左手のピアニスト 舘野泉さんの
脳梗塞後遺症から復活した
力強い言葉をお届けしています
今日の演奏テーマ<=いのちの言葉>
「誰かのため」は
「自分のため」より 頑張れる(前)
◆原発被災後の南相馬へ
2011年6月末
東日本大震災から3ヶ月あまりが過ぎたころ
舘野さんは 東北新幹線 福島駅から
南相馬市にタクシーで向かっていました
南相馬市には
長年応援してくれている 友人やファンが大勢います
巨大地震と大津波
福島第一原子力発電所の事故
南相馬も 沿岸部が甚大な被害を受けました
市の一部は 原発から半径20キロ圏内
当時は警戒区域 と呼ばれ立ち入り禁止に
数年前にピアノを弾きに行った 福浦小学校もその中にあります
みんな大丈夫だろうか・・・
心配でなりませんでした
南相馬に向かう途中 飯館村を通り過ぎましたが
全村避難で 人の姿はありません
緑豊かな美しい村だったのに
耕し手を失い 草ぼうぼうの農地に
地元の小学生が描いた手作りの看板が
ポツンと立っていました
顔や服に泥をつけて野菜を収穫しながら
笑っている子どもたちの絵
<みんなで作っぺ!> というメッセージ
見る者をなんとも やるせない気持にさせる絵看板は
4年経っても(2015年現在) 残っているのです
南相馬市の中心部 原町区に到着
いつもの演奏会場 市民文化会館は
自衛隊の駐屯基地になっています
ここをベースに 沿岸部や原発近くへ
行方不明者の捜索に出かけているのでした
シルクハットの形をしている市民館「ゆめはっと」
震災の7年前から 舘野さんは
名誉館長を務めています
年に1回以上 ホールでのコンサート開催がお約束です
ほかにも市内の小学校などで演奏する
「アウトリーチ」という活動も行ってきました
2011年4月にも
ピアノを教えるマスターコースと サロンコンサートを
南相馬で開く予定でした・・・もちろん中止です
2011年6月
タクシーで駆けつけたとき
「ゆめはっと」のスタッフたちは 自ら被災しながらも
自衛隊との連絡や 避難者のお世話に追われていました
「お邪魔をしてはいけない」 そう思い
知人たちの無事を確認し
フィンランドで復興支援のためのコンサートを
開くことだけを伝え すぐに東京に戻りました
◆息子ヤンネの 3.11震災体験
震災当日 息子のヤンネさんは
山形交響楽団のコンサートのため 東北にいました
ちょうどリハーサル中 あの揺れに見舞われたのです
日本海側の山形県では 大きな被害はなかったものの
停電のあと 交通機関が止まり
当時ヤンネさんが住んでいた京都に戻れたのは
何日も経ってからでした
フィンランドでは 地震は殆どありません
初めて体験した 地震の凄まじさと
テレビで流れ続ける 津波や原発事故の映像に
ヤンネさんは 激しいショックを受けました
そして当時 多くの音楽家たちがそうだったように
「こんなときに音楽をやっていていいのか?」
という思いにとらわれ
自問自答を 繰り返していました
電話口から ヤンネさんが
極度の混乱状態にあるのが伝わってきます
舘野さんは すぐに京都まで行きました
「ヴァイオリンなんか 弾いてる場合じゃない」
と言うヤンネさんに 舘野さんは話しました
「あなたは音楽家なんだ
これまで自分がいいと信じてやってきた
日常の行為を続けることこそが
我々の仕事であり 最初にすべきことではないだろうか
こういう時期だからこそ
今の自分にできる ちいさなことを
こつこつとやっていくことが大切なんだ」(舘野)
脳溢血で半身不随になったときも
舘野さんは そのようにしてきました
リハビリで与えられる課題が
どんなにバカバカしく思えても
全く効果など 表れていないように感じても
前向きに 取り組んでいくしかない
あきらめず 目の前にある やるべきことを
一つ一つ積み重ねていくうちに 道は開けていったのです
「振り返ったとき
そこに道ができていることに気づいた
というべきでしょうか」(舘野)
息子ヤンネさんへの叱咤激励は
舘野さん自身へのものでもありました
震災の被害はあまりにも 凄まじく
無力感に襲われかねない
そうならないためにも
「ちっぽけでもいいから 今できることを」
と自分に言い聞かせたのです
「もちろん
一度や二度 チャリティーコンサートを開けば
それでいいというわけではありません
なにより大事なのは
東北の被災地について 福島について
ずっと思い続けることなんだと思っています」(舘野)
◆南相馬市とのご縁
南相馬市は2006年
原町市 小高町 鹿島町 が合併して誕生しました
1995年
合併前の原町市の有志がつくった
「音楽を楽しむ会」に 舘野さんが招かれたことが始まりです
当時は音楽ホールがなく
ホテルの結婚式場で演奏しました
グランドピアノもなかったので
仙台からトラックで運びました
その後も 「音楽を楽しむ会」の皆さんが
ホテルや福島市の音楽堂を借りて
舘野さんの演奏会を開きました
会員15人のみなさんは
公務員 歯科医 小学校の先生 専業主婦 建築士・・・
職業も年齢もさまざまだけれど
音楽が大好きな人達
休日に集まっては 準備し
知り合いや友人 近隣に声をかけて チケットを売り
すべてが手づくりのコンサートでした
会では クラシックだけではなく
ジャズ ポピュラーなど 様々なジャンルの
アーチストを呼んでいたようです
舘野さんは コンサートのあと
1泊できるときは 原町市に宿を取りました
すると会の皆さんが必ず 懇親会を開いて下さる
一緒に飲んでおしゃべりする時間を重ねるうちに
どんどん 互いの距離が縮まり
単なる主催者と演奏家
という関係ではなくなっていったのです
<・・・続く>
では ふるさとの野を思い出す 『赤とんぼ』をどうぞ
<参考文献>
『命の響き』
左手のピアニスト、生きる勇気をくれる23の言葉
舘野泉 (集英社 2015年)
ある日の空
さまざまな人の思いの 重なり
さまざまなできごとが 次々に押し寄せて
遠くから 流氷が 冬の便りを乗せて
空にかかった 石畳のような 橋かも
その時の気分で 見えてくる 心模様
遠い記憶 新しい気づき
思い出した大切なこと
ひとつひとつの 小さな かたまりが
つながっているから おもしろい
あ ハンモックに 見えてきた
寝転んで みた~い
今日もブログに最後まで お付き合いいただき
ありがとうございました
あなたの わたしの
心のつばさが
今日も 自由に 飛び立ちますように