら間違った判断ではなかったようだ。


ただし物語を紡ぐ材料として、ところどころにそういう要素をちりばめてゆくことは絶対必要である。

つまりは散りばめるバランス。

メッセージ性をチョコレートに例えるならば、板チョコやチョコボ―ルを作るのではなく、

チョコチップが数片埋め込まれたクッキーを作るようなものだと思っていただければいいかも。


その「チップ」にあたる部分としては、そういうメッセージ性というか、けっこうキワドイ描写などは

使用する。それは文章の実力が備わっていないと、たんなる話題狙いの過激描写だと捉えられる

リスクが伴う。今のオレにはどこまで書くことが出来るか、そして書く資格があるか悩む。


映画監督のマーティン・スコセッシは暴力が大嫌いで、だからこそそれを映像にする際には

出来る限りリアルに残酷に演出しなければ、暴力がどれだけ醜いかということを観客に伝えることが出来ないということは以前に書いた通りだ。


それには同感で、メッセージ色を含んだシーンにせよ、そうでないにせよ本当の惨劇や悲惨さを

観客や読者に伝えて想像されるには、出来る限りリアルでなければならない。

それはイコール、不快にさせてこそ、題材になったモノの醜さや酷さが伝わるということになると

オレは捉えている。


オレがそれについてどこまで踏み込んでいいのかという葛藤。

ゆるければ伝わらない。リアルを狙えばドボン。

昔、風雲たけし城であったゲームで勢いつけてサーフボードに腹ばいで乗って

ローラーの台の上を滑り、「↑マーク」と「台が途切る池ドボン」までの間で泊まれば合格の

ゲームみたいだ。



先日も記事で書いたが、被災地を舞台とした4作目を友人に見せた際、「風景描写が漫然」

「惨状が伝わってこない」という厳しいながらも納得の助言をもらったばかり。

簡単に言えば「惨状のリアル」が決定的に不足しているわけ。

なぜ現場のリアルな風景を伝えられなかったか。

理由は簡単。

オレが現場を直接見ていないから。そして被害自体を受けた身ではないからだ。


テレビでは何度も見た。だけどやはりそれじゃ、ダメだったのだ。

それは「肉眼ではなく映像だったから」という問題だけではないような気もしてくる。


オレみたいにそれをテーマや舞台に物語を書くとかいう作業をしていなくて、」ただ普通に

生活の一部として、そういう被災地の映像や事件現場の映像を見ていても、オレらはまだたぶん

ほとんどのリアルをわかっていない。


報道で流れる荒涼とした津波被害の現場映像を見て、翌日の学校や職場で

「あの現場すごいひどかったね」とか「あれが自然の恐怖だね」とか言いあったり

親や教師も子供に対して「災害(事件)っていうのはあれくらいひどいものなんだよ」

と教えるだろう。


だけど、多くの人が気付いていると思うが、ニュースで流れる映像や写真というのは

報道する側の‘配慮’と‘自主規制’のいようなものにより「もっともリアルで凄惨な場面」が

編集されているのだ。あるいは瞬間が瞬間だけにその映像がないだけ。


うまく説明しないと誤解を招きそうだが、街のすべてが洗い流されて更地に近くなった風景は

言ってみれば「もっとも恐ろしいリアルが去ったあと」の状況だと。

津波が堤を乗り越えて家や車を飲み込んだ瞬間はまだはじめだ。

だから報道出来る。


本物(リアル)の自然の驚異と、被害者の人の味わった恐怖は映像で流されていない

「津波が引いたすぐ直後」にあったはず。


ニュースで見る津波序盤の中では水に流されゆくのは車や家や材木だけだ。

しかし、現実的にその場にいたら目の前を‘流されてゆく’のはそういう物体だけではないはずだ。

そう、波に飲み込まれてしまった被害者の人の遺体がたくさん漂っていたと聞く。


現地の人からすれば濁流の怖さだけではなかったと思う。

知っている人間が、いや知り合いでなくとも目の前を人間が流れてゆく衝撃と悲しみがあったはずで、それこそが我々が知っておかないといけないリアルであると思う。



ここ数年多発している「通り魔無差別殺傷事件」や「暴走車事件」の現場報道も同じ。


よく映像で流れるのは血がついたアスファルトと、それを検分する警察の映像。

最近はユーチューブなどの動画の普及によってモザイク処理されたうえでの被害者が写った

‘事件直後’の映像なども流される風潮はあるが、それに関しても本当のリアルは放送されない。

本当のリアルとは「刺された瞬間」だ。放送されないというか映像が無いというのが妥当か。

