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世界が欲しいものを与えてくれるのを待つ…
私はそんなこと、やめました。
そして、私自身を世界に与え始めたんです。
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原文「私は、世界が私の求めるものを与えてくれるのを待つのを止めた。私はそれに私自身を与え始めた」
おおお!!
カッコいいですね…「私を世界に与える」。
きっと私にもできるよね、「私を世界に与える」って。
きっとそれが、人として本来の生き方なんだよね。
よーーし!
がんばるぞー((o( ̄ー ̄)o))
…って、ちょっと待って(笑)
では「私を世界に与える」とは、どういうことなのでしょう?
それをするために、私はいったいどうすれば良いのでしょうか。
私は世界に対して、何をすれば良いのでしょう…?
σ(^_^;)?
…え。
えーと、あの。
…いやだからさ、そういう「何をすれば」とか「どうすれば」とか、リクツぢゃないんだよコレはぁぁ!!
なんつーかその、あるでしょホラ…
えーとあの、アレですよアレ!!
(^^;)(;^^)汗汗汗
はいはい。
アレですよね、アレ(笑)
そうです、アレです。
「私を世界に与える」とはどういうことなのか、ケイティさんはもちろんそれを明言してくれています。
「世界が私に欲しいものを与えてくれるのを待つのをやめる」。
世界から、施しを期待するのをやめる。
つまり「もらう」ことを一切期待しない。
…これが「私を世界に与える」こと。
「もらうのを期待しない」イコール「与える」、というわけですね。
世界に私を与えるために、何かの慈善活動や社会運動が必須なのではないと思います。
「私を世界に与える」とは、世界に対する私の働きかけの行為だけを指しているのではないでしょう。
世界に対する働きかけは、私を世界に与えたことの、たんなる結果にすぎないのだと思います。
「もらう」ことを放棄する。
いざ本気でこの道を進み始めれば、最初の一歩から躓いている「イタイ」自分自身を発見してしまいそうです。
でも、それが当然なのではないでしょうか。
どれほど「もらう」という思考が自分自身に染み付いているか、私たちは気づいていないものです。
それを止めようと本気で思わない限り、気づくことすらないかもしれませんが…。
息をしていることのようなものかもしれません。
私たちは自分が「息をしている」などと普段あまり意識することはありません。
しかし、「いったい、自分はどれくらい息をしているのか?!」と真剣に観察しようと決心し、一日中コマゴマと呼吸の回数を数えたとしたら…
たいへんな回数の呼吸数だったことに驚くことでしょう。
「もらう」思考も似たようなものです。
真面目に取り組めば、自分自身がいかに「もらうこと」に取りつかれていたのかが歴然としてきます。
それに対する真摯な驚きがあってこそ、私たちは本気で「これは、やめたほうがいいのかも…」と思いはじめるのです。
のっけから落胆してしまうのは、そもそもの前提に
「私はそれほど、もらうことにこだわってなんかいない」
という思いがあるからでしょう。
それこそ、
私はそれほどもらいたいと思わない。
…それは本当ですか?
いえいえ。
もらいたいのです。
むちゃくちゃ、もらいたい。
とにかくもらいたい。
ひたすらもらいたい。
…私たちは、「もらいたい」が服着て歩いてるようなものです。
このスタート地点は、全員が同じ場所なのだと思います。
それも理解していれば、さほど落胆せずに進んでいけるような気がしますよね。

