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私にないものをほしがったその瞬間、私に与えられていた恵みはすべて消えてしまうのです。
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原文「私がもっていないものを求めたその瞬間、与えられていたもののすべてがなくなる」


もっていないものを「欲しい」と思う。
その瞬間、すでにもっていたもの、すでに与えられていたものがみんなパアになってしまう…
o(T□T)oソ,ソンナ

これは、どういう意味なのでしょうか。

「欲しい」と思うことが、問題外なのでしょうか?
欲しい欲しいと思う「欲望」をコントロールすれば良いのでしょうか??

「欲しい」という欲求は、よーーく観察すると、
「欲しいものを、私はもっていない」
という前提が条件になっています。

もっていないから、欲しいと思うのです。

実は、問題なのは欲しがるという欲望そのものではなく、その前提の条件のほうなのです。

「私には、それがない」
この前提条件の思考こそが、黒幕といえるでしょう。

「私にはない」と思うものが、実際に私にあろうがなかろうが関係ないのです。

たとえばコピペの頭にはまだ髪の毛がいっぱいあっても、もしコピペ自身が
「ハゲた」
と信じていれば、コピペのなかではすでに髪の毛はみな失われているのです。

皆さんが一生懸命、
「コピペちゃん、大丈夫だよ、またまだいっぱい、髪の毛あるよ」
と口をスッパくして説得してくれてもムダ。

コピペは寝ても覚めても髪の毛のことばかり考えます。
コピペにとっては、もう髪の毛は一本も「ない」のですから…。

このように考えてみると、欲しいと思う欲望は、私たちか予想する以上の作用をもっているのかもしれません。

私たちは気軽に
「あれ、あったらいーなー」
とか
「これ、欲しいなぁ~」
などと考えます。

しかしそれは、
「私にはそれがありません!!」
とキッパリ宣言するようなものだとしたら…。
「私にはそれがない」という考えを、繰り返し繰り返し自分自身に言い聞かせているようなものなのだと、したら…

…今度、何かが「欲しい」と思ったら、
「それは本当ですか?」
をしてみることにしましょう。

私は、本当にそれをもっていないのでしょうか。
私は、本当にそれが欲しいのでしょうか。

十中八九、答えは「ノー」です。
私は、本当はそれをもっているのです。
本当は、欲しくなんかなかったのです。

それに気づけたら、私たちは自分自身がどれほど豊かな存在なのか、実感できることでしょうね。


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私が信じていることを、信じないことはできません。
信じたくないことを信じることもできません。

けれど、私が信じていると考えることについて、問いかけることはできます。

そうすることで、私は気づくのです。
呪縛が解かれ、深い眠りから起こされるのです。
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原文「私が信じていることを信じない、または信じたくないことを信じることはできない。私が信じていると信じていることについて、問いかけることはできる。そうして気づきがある。呪文が破られ、昏睡が終わり、起こされた私」


私が信じている以上、私はそれを信じます。
信じていないのに信じる、などということはありえません。

そしてそれを信じる理由は、それを信じたいからです。
信じたくないものを信じるということも、ありえないのです。

つまり今日のお言葉が何を言わんとしているかというと…

「これを信じるのをやめよう!!」
と言うだけで、信じるのをやめるのは不可能、ということでしょう。

そう自覚しているかどうかはさておき、私は好きこのんでそれを信じています。
自覚の有無はさておき、それを信じたくて信じているのです。

そのように「信じている」ものを、「やめよう」の一言で変えられるはずがない…

では、どうすれば??

殊に、私が好きこのんで信じたはずのものが、私にとって苦しみをもたらしているような場合。
苦しいというのに、「