為末ツブヤキ×竹田発言 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

オレはツイッタ―というコミュニケーション手段に加入していないから現場のことは詳しく知らない

のだが、少し前に図書館にて雑誌「AERA」を読んだら、アスリート為末大のツブヤキが物議を醸しているとのことでちょっと読んでみた。


それを話題の頭にして、今回は

「基本その人は好きじゃないか、もしくはそんな興味ないけど、その件に関してだけは多いに賛同する話」

でもしておく。


アエラの内容によると、アスリートの為末大がツイッタ―で


『やればできると言うがそれは成功者の言い分であり、例えばアスリートとして成功するためにはアスリート向きの体で生まれたかどうかが99%重要なことだ』


と呟いて物議をかもしたとか。

オレは個人的にスポーツが好きじゃないというものあるが、そういう個人的な感情は抜きにしても

どうも精神論やアツくて押しつけがましい熱血論が多いスポーツ選手(元も含む)の発言は好きになれなかった。

だけど、今回の為末氏に関しては、おそらく生まれて初めてアスリート系の流れを汲んだ人の発言で感動に近いものを覚えたかもしれない。


まったく持って正論であるし、ちゃんと現実をわかっている人じゃないかと見なおした。

だけど世間の意見は賛否両論で、批判も多かったらしい。


批判の中にもいろいろあって、その中でも

「正論だからこそ、言ってはいけない」

という反応はまだ言う人の気持ちがわかる。


子供も聞いているかもしれないのに、ある程度発言力もあり、実績ある人がそういうことを言うな

ということが言いたいのだろう。

そういった意見の要素には、もちろん精神論的なことも含まれてはいるのだが、でも言っている人は「正論」だと言う事は認めているわけだ。


でも批判する人の声としては「努力は報われる」という声が多いらしい。

そういった人の怒る気持ちも分からなくもないが、でもやはりオレは為末氏に意見に賛同する。


今回に限っては、オレのキライな精神論や熱血論を否定する前提を抜きにすると同時に、

オレの大好きな哲学論や多数派否定も抜いて考えてみてもそうだ。


いつもなら「1たす1は?」というお題に対して、オレだったら

「もしかしたら、その1というのは実は○○であり、もしかしたら4になるかもしれない」という

三流哲学的な答えを導き出すかもしれない。

また周囲の多くの人は

「たしかに現実的には2にしかならない‘けど’それをなんとか努力で3以上にしようとする意気込みが大事……」

とかいうことを口にする可能性が高いだろう。


だけど、今回に限って答えだけに関して言えば、オレの哲学も、周囲の‘けど’とかいう接続詞での精神論も抜きで考えて、為末氏の言葉は「普通に正解」だと思う。


たしかに報われる人間もいるだろう。だが、あくまで「一握り」だ。

為末氏の言う「やればできる」は成功者の言い分。自分が出来たからという前提。


この言葉は好きじゃないが、この記事の中では使う必要性が生じてしまうのでやむを得ず出すが

「努力」をするパターンにもいろいろある。

かけっこで一位、もしくは上位に入るといったような比較的簡単な努力から、難関の資格を取得するといったかなりきびしいものまでいろいろ存在する。


だから、何に対してかとかそれによってケースバイケースだから、「一概に報われるとも報われないともいえない」というお約束の答えになってしまったら例によって思考停止になる。


よって、ここからは過程の話なので少し哲学的になってしまうかもしれないが、

今までの人生における全ての自分の「希望」とそれに向けての「努力」したトータルの数を

振り返って、結果を出せたことが多いか、それとも少ないかをはじき出してみればいい。


「努力」したことを前提としたうえで、今までのいろんな挑戦。

100メートル走で1位になる、カラオケマシーンで100店とる。警察官になる。プロ野球選手に

なる。せいいっぱいオシャレしてバレンタインにチョコ5個以上もらう、英単語500個覚える。

モー娘に入る。早口言葉の学年チャンピオンになる。学級委員長になる。などなど……


規模の大きさこそさまざまだろうけど、誰もが今までいくつかもの目標を持ってきたはずだ。

その半分以上が努力でかなっていますか?


1つや、2つほど叶った人はいると思う。

また、ほとんどがつぶれたけど、最も大きいひとつの目標だけ叶った人もいるだろう。

でも、いくら大きいとはいえたくさんある中の一つということは、やはりそれは運のほうが大きいと

思う。


今回に限って記事でいいたいことは、だからと言って「努力なんかするな」ということでもなければ

「気持ちの持ちようでいい方向にゆくことが出来る」といった意見を潰そうということではない。


マイナスに考えるとかプラスに持ってゆこうとかじゃなく、「1たす1は2」のような単純な結果論として、すべてとは言わないがほとんど9割の確率で「努力は報われない」というのが正論だと思うと同時に、為末氏の意見がもっともだということだけ。

