叱咤という名のNOデリカシー | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

あくまで主観です。

世の中に確実な正解なんて存在しないのでひとつの価値観として思考回路に受信して

いただける方のみ以降の記事をお読みください。このコラムは「厭世エンターテイメント」です。


また念のためにいっておくと、こーゆーテーマを書くからと言って別に最近そういうことを

言われたワケではない。これまでの人生では2、3度言われたことはあるが言われた直後に

書くとまるで哲学性のない負け惜しみや愚痴に聞こえてしまう恐れがあるから、最近言われて

いないうちに先手を打って書いておく。


もう何度も書いているから詳細は書かないが、オレは言葉の偏食がとても激しいほうだ。

簡単に言えば、世間ではイイ顏をして蔓延しているような言葉が大嫌いな場合が多い。


湘南新宿美容外科の医師たちが好きな言葉のほとんどが、そのままオレの大嫌いな言葉に

あてはまる。

その嫌いな言葉のほとんどが単語や熟語なのだけれど、よく聞く「セリフ」や「文章」でも嫌いな

言葉はある。


その1つが

「自分だけが辛いと思うな」というセリフ。

類似に「自分だけが悲惨だと思うな」「自分だけが特別だと思うな」

というセリフも含めて。


自分が言われた場合に限らない。

まったく赤の他人が誰かに言われたのを聞いても不快。

というか違和感。言っているほうの人間の感覚をちょっと疑う。


ちょっと聞くと多少山椒をきかせた辛口の優しさ、いわゆる叱咤激励に聞こえるかもしれない。

でもオレはまったくそうは思わない。

相手は相手で本当に心配はしているのかもしれない。それは否定しない。

まったく心配していないとはいわないが、ひとつ言えることは「激励の仕方が限りなくヘタだ」ということと「デリカシーに欠けていることに本人が気づいていない」ということ。


これはヘリクツでもなんでもなくまさに現実的に該当してもオカシクない確率の理論である。


ま、全世界の人口でいうと天文学的な数字になるから、あえて日本だけの人口を基準として

話を進行してゆく。


鰻の社会において稚魚が減少したのと同じく、子供の数が減ってきたとはいえ日本の人口は

昔から約一〇〇〇〇〇〇〇〇二〇〇〇〇〇〇〇人と言われている。


さきほど書いた人たちの言う「自分が一番不幸だと思うな」というセリフに、この数を重ね合わせて

よく考えてみよう。


いくら狭い島国だとはいえ、億2千万の人間も人間がいる中で、たしかにその中のおける不幸の

ピラミッドの頂点「トップ・オブ・不幸」になる可能性は限りなく低いといってイイと思う。


だけどたとえ、その確率が何倍であろうが、その対象の数が0(ゼロ)ではない限り、最低ひとりあるいは同率で1人以上の確率で誰かが必ず該当するはずなのである。


たとえば1から100000000までの番号を書いた紙を一億人に配る。

そして同じく1から100000000までの数字を書いたクジをハコの中に入れて引いて

その数と同じ数字を書かれた紙をもった人には賞金をあげるというゲームをやった場合

参加しただれもが「自分があたることは絶対にない」と思うだろうが、そう考えているうちの中の

誰かは「必ず当たる」のだ。


同じ理論で、この地球上に「人間」が存在し、またその人間界の中で「悲惨」という状況がある限り、いつか誰かがどこかでその瞬間だけでも「一番辛い人」「一番悲惨な人」には当てはまっているはずである。


と、そういうふうに言っても、治らない病気の人のほうが絶対に辛いとか、大事な人を失った人のほうが明らかに辛いという意見も出てくるだろう。


内容としてはたしかにそういうへヴィな心の傷や病気、過去の経験を背負っている人のほうが

人生全体における平均的なダメージは大きいだろう。一生抱えていかなければならない。


だが、さっき書いたように平均では自分たちよりずっと辛い人たちがいたとしても、その「瞬間」

あるいは「数日」「数時間」という単位で考えると、そういった人たちよりも自分および自分たちの周りの友人のほうが瞬間視聴率的がパーンと跳ね上がり、「日本で一番可哀そうな人」になっていることだって可能性だってあるのではないだろうか?

