中二病 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

よく耳にする言葉に「中二病」というのがある。


簡単に言えば大人になっても「オレがルールだ!」とか「すべて社会が悪い!」とかいう

中学2年生くらいが言いそうなことをいう症状だとか。

ちょっと前に知人から聞いた話によると、この言葉を生んだのは伊集院光だとかのこと。


でも冷静に考えてみると「オレが王だ!」とか「オレがルールだ!」みたいな、

いわゆる自惚れ発言に関しては、まあそうかなとは思うけど、「社会が悪い」「大人が悪い」

という批判発言に関しては、「中二病」と「指摘」とのボーダーが曖昧だと思う。


社会や大人に対して批判することが中二というよりも、その表現の深さとか、あるいは

言った人間のポジションによって、的を得ている正しい意見でも中二的発言にされるのでは

ないだろうかとも思えるのだ。


たとえば「大人は信じられない」という言葉にしても、それこそ中学生くらいが言ったり

もしくは30歳くらいの文化系の引きこもりの男女が言ったもんなら、まさに「中二病」とか

「負け惜しみ」「何もやっていないやつがエラそうに言ってる」と叩かれると思う。


だが、生前20代前半の頃の尾崎豊や、数年前の30代の長渕、甲本ヒロトとかが歌ったなら

悪く言われるどころか、多くの人間から共感の声援を得るだろう。


どちらも言っていることは同じ「大人は信じられない」なのだ。

そして、全ての大人がそういうわけではないが、現実として組織の属する多くの大人は

信じられないモノだということも間違ってはいない。

社員は宝だから大事にするとか言う発言や、産地偽装問題など。


ようするに、批判していることが正しいかどうかでなく、その人がやってきた人間でそれなりの

位置にいるかどうかが、中二病と言われるかどうかのボーダーではないかとも思える。


ただ、そのまさに「大人は信じられない」という言葉の例が当てはまるパターンで、

人間(大人)というのは実に勝手なモンであることがわかることがある。


結果を出していない人間や下っ端の人間が何か社会批判した時に、その人間に向かって

「言いたい事があるなら、やることやってから言え!」とかいうくせに、いざ、ホントに結果を出してから言いたいこと言ったもんなら、今度は

「ちょっと結果出したからって生意気になった」

とか言われたり、

また味方の人間からも「せっかく結果出して評価あがったんだから、また下げるようなこと言わないで黙って頷いておけ」

とかいうように促される。


なんだ!やることやってから批判しても、結局叩かれるか黙ってるかにしろって言われるん

じゃないか!このバカチンが!←このツッコミは中二だと認めます(-_-)


自分も大人だから、それこそ大人批判したら中二病だって言われそうだから、あまりこういう

こと書きたくないんだけど、もしかしたら中二のほうが正解といえば正解言ってる気がしない

でもない。まだ世の中の荒波はしらんだろうけど。

学生のころは悪さした時だけ怒られるけど、社会人になったら悪さしなくても色々怒られるからね。


うん、そうなんだよね。

中二病を擁護するつもりは全くないけど、今の日本だと、とりあえず社会批判したら子供だと

とるような風潮があるんじゃないかな。


でも、評論家とかは漠然と「社会が悪い」とか「大人が悪い」とかいうんじゃなくて

「○○党設立における企業との癒着による金権政治がナンタラカンタラ……」とか詳細を言うから

それがあっている間違っているに関係なく理論的に説明されてるから「中二病」とか言われない。


漠然と「社会が」「世の中が」「おとなが」って言っちゃうとソッコウで「中二病」のレッテルを

キョンシ―よろしく額にぺタって張られて、中二だの幼稚だの言われる。


オレのこのブログもおそらく一部に人たちからは「中二病」っぽいって思われてるんじゃないか

っていう自覚は正直少しある。確信犯だけど(笑)


でもオレは面白くもなく魅力もない「大人な意見」よりかは「ちょっと面白い中二病」のほうが

惹かれる。


協調性や明るさを必要以上にもとめるうわべだけの社会を批判することもある意味で

中二病にとられそうだ。

ネガティブ&人見知りキャラでお馴染みのオードリー若林が、本の雑誌ダ・ヴィンチ の中で

いわゆるネガティブコラムをやっていてよく読んでいる。それが単行本化された時に、オビに

「中二病全開」と書かれていたと本人が言っていた。もちろん表現者としての褒め言葉で。


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雑誌のほうで何回か読んだが、若林氏の世の中に対する窮屈さを訴えるツブヤキは

不器用な人間にとっても「あるある」で多くの共感を覚え、とても好感を持てる。


若林氏の言う事が仮に中二病だとしても、オレは「つまらない大人の意見」よりは、

このような「面白い中二病」のほうがずっと好きだ。


うーん……自分で書いていて、なんか脱線してきた。オレは何が言いたいのだ?


実際ね、ただギャーギャーと騒ぐだけの中二病はたちがわるいかもしれないけど、

だからって、間違ってるとわかっていても社会に不満があっても生活と収入のために

黙って従うのが大人っていう考えを国民全員が持ってしまったら、それこそホントにヤバいん

じゃないか?? もう破滅に向かう一方だぞ。


いや、みんな実はわかっているんだっていうことも、オレはわかっている。

「今の日本の組織やシステムが明らかにおかしい」ってことは。


だから、『半沢直樹』があれだけ国民の支持と視聴率を集めたんだよね。


みんな組織に属して汚い大人になるのが、あるいはなってしまったのがイヤなんだ。

だけど、社会に対して不満を言うと、幼稚だとか中学生だとかいわれるから、それもイヤで

みんなイライラしてたんだ。そんな時に半沢直樹が代弁してくれたから嬉しかったんだろう。

オレもそうだ。オレは違うけどなんてそんな卑怯な逃げはしない。オレはちゃんと認める。


みんな認めたくないのだろう。社会に従っている自分姿が正しいかどうかということに。(オレも)


みんながホントに怖いのは「上司・先輩」でも「死」でも「不幸」でもなくて

「現実を認めること」なんだよ。


つまりは日本人みんなが中二だとオレは思う。


今の日本全体が、オレには「劇団ひまわり」に見える。

みんな、純粋な子供の部分も持っているという良い意味も含めて中学2年生程度なのに

その中学2年生が全員必死に「大人」を演じているようなもの……

子供にみられたくない一心で。

(オレ、これは結構鋭い比喩だと自分で思ったんだがw)


ここで「中二病」と「大人の意見」について、改めてそれぞれ思うことを記す。


ただ不満言うだけなら、ホントに中二である。

効率的か非効率的はは別として、例えばデモに参加するなり、半沢みたく上に噛みつくなり

政治に参入を目指すなり、あるいは、若林みたく言いたいことをコラムで発信するなりなにかしら

小さくてもいいからアクションすれば、それは良いことだ思う。別に政治のような直接的に世直し

に関わる事じゃなくても、自分が表現できることでいいのだ。オレはその怒りを文学へ変換した。

ジャンル問わず何かしら発信すれば、隠れた共感者が集まるかもしれない。


現にデモ活動が政治を動かして国が動いたところもある。

日本はまだまだデモに関する意識が薄いのが寂しいが。



もう一方の「大人の意見」について。

現実的には、ホンネ言えないっていうのはしょうがない部分はあるとは思いますよ。

立場もあるだろうから、そういうところでは「それが会社だ」とか「利益第一だ」って言うには

ある意味しょうがないかなって。


でも、心の中では「その方針はおかしい」「今の日本の経済至上主義はおかしい」ってわかって

いれば、それはまだ全然救いがあると思う。口に出せなくても。

ホントにやばい人たちは、本心で「経済活動が最優先」と思っている人たち。

もう、救いようがない。


口先だけの中二病と、大人のふりしている社会人がもしこの国の地上に増殖してしまったら

それこそ「エイリアン VS プレデタ―」じゃないが、

「ピーターパン症候群 VS 資本主義の飼い犬」みたいな闘いが起きる危惧がある(笑)


上の言葉にしても、「ピーターパン症候群」はどちらかというと大人の言葉で、

「資本主義の飼い犬」って言う表現は中二病のように思われるんだろうな。


とにかくオレは今後も、「読み応えがある中二病」をここで発信してゆきたい。

おそらく「大人の意見」書いたら、読む人少なくなると思うから。

笑い一切なしの意見とかね。