でも、そこまで言っても納得いかない人もいるんだろうなあ。


ここまで書ききったから、また少し哲学的な話になる……いや、逆に哲学でもなんでもなく

これこそ現実的で数理的な話になるのかもしれないが、自分が何になれるか、何が成功出来る

かというのは、やはり「運」の作用が強い。


まず、人間は自分で男に生まれるか女に生まれるかを実力や努力で選べない。

ものごころついた時期、心境的にレースクイーンになりたいと思っても、もし男に生まれていたら

その時点でどんなに努力してもなれないし、力士になりたいと思うようになっても女に生まれてたら、どんなに努力してもなることだができない。

(一部例外で、なる人やなれる人もいるにはいるけど、それはまあ、さておき)


極論に聞こえるかもしてないが、ヘリクツでもなんでもなく、これは「それに向いた体に生まれる」

かどうかという認識にそう遠くないのではないかと思えるのだ。


とくにアスリートであれば、筋肉の付き方とか生まれもっての体質が大きなポイントとなると

思うし、芸術家であれば脳ミソのバランスや、生まれもってもセンスが人生を大きく左右するだろう。

やはり、どんなに頑張っても生まれもっての向き不向きや、能力の限界というものがある。

ある意味、ルックスだってそうだ。

仮に小学校1年生くらいで、オレがジャニーズに入りたいと決心して、必死にバク転やらダンスやら歩き方やらを猛特訓したとしても、ぜったい入れないに決まっている。

極論ではない。外見、才能ともに向き不向きがあるというにはそういうことも含むのだ。


また、本人に才能があったり、その時はまだ甘くても将来伸びる可能性があったとしても

まわりにそれを見抜く人間がいるか、また周りの環境にマッチしているかどうかという「運」もある。


戦力外とかでなく、いわゆる「電撃トレード」や「大型トレード」に出された野球選手とかでも

環境運にされて最終的に報われなかった選手もいる。

捨てられたのをひろわれたのではなく、当初のチームでも安定して貢献していて実力もあったのに

チームの起爆というか活性化のため、他チームの実力選手との交換トレードに出された選手などだ。


かつて村田勝善というピッチャーがいた。

もともとダイエーホークスのエースで、負け越してはいたもののそれでも毎年2ケタ勝利をおさめ

開幕投手もつとめた人気投手だった。


その村田勝善がある時、西武秋山含む3人との大型交換トレードに出された。

オレは西武ファンとして秋山放出に大ショックをうけたのを覚えている。

いっぽうでホークスファンも、村田そして佐々木の放出に驚いたと思える。

(でも、「やった!秋山がくる!」とも思ったっぽいけど)


ファンとしては西武に来たからには村田を応援したが、それでもやはり当時の西武の管理野球下

に入り、寮にも入ったことで環境が変わり、ホークス時代の勢いが見れずわずか数勝でおえ、その1年後か2年後には再びトレードで中日へゆき、そこでも結果が出ずに引退された。

現在はどこか地方でNPO関連の仕事につかれているとかウワサを聞いた。


ずっとホークスにいれば、その勢いがずっと続いていたかどうかはわからない。

でも、環境が変わらなければもうすこしは長く活躍出来たんじゃないかと思う。

それも悲しき運だったんだと思う。


為末氏の話にもどると、彼は「何事にも努力よりも先に運がくる」としめていたが全く同感である。


すでに長文になってしまったけど、やっと

「基本その人は好きじゃないか、もしくはそんな興味ないけど、その件に関してだけは多いに賛同する話」 のひとり目、「為末の場合」が終わった…(._.)