オレの中では勝手にこれを「瞬間不幸率」と名付けているのだけれども。


たとえば一生取り返しのつかないことをしてしまった人、

または取り返しのつかない状況に追い込まれてしまった人がいたとする。

その人達は大変辛いと思うけれど、これから生きてゆくなかで心の傷の痛みや憂鬱が

完全に晴れる日はないかもしれない。


だけれどたまにでも気分転換や付き合いで友人や家族や恋人とかと、食事やカラオケや

パーティやデートに行って楽しくて笑ったりはじけたりする‘瞬間’というのは少なからずあるはずだ。

そしてほんの数分もしくは一瞬だとしても、‘その間だけ’はその人の「不幸率」は一気にゼロまで

下降しているとオレは思う。


同時にその瞬間、ふだんはどちらかといえば平凡な生活を送っている人間でも、病気やら陰謀やらにかかってこられて、そのうえ仕事でも友人関係でも家庭環境でもすべての局面において不幸が一気に集中攻撃をしかけてきている環境に陥ってしまった人間がいてもおかしくはない。

その瞬間(数分、数日)は、普段何気ない生活をおくっているように見える人間が、実は日本中、

で最も「可哀そうな人」「辛い人」だったりする可能性もなきにせよあらずだ。


そして、さっきもちらっと書いたとおり、人間が悩みを抱える環境というのは一か所だとは

限らない。またその辛さの件も一件だけとは限らない。


労働環境が厳しい職場で毎日つらそうな顏や疲れた顏をしている人がいたとしても

その疲れた顏の原因は仕事に対してだけとは限らない。

複雑な家庭にいる人が家の中で疲れた顏や悩んだ顏をしているからといって、その原因が

家庭環境だけとは限らない。


実は周りが想像している以上に、多くの多様の方面からの悩みを1人で抱えている場合が多いのだ。

ここでも心配の仕方がヘタな人間は「仕事以外(家庭以外)でも何か悩みがあるのか?」

と聞いたりするが、多くの人間にとって仕事の出来や家庭における状況を他の場所の人間に

打ち明けることが恥ずかしいという感情は少しはあるはず。

だから本当は他の環境や事柄における悩みがあったとしても、ほとんどの人はそこで「ない」

と答えておくはず。


それなりに感のいい身内や指導者なら、そう言われても表情や様子から「本当はある」という

ことを察することが出来るだろうけど、残念ながらほとんどの人間がそのまま鵜呑みにして、

他に悩みがないんだったら、この場所のことだけであんなに辛そうな顏をしている――という

結論に結び付けて、最初の書いたように「お前だけが辛いんじゃない」だとかいうデリカシーの

無い発言を平気でする。


人間の感情や表情を抑制する力は∞ではない。

悩みのない場所にまで、別の悩みを持ちこむのはやめて辛い顏はしないようにしようと

しても、完全に抑えることは不可能だと思える。

そのちょっとした表情がもれて少しの間継続した時、それをみた鈍感な人間は「甘えている」と判断して「お前だけが……」といったデリカシーのない叱咤をする。

いや、叱咤ではない。オレからすれば暴言だ。


言われたほうが本当にとことん甘えている場合があるのは承知。

そういう場合は叱るのは当然。


叱るのは当然だけど当然だけど、そんな状況でも

「自分だけが辛いと思うなよ」

「自分が一番可哀そうだと思うなよ」

「自分だけが特別だと思うなよ」

という言葉はやはり許せない。


神(という表現は好きじゃないけどあえてそういう言い方する)の視点でもみて、実際に甘えていたとしても、何故ソイツ(言った人間)に、その人が「一番辛いワケじゃない」ということが断言できる??