オウムの村井刺殺事件の時のようにたまたまカメラが近くにいて現場をとったというのはあったが

刺した瞬間の刃物と傷は映っていなかった。


ホンモノの凶行犯が事件現場に描く地獄絵図には当然規制なんてない。

規制がない人間だから凶行に走ったのだ。


そこで目に入った人間を見境なく片っ端から刃を振りおろして殺す。


母親が押す乳母車の中にいる赤ん坊をめった刺しにしたり、車椅子に乗った人をまっさきに

ターゲットにして椅子から引きずりおとし刺したり、杖をついて仲むつまじく二人で歩く優しい老夫婦にだって目についた瞬間に刃物を向ける。


この例を読んで不快になった方もいるかもしれない。でもリアルというのはそういうものだ。

そしてそういうリアルから身を守るように心がけるためには、そのリアルをある程度頭に

叩きこんでおかないといけないのではないだろうか。


また、よくあるこのテの事件を取り上げたドラマや報道番組の再現VTRにおいても

製作側による暗黙の配慮と演出と規制が潜んでいるとオレは感じる。

もっとも頭に入れておかなければならない「リアルな部分」が柔らかく演出され編集されているのだ。


犯行後の現場として再現される現場には被害に遭った人(死体)の役者が血だらけになって

道路に横たわっている演出が多い。

横たわっているほとんどの被害者(役)が一般的なサラリーマンだったり主婦だったり、または学生服をきた若者だったりする。

子役として赤ん坊が死体役であおむけで血まみれになっている演出を見たことってないでしょう?


ここでさっき話を思い出して頂くと、この再現がリアルではないのがわかるだろう。

襲われて倒れているのはよく目にするような位置にいる人だけで、そこの死体の中に

赤ん坊、妊婦、松葉杖をついた人は倒れていないのだ。


再現VTRやドラマの中で凶行犯が人を刺す瞬間の演出として悲鳴と同時に地面に血が飛び散る

映像を流したり、車で女性を撥ねたりする瞬間の演出として、衝突音と共に片方のハイヒールが

スローモーションで宙を舞ったする手法が使われるが、リアルな現場ではそこでひとつの絶命の

瞬間が誕生してしまっているのである。


だけど製作側は上のようなオブラートに包んだ演出をする。

もちろん、あえてそのシーンだけ映像にせず演出することで視聴者に残酷さを想像されるという

試みも存在するではあろうが、でもほとんどは「クレーム防止」と「視聴者が気分を害さないための

配慮」であると感じられる。


野島伸二脚本で、いじめ自殺をテーマとした「人間・失格」という赤井英和主演にドラマが

20年くらい前に放送された。

その時に、給食のスープに釘を入れたりするいじめのシーンがひどすぎるという苦情がTBSに

殺到したが、その反面、いじめられた人間からはよくリアルに再現してくれたという声もあがった。


いつの時代にも、残酷なシーンやむごいシーンの描写に敏感な視聴者というのはいるものだ。


だけど、再現TTRや実録事件ドラマの中に関して言えば、はっきりいってすべて「ウソ」であるのだ。

実際には誰ひとり死んでいない。殺したフリ、死んだフリをしているだけ。

血だって血ノリだ。

さらに配慮された演出で、実際起ったことよりもかなりソフトに表現されているには違いないと

思う。


それでも…… 赤ん坊や妊婦や障害者や高齢者が刺された瞬間、そしてその傷口と血まみれに

なった姿などを生々しく映像化すると、クレームを入れる人が出てくるのだろう。


たとえウソの世界であっても人々は残酷な演出というものに反対し、そして拒絶する。

それはそれで人間として正常な反応なのかもしれない。

基本はオレだって血が苦手だ。例えニセモノでも。


だけど思う時がある。


実際にあった事件や災害がどのくらい酷いものはを知って語るのなら、よりリアルでトラウマに

なるくらいの映像を見ておかないといけないのではないかと。

たとえ死体の映像であっても。

もちろん、被害者のプライバシーやご遺族の心境からすれば、身内の変わり果てた姿を

多くの人に見せたくないというのは当然なので、あくまでも、こちら側の心構えというか姿勢と

してだ。


被害から離れたところにいるオレらは、あの事件の酷さや、あの災害の悲惨さをもっと知るべきだとか強くいいながらも、自分が見たくない残酷な場面や不快な場面である「最大のリアル」から

目をそらしぎみになってはいないだろうか……とか最近考えたりする。