ぶたにく | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

先に言っておく。

オレは別にここぞとばかりに命がどうだこうだとか言うつもりもないし、

好き嫌いを無くせとかいうようなことを言うつもりもない。宗教系もやってない。


でもそういうことは抜きにしても一度読んでおいたほうがいい本というのは存在する。

「Tokyo graffiti」という雑誌の中でヴィレッジヴァンガード店員が推薦してたので

先週見てみた。 「ぶたにく」という児童書。


ぶたにく/大西 暢夫
¥1,680
Amazon.co.jp

児童書とはいっても、その内容は、まずオトナが読んでしっかりと現実を受けとめてから

子供に見せるべきドキュメント写真絵本である。


「ぶた」と「にく」という字の自体が違ってるうえに、間がやけにあいてるのは読み手に

向けた暗黙のメッセージ。


自分たちがふだん食べてる店の店頭にならんでる肉は、もうスライスされたりカタマリに

なってるから罪悪感も抵抗もない。だけどもとは生き物。


この「ぶたにく」では、そんな豚が母親の体内から生まれ、そして人間の体内に入るまでを

ドキュメントで写真で流れを作っている。


小豚は満月の夜によく生まれるそうだ。


本の最初のほうには、母親に寄りそうそんな小豚の写真がたくさん。


人間から餌を貰って嬉しそうにしてるカットやおしっこしてるカットなど

豚の生活が、ごく自然体で撮られている。


そんな豚たちも生まれてから少したったら母親から離されて育たされ、

10か月で出荷される。


ふだんは可愛がってくれて食べ物をくれる人間が荷台に乗せてくれるわけだから

豚からすれば、おそらくこれから楽しい場所に連れて行ってくれるのかもしれない

と思ってるかもしれない。殺されるなんて少しも思わず。


職員の人曰く

「屠(と)殺場につれてゆく時が一番つらい」 と言う。


本の中では荷台乗せられる豚たちの写真があり、その次のページでは頭を切り落とされ

吊るされたその豚たちの写真がある。ついさっきまで動いていた生物が、もうある時を境に

動かない食物になっている。


ここで、もう「可哀そう」とか書いてしまうと、だいたい返ってくる答えが分かっているから

そのヘンは今から書きたいことを書いてゆく。


なんだかんだ言っても、やっぱオイシイから今まで豚肉は喰ってきたし、これからも喰う。

おそらく豚肉料理の記事だって今後書くことも多々あるだろう。


でも、やはりこういう現実は現実でしっかり憶えておかないといけない。


よく肉を食べるときは「命を頂いてるから感謝しないといけない」とか聞いたが

それはちょっと違うと思ってきた。今まで。


感謝は感謝でそりゃあしなけりゃいけないとは思うが、ある意味それは

「しっかり礼は言ってるんだ」という人間の開き直りみたいな気がして、だったらまだ

悪役を買ってでた感じで「肉はうまいから喰う」というほうがマシなのかなって。


別に野菜と米だけだって生きてゆけるワケだし、豚からすれば

「感謝なんてしないでいいからオレら殺すなよ」

「贅沢でオレらを喰っておきながら感謝してるなんていい人ぶるなよ」と思うだろうと。

オレが豚だったらそう思う。


だから「感謝」ってのは人間の一方的な言い訳かなって。そう思ってた。

義理人情ぶって「感謝」すんだったら、人間のエゴで贅沢品として喰わしてもらってますって

「懺悔」しながら喰ったほうがまだ正直なんじゃないかって・・・豚もまだ報われるかと。


いや、でも「懺悔」でも豚から言わせりゃ、「謝るくらいなら最初から喰うな」ってことになるな…

ううん・・・わからん。正解が・・・(._.)


こういう本や、ドキュメンタリー映画見ると、そん時はそん時でホントに可哀そうだとは思うんだけど

でも、またその日の夜とかになったら、普通に豚肉や牛肉食べてたりする自分というか人間に

罪悪感を感じる。

でも自分が生きることに必死で、その「罪悪感が年々薄くなってくること」自体にまた罪悪感を

感じるのだ。罪悪感の2枚重ね。人間とは煩悩のループだのう。


小学校の時、給食の残飯は豚の餌になると習った。

この本の中でもそのへんに触れている。


給食メニューにはたまに豚肉も出た。

それを残した場合、その豚肉は豚が食べるのだ。


人間の贅沢のために食肉になって、それをしっかり食べるならともかく

残したうえに、その肉を豚に食べさせることになると、豚にとっては望んでも無い共食い。

というか今食べてる餌が自分たちの仲間だとも知らないかもしれない。


小さい頃、給食やゴハンを残すと「世の中には食べたくても食べれない人もいる」と言われた。

でも、こうゆう言い方すると外国の飢えに苦しんでいる人に失礼かもしれんけど、

豚肉を残した場合、外国の恵まれない人や貧困の人とかより前に、なにより豚に対して

失礼千万だったのではと今になって思う。

「殺して残して、さらに共食いしろ」だとは。


・・・


難しいんだよな。このヘンは(ーー;)

この本では豚だけクローズアップされてるけど、生き物のコト言ったら牛だって鳥だってそうだし。

だったら喰う事出来なくたってゴキブリだって命あるだろってハナシになりそうだし。



動物も、どの環境で生まれるかわからないというのは悲惨。

同じ動物でも生まれた環境で、その先の運命が別れるんだもんな。


同じウマでも何処で生まれてどこで生活するかの差で、

あるウマは人間から人気集め大事にされる競走馬になるかもしれないし

別のウマは馬刺しになるかもしれない。


同じサカナでも、あるサカナは水族館で餌を与えられて、ゆったり回遊し続けるかもしれないし

別のサカナは刺身になったり、ひらきにされたりするかもしれない。


正直、食文化に対する道徳的正解はオレにはわからないし、またわかったとしても語る資格

は無いと思います。これからも肉は食べ続けるし。肉断つのムリだし。


今後一切肉は喰わないと言う人は、すべて言う資格あると思います。


豚は食べられるために生まれてきて、残飯の中の仲間を食べて育って、

食べられて、残されて、またそれを同じ豚が食べてという中で生きている。


本の最後で

「豚は人間が作った流れの中で生きている」と書いていた。

これだけは憶えておいたほうがいいかも。


そういえば鳥に関しても、三浦しをんがこれに付随することをエッセイで書いていたの思い出した。

「食用になるタマゴを生むニワトリは、タマゴを温める習性がないように育てられた」と。

要するに生んだあとすぐ孵化してしまったら食品になんないから、タマゴを温めるニワトリは排除してって、その習性を知らないニワトリを残して、そのニワトリを繁殖させていったらしい。

ニワトリも人間の作った流れの中で生きてるんだな。


なんだろうな。言葉がちょっとでも抜けちゃうと伝わらなかったり偽善者ぶったりしてるふうに

見られちゃうかもしれんけど・・・


豚肉はやっぱオイシイし、みんなもオレもこれから食べていくと思う。

また最低限の食べ物の好き嫌いはしょうがない。

どうしても食べれないモンは残すしかないし、アレルギーとかある人もいる。


自分で選んで買ったり、料理したりするぶんは嫌いなモノが卓に出ることはないだろうけど

やはりいろんな会場とかで決まったメニューが出る時は肉が苦手な人は残すしかないと思う。


オレもこれからも肉は美味しく頂くけど、でも定食屋とかバイキングでも必要以上に量を多く

取ったりして、肉を残すマネだけはしないようにしようと思う。(今までも無いけど、念のため)


自分で用意したぶんの肉は全部ちゃんと喰う。

また、感謝だけでなく、ある程度の罪悪感も持って頂こうかと思う。


そして人間はいつも命の大切さがああだこうだいってるが、人間は絶えず矛盾の中で

生きているということも心に留めておき、そのうえで今後も肉を食べる。ぱくぱく。



この本は、お母さんもぜひお子様に勧めてあげてください。