家族や兄弟だって、本人が仕事や学校に行っている時は目を離している。

職場の指導者だって、本人が帰宅したあとは目を離している。


その人のすべての環境や状況や人間関係を知りつくしているわけでもないことから、さっきも

書いたとおり、どの場面からどんな悩みをいくつ抱えているかも知らないわけであり、24時間

365日付きっきりで監視してすべて理解しているわけでもない人間が、どうして

「お前だけが一番辛いわけじゃない」だとか「自分だけが辛いと思うな」とか

「自分だけが特別だと思うな」と言い切れるのだろうか。

その断定する根拠はきっとない。


自分が見ているだけの風景からの判断と、これだけの人間がいる中で、こいつが

一番可哀そうで辛い人間のはずがないという、宝くじの期待に似た根拠なき決めつけである。

くどうようだがオレの主観(笑)


前の西武ライオンズの感謝祭に行った時、開催時間前に西武球場前駅で一部の新人選手と

コーチによるトークショーをやっていて、開催時間まで見学していた。

当時(今もか?)コーチだった石井貴が話していて、新人時代、監督だったMさんから

「おまえはプロをバカにしてるといったようなことを言われた。バカにしてないのに」

と半分笑い話のような言い方でM批判?をしていた。


実際、その時にどんなやりとりがあってどんな様子だったのかとか、石井貴が本当にバカにして

なかったのかはわからないが、石井氏の気持ちはよく理解できる。

自分も似たような状況に何度かおかれたから。


たしかに周りから誤解を招くような顏はしていたかもしれないし、とても辛そうな顏もしていたかも

しれないが、だからといって決して「自分が一番辛い」とか「自分だけが悲惨だ」なんてことは微塵も思っていないのに、いきなり断定で「自分だけが辛いと思うなよ」って言われたことはある。


でもムカつきもしなかったし、イラっともビクっともしなかった。そもそも図星じゃないから。

むしろボー然(笑)


これっぽっちも思ってないことを一方的に言われたんだからそりゃボー然とする。

微塵の興味もない異性からいきなり「あなた、私のこと好きなのわかってるわよ」と

言われてボー然としない人はいないだろう。そんな感覚に似てるんじゃないかなって思った。



相手のすべての環境を知っているかのように上から目線でそうやって

「自分だけが○○だと思うなよ」といった叱咤をする人こそ、自分が他人の全てを見透かして

上から目線で注意出来るような‘特別な人間’だと心のどこかで思っているような気がしてならない。


オレは決して「叱るな」とか言っているわけではない。

ただ、これまでに書いたような叱咤激励をする人は叱り方がヘタだと思う。


オレが誰かが甘えているように見えたり、ちょっとしたことで辛そうな顏をしていて、とりあえず

叱ることはあっても「自分だけが○○だと思うなよ」という言い方だけはしないように心がけていいる。


オレはその相手のすべての環境や状況を理解しているわけでもないし、もしかしたら瞬間だけでも

日本中で一番辛くて悲惨な人間に該当しているかもしれない。

そして、まるで全ての人間の環境を知っていて比べられる神のように、他人に対して

「お前だけが……」とか言えるような資格を持った人間でもない。


昔から学園友情ドラマや教科書の中でよく出てきて、現実のあらゆる場所でもよく耳にする

アツイとされる言葉が自然に名言として市民権を得ているケースが多いが、今回の「自分だけが

○○だと思うなよ」を認めないのと同じで、どんなに名言やお約束としてその地位を獲得していても嫌いな言葉は認めないし、使わない。


職場でもプライベートの場でも世間でよく聞くセリフを出して熱く語ったり訴えたり叱咤する人間も

いるけど、そういう人間は「言葉の代理店」に過ぎない。

他人がつくって評判がよかったセリフを見つけてきては、まるで自分の言葉のようにしてしゃべり

誰かに売りつける。


オレはそうなりたくない。

「言葉の一流代理店」であるよりかは、どんなにチープにみえたとしてもほとんどの言葉を自分で作りあげて相手に販売する「言葉の三流メーカー」でありたいと思っている。