森泉とマリエの区別がつきません。
こんばんわ ケン74です。
しょっちゅうやってるわけじゃないけど、たまーに日曜の夜とか
部屋の電気もテレビ全部消して、室内を外部から射し込む月明かりだけにして
ベッドのうえでじっとしてたりする。
闇夜の太平洋のド真ん中で漂うイカダのうえでひとりぽっちだとイメージして、
ただただ、じっとしてる。
これは別に誰々がやってたとかいうわけでなく我流で発見したあるリラックス法なのだが
なかなかロマンティックな気分になれたりする。
実際に太平洋ど真ん中に漂流させられたり、自分のまわりに人一人いなくなったもんなら
アタフタものだが、バーチャルで感じる「孤独」や「寂しさ」とは結構オツなもんである。
イケイケタイプや体育会系の人からすれば理解出来ないかもしれんが、それなりの想像力
さえ持ってる人だったらやっててある程度落ちつけると思うんで推薦(笑)
「群れ」たり「徒党」くんだり、「横一列」あるいは「競争」ばかりの今の世の中で、我々が
ある程度大事にしなければならないのは「孤独」をおぼえ、それをどう楽しむかというテクでは
ないだろうか。
2週間ほどまえに図書館でちょっと惹かれるタイトルの本を見つけたんで借りて読んでみた。
この齊藤孝サンもよく見かけるけど好きな感じの人だったから。
- 孤独のチカラ (新潮文庫)/齋藤 孝
- ¥420
- Amazon.co.jp
人柄の良さゆえ、なんとなく想像は出来たことだが、ちょっとしたカミングアウトみたいな感じで
この齊藤サンは若いころ「暗黒の十年」があったと告白していた。
歌で「友達100人出来るかな」とかいうのがあったが本当に100人いたらたまったモンではない
と書いているし、大学時代には「サークル」という言葉も憎んでいたという。みんなで輪になって
スクラム組んで和気あいあいとしてるイメージがうっとおしいと言う。オレも同感。
オレの場合は教習所代かせぐためにバイトに明け暮れてたってのもあったけど、なんかサークル
とかってサークル名とかに掲げてる名目の運動や文化を本格的にやらなくて、コンパとか合宿とか飲み会行う体裁の集まりみたいなチャラいイメージがあったんだよね。今でもあるけど。
酒は好きだけど、だったら会費みたいなモン払ってサークル入るようなまわりくどいことしなくても
気の合う仲間同士でそのまま呑みに直行したほうがいいやって。
別にどっかのグループと飲み会とかあったとしても、ある意味クールだったオレは先方に
「オレ、大学では○○やってんだけどさあ!」とか言いたいとも全く思わんかったし。
カッコつけんのメンドくさいしね。
本読んでるうちに共感できる部分がかなり多くて、一層増して齊藤サンが好きになってしまった。
やっぱ芸術肌や哲学を備えてる人ってのは、集団とか馴れないが苦手で上手く出来ないんだろ
うな。オレが好きな詩人の穂村弘も10年間スポーツジムに通ったけど誰ともずっと話す事がなくモクモクとダンベル上げてて、ついた渾名が「修行僧」だとか書いてたし(笑)
よく「人間はひとりで生きられない」とか言うじゃないすか。
あまり言いたくないけど、たしかに「本当に一人」では生きれないのが現実だと思う。
それは別に支え合いとかそんなキレイなモンじゃなくても、世の中には米を作ったり魚を取ったり
してる人がいるし、それを売ってる人もいるから、モノが手に入って食える。
また急に道でぶっ倒れたとしたら、救急車呼んでくれる人がいるから生きられるという意味でも。
でも、なんでもかんでも「仲間は多いほうが良い」とか「絆を広める」とか「大勢で仲良く」とかいう
のは決して正解ではないと個人的には思う。
悪く言うと、いつも集団の仲間に囲まれてたり、誰かと絶えず会話してたりすると
孤独に対する免疫や対応の仕方が分からなくなったり、また価値観や行動に関して
なれ合いになってしまうんじゃないかと思う。オレの考えオカシイ??
オレはどちらかというと友人がいないとダメなほうで、幸いにも多方面でそれなりの友人に
恵まれてると思うが、逆にふだんは1人で過ごし、ごくたまに親友1,2人と会ったり、あるいは
ずっとひとりきりにほうがイキイキしてて、何かに才能を発揮する人もいると思う。いや、いる!
自分がそうだからとか、大勢の人がそうだからといって、いつも「みんなと一緒」とか「友人多数」
が絶対いいという考えの押しつけは、ある意味、思想の暴力だと思うからオレは言わない。
友人少ない人に対しても。
ちょっと前に売れた本で梨木香歩という人が書いた「西の魔女が死んだ」という小説がある。
その中で登場人物のおばあちゃんが
「自分が楽に生きられる場所を求めたからと言って、後ろめたく思う必要はありませんよ。
サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイ
より北極で生きるほうを選択したからといって、誰がシロクマを責めますか」
と言う場面がある。いいコト言う。人にはそれぞれ向いている環境、生きれる環境があるのだ。
多数派が正しいなんてことはない。
オレ風に思いついた例えで言わせてもらうと、深くて暗い場所だからこそ、悠々と上手に
楽しく泳いでいた深海魚に対し、そんな暗くて陰気なところで1人で泳ぐより、もっと上のほうの
明るい日が差し込むたくさんの仲間がいるところで泳いだほうが絶対楽しいよと強引に連れて
くるような、まさに勘違いありがた迷惑である。
深海魚たじろぐうえに目がくらむぞ。人見知りならぬ魚見知りにもなるかも。
なんだかんだ言っても、意図的に人に好かれようとか仲間を増やそうと思わない人のほうが
自然に身の回りに人が集まってくるんだよ。自分の経験からしても。
逆に友人とかつるむ人を片っ端から増やそうと動いてるヤツのほうが、裏目に出て陰では
嫌われてるパターンとか多いんじゃない?
仲間数増やすことばかり集中し過ぎて、自分の入札価格を自分で下げちゃってるんだよ。
さっき書いたことと重複してしまうが、ヘタな連携や「つるみ」は馴れ合いになってしまう。
だからオレはSNSとかもあまり多方面には手を出さないわけ。別に否定ではないよ。
ただ、こういうブログとかに関してもそうだけど、できれば連携ややりとりは価値観の合う人や
ちゃんと個人の意見をいってくれる人とだけの少数精鋭派で行きたいワケ。
このへんに関しては有名なアニメ映画監督の押井守監督が本で書いてた。
- コミュニケーションは、要らない (幻冬舎新書)/押井 守
- ¥798
- Amazon.co.jp
言ってしまうと、この押井監督はいわゆるメディア、ようするにどちらかといえばSNS系の
世界寄りの人なんだけど、SNSには否定的なのがとても斬新。
同感だったのは、こんだけSNSが浸透してるとよく、
「オレのブログは読者が1000人だ」とか「フォロワ―が何千人だ」とか「マイミク100人だ」とか
よく聞くでしょう。
実際にそれだけの数全部の読者やフォロワ―、マイミクとちゃんとした密度の濃いヤリトリや
価値観の共有とかが出来てるんなら、それはそれでイイと思う。むしろ大きい収益だ。
でも、どう考えても、そんなに莫大な数の人達ひとりひとりと密接なつながりが完成されてるとは
思えない。
なんか、とりあえず趣味や1部の価値観があったら互いに申請して、リンクをつくり、その数が
自分の人脈だとかコミュニケーションの成果だと思っちゃってる人が多そうな気がする。
読者でもある知人は、それもあり、もともとやっていたミクシイやIモードも脱退した。
いや、やってる友人も多いし誤解されないように言っておくと、しっかり密度や価値観の共有、
あるいは情報交換を大事にやってる人もいるから、そういう人は全く否定するつもりもない。
情報伝達の早さのメリットとかも理解してるし。
ただね。とりあえず数増やすのがステータスって勘違いしてる人もいるでしょ。アメブロもだけど。
「あと1人でマイミク100人だぁ!」って・・・ オマエは弁慶かっちゅーの・・・。
まあブログもSNSといえばSNSでオレもやってはいるけどね。
でもオレは内容・密度と、読者さんとの意見やりとりを大事にして知識や価値観の勉強はさせて
もらってるつもり。ね、だから文章も長いでしょ?(今回もすでにかなり長文・・・)
うわ、ちょっとねえ・・・まだまだこのテーマに関しては発信したいことあるんだけど
さらに長くなって皆寝ちゃいそうだから省略。また別のくくりでねじ込むわ。
だけど今はちょっと「孤独」がブームというか、重要さが見直されてる風潮はあるね。
ブコウスキーや栗原類も孤独を愛してるって言ってるし(ブコウスキーはずっと前からだが)
で、〆の話。
「孤独」っていうのは言い換えれば「自分と向き合う時間」なのよ。
だからその時間を作れて、さらにこなせるかというか過ごすことが出来る人間が本当に
強い人間なワケ。
そこでアナタが本当に強い人間かどうかの簡単なテスト。
これは前に紹介したある学者サンが書いてたテスト。
「月を2~3時間見つめ続ける」
これをこなせればアナタは孤独とも向かい合えるし自分と向き合うことも出来る強い人間だ!
ちなみに「体を動かすのが大好きだからじっとしていられない」とかいうのは忍耐力のないことを
いかにもポジティブ風に言い換えたズルい言い回しだから禁止ね(笑)
ちなみにオレは「月を3時間」は厳しいけど、イヤーな事があった時は多摩川の川岸とかに行って
ずっと川の流れを見つめ続けることであれば、そのくらいの時間は出来る。
補足:
繰り返し念のため言っておきますがSNS自体(ブログ・ミクシイ・ツイッタ―)および
ユーザー全体を批判してるわけじゃありません。自分も1部やってるし。
それに依存し過ぎ、および読者・フォロワ―・マイミクなどの数に固執してる人に対しての
消極的意見というまでです。