そして、

「基本その人は好きじゃないか、もしくはそんな興味ないけど、その件に関してだけは多いに賛同する話」 のふたりめ。


おそらく本名よりも「明治天皇の玄孫」という肩書のほうが有名だと思われる竹田恒泰氏の発言である。

とある番組でオリンピック選手に関して

「負けたのにヘラヘラと楽しかったはありえない」とコメントして共演者のカンニング竹山などと

口論になったのがちょっと話題になったようだったので、動画を検索してみてみた。


なるほど……そういう流れね。


まずここでも改めて先に断わっておくが、オレは反対派の人と争うつもりは一切ないので

あくまで個人の考えを綴ってゆく。


オレは正直、あの竹田という人はあまり好きじゃなく、カンニング竹山はどちらかといえば好き

なのだが、今回の論争に関していえば、「竹田恒泰派」だ。


個人的には何もおかしいことを言っているとは思えない。


世界が注目していようが、各国の祭典だろうが、自分のカネで行ってプレイするぶんには

どうやって競技しようが、負けようが、どんなコメントしようが構わないし、国を背負う必要もないと

思う。極端な話、自腹なのだから遊んだってオレはイイと思う。


だが、たしかに国からカネを出してもらっている以上は、それなりに責任を持たないといかんのは

事実だ。

オレは責任という言葉は好きじゃないが、おカネを出してもらって何かをする以上はそれなりの

発言内容は重要だろう。

負けるのはしょうがないし、国のカネでゆくからには絶対勝てなんて品の無いプレッシャーをかけるつもりもない。勝つ人間がいれば負ける人間もいるのは当然だ。

でも、謝れとはいわないまでも、そこで「笑いながら楽しかった」はたしかにない。


本当はそう思っていないが、悔しい声や思いを抑えかみころしてそう言っているんだという声も

あるが、もし「かみころす声」があるというのならば、それは「楽しかった」という声のほうでは

ないだろうか。


国がいくら負担しているのははしらない。もしそれがほんんとうに雀の涙ほどの金額であれば

まあ、ほぼ自腹に近いものかと納得もいくが、それなりの金額だったらやはり言うべきではない。


「負けるな」と言っているわけでない。「楽しかった」とは言うなというだけのこと。


カネを出してもらい動くということ、もしくは動くためにカネを出してもらうということは

一般企業のサラリーマンと同じである。


よく、サラリーマンはもらっているぶんだけの金額を持ちかえらなければならないというような

ことを言う人がいるが、それこそ五輪選手も同じで、それが国際的行事や世界的イベントだから

といって、選手にたいしてそういう失言が免除されることはないと思う。


それこそ、とある企業の社長が、ひとりの社員に対して出張費を負担してアメリカの企業まで

一大プロジェクトの交渉に行かせたとする。

ところが交渉は決裂したとする。


戻ってきた社員が素直に「すいません」と言ったり、あるいは「だめだったけど、いろんな人と話して勉強になりました」とか言ったなら度を超えて怒るまではいかないだろう。


でも、ここでその社員がアメリカで観光とかしたわけじゃなくても、その交渉について

「だめだったけど楽しかったです」とか言ったら、おそらく社長は激怒するだろう。


オレはそういうことだと思うのだけど……。


誤解されそうだけど、オレは「負けるな」とも「カネだすな」ともいっていない。

むしろ、そういう発言する選手に対する批判というか、オリンピック選手だけ思想的に優遇する

のはちょっとオカシイのではないかという疑問。


そして、竹田氏の言葉に不快をしめす人が多いということだって理解は出来る。

で、竹田氏は個人を名指ししていっているわけでもないし、そういった選手の発言や態度を

不快に思う人もいるということだけを言っている。

それは間違っていない。だって現にここにいるわけだし。


この件だけに関しては全面的に竹田氏に賛成である。

その他はそれほど賛同することないと思うけど。


重めのネタがふたつ続いたので、最後にもうひとつだけ、オマケ的な軽めの

「基本その人は好きじゃないか、もしくはそんな興味ないけど、その件に関してだけは多いに賛同する話」


オレはいわゆるハルキストではないが、村上春樹はどちらかといえば好きなほうに入るかもしれない。

同じ村上でも龍のほうは、作品のテーマに露骨なエロが多いだけにあまり好きじゃないが、

それでも「コインロッカーベイビーズ」のようなかなり社会的で世界観のでかい素晴らしい作品も多いのでそのヘンは尊敬している。

作風と作者的ににあまり好きになれないのが石田○良……。


ただ、この前なにかの本を読んでいたら、石田氏がこんなことを語っていた。


「若くして作家デビューする人は、サラリーマンの話とかを書けないんです。村上春樹さんとか村上龍さんを読んでも、そのへんは甘いなあ」


これはとても説得力があった。

言われてみれば村上春樹の作品は主人公がけだるさを抱えた大学生とか予備校生とかが多い。

社会人だとしても編集者とか作家。つまりは現実の自分とリンクしている職業だ。


村上龍のほうも主人公が社会人であることは多いが、それでも探偵とかそういったアングラか

もしくは自営業的な職業の主人公が多く、朝6時か7時に起きて、スーツを着た肉がひしめき合う

電車の乗って、到着後に朝礼をやっているような勤めをしているサラリーマンの主人公というのは

あまりいないかもしれない。


石田○良のこの発言は、かなりの的を得ている。


そういえば、「桐島、部活やめるってよ」で有名になり「何者」で若くして直木賞を獲得した

朝井リョウ。

彼ほどなら大学出てから作家でそれなりに食べてゆけるかと思ったのだが、彼は企業に就職

しながら作家活動もするという「2足のわらじ」の選択をした。


本人いわく、大学出て、いきなり作家活動だけになってしまうと、サラリーマンの世界を全く

知らないままの大人になってしまうというようなことだった。

その選択はある意味立派だと評価する。


でも、就職先が「東宝」っていうのが、なんかちょっと引っ掛かるな……

企業側も「話題の直木賞作家がいる会社」というのを狙ったような談合が見えないでもない(笑)




さて、この3つの「今回だけはこの人の味方」という話。


3つともオレの意見に反対だった人もいれば、3つとも賛同だった人もいると思う。


ひとつは賛同だけど、ふたつは反対。

逆にふたつは賛成だけど、ひとつは反対という人もいると思う。


全部どうでもいいという人も多いだろう。


考え方はそれぞれでいい。


考えるということが自体が大事だ。