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「あるがまま」と恋に落ちるか否か。
ふたつにひとつよ。
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原文「あるがままと恋に落ちるか、否か」


「あるがまま(what is)」と恋に落ちる。
素敵な表現ですね。
そういえばケイティさんの著書「ザ・ワーク 人生を変える4つの質問」の原題は、「Loving what is (あるがままを愛する)」でした。

私たちは、神を、真理を、自分自身を知りたいと切望します。
それを悟りたい、と表現する人もいることでしょう。

こうした私たちの切望に対する答えとして、ケイティさんは彼女自身の言葉で「あるがままを愛する」と言っているのだと思います。

ケイティさんの言う「あるがままを愛する」。
それこそが私たちの切望する究極の目的であると、言えるのではないでしょうか。

ケイティさんはしばしば、「私にとって、リアリティこそ『神』です」と語ります。
ケイティさんのいう「リアリティ」。それは彼女の目の前で淡々と展開しているものです。
ケイティさんにとって、「神」とはどこか未知の場所にいる存在ではありません。
目の前で繰り広げられている出来事の連続、人生そのものが、彼女にとって「神」だというのです。

さて、私たちの目の前で展開しているこの人生を「神」と認定するかどうかはさておきにして…

私たちが目の前で繰り広げられるこの人生に対してなんと言うかは、まさにふたつにひとつです。
イエスかノーか。
そのどちらかしかありません。

実際のところ、私たちが自分自身の心の態度として表明できるのは、あらゆる場面においてこのどちらかしかないのです。

あるがままに対する心の態度が「ノー」であるとき、私たちは100%葛藤します。
苦しみ、ストレスを抱えます。

今日のケイティさんがいう「あるがままと恋に落ちて」いないとき、私たちは確実に苦しむのです。

私たちの苦しみには、幾重にも折り重なった複雑な事情からくる原因があると思われています。
しかし、実際にはこのたったひとつの原因しかありません。

あるがままと恋に落ちていない。
あるがままに対して「イエス」と言っていない。

以上です。

しかし、それでも私たちには、どうしてもあるがままに「イエス」と言いたくないときがあります。
私たち自身の見解と、あるがままとの差が、どうしても埋まらないと思えるときもあるものです。

そのようなとき、私たちは苦しみます。
そしてもし、その苦しみから逃れたいと願うなら…
私たち自身の見解と、あるがままとのギャップを、可能な限り少なくしてゆく以外に手はないでしょう。

具体的に、この世界にはそのための様々な方法があると思います。
ケイティさんの「ザ・ワーク」もまたそのひとつなのは、ご承知のとおりです。

受け入れがたいリアリティを、渾身の力を振り絞ってジャッジしまくりましょう。
誰に遠慮することもありません。
バリバリとリアリティの悪口を言い、批判し、非難しまくりましょう。

思う存分、リアリティへの怒りや憎しみ、不満をぶちまけたら、あとは問いかけていく作業です。

それは本当なのでしょうか。

リアリティに対して私たち自身が抱いていた見解は、本当に事実なのでしょうか。

本当に、埋められないほどの溝があったのでしょうか。

その真の答えが出たとき、私たちは苦しみから解放されていることでしょう。


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「快楽」と「自由」…
それは地球上から月までの距離ほども違うものです。
「快楽」は、自分自身を満たそうとする試みのことです。
「喜び」は、ありのままのあなたの本質です。
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原文「快楽と自由の違いは、ここから月までの距離。快楽は、あなた自身を満たす試み。喜びは、あなた自身」


今日のお言葉、前後の文脈がどのようなものかわかりません。
しかし「自由(freedom)」と「喜び(joy)」とが関連性をもち、「快楽(pleasure)」に対比されているようですね。

興味深いのがケイティさんの「快楽」の定義です。
「自分自身を満たそうとする試み」。
それが「快楽」だというのです。

熟慮の末の、これぞ最善という行動。
しかしそんなときに自分自身の心のなかを正直に覗いてみたら…
その振る舞いによって何かを期待していた。つまり、それによって何かを得ようとしていた、自分を満たそうとしていた。
そんなことはしょっちゅうです(笑)

満たそうと試みるということは、心のなかに何かで満たさなければならない「スキマ」がある…ということでしょう。

その「スキマ」を埋めようとする試みが「快楽」だと、ケイティさんは言います。

一方、「自由」に関連している「喜び」のほうは、ありのままの私たち自身そのもののことだと言います。

それがどんなものなのか、うだうだと説明するのも野暮ってものかもしれません。
なんにしろ、この「喜び」の状態のときには、スキマを埋めるための「快楽」は必要ないのでしょう。

ありのままの自分自身100%ならば、そもそも「スキマ」ができることはありませんよね。
なにせ100%全部、自分自身で埋めつくされているのですから。
心のなかで、自分自身が欠けているように思える部分の「スキマ」。
もし全部が自分自身で満たされていれば、そんなスキマを埋めようとする「快楽」は必要なくなるはずです。

100%自分自身。
それが「喜び」!?
なな、なんてすばらしい状態なんでしょう!!
私にもぜひそれをくださいなー
…って、そのお買いもの的発想がすでに「快楽」なんだちゅーの(笑)
\(__)

「喜び」のヒントは「自由」でしたね。
自由といえば…
思い出しませんか?
4つの質問のなかのひとつ。

「その考えがなければ、あなたは何になるのでしょう?」

もしこの考えがなかったら…。
この問いかけに、じっくりと静かに答えたときのあの感覚。

あれ、とっても「自由」という言葉がしっくりきませんか??

ひょっとしたらあの感覚が、スキマのない「喜び」のヒントなのではないでしょうか…?
v(・∀・*)


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あなたが「あなた」だと思っている人の映画がはじまるわよ!
ポップコーンくれる?
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原文「あなただと思っている人の映画にようこそ。ポップコーンをください」


「私」の映画??
…そりゃどう見ても、駄作だろうなぁ。
f(^_^;

それはさておき、いつも
「お。始まる始まる…自分の映画、始まるよ」
と思えていれば、人生は相当楽しくなると思います。

いっそありとあらゆるところに張ってみようかな、今日のお言葉。

「これは、私が『私』だと思っている人の映画」。

冷蔵庫。洗面所。トイレ。玄関。車のダッシュボード。待ち受け画面…
ありとあらゆる、目につくところに張りまくる!

そしたら、人生どう変わるかな~
実験してみませんか?!
(^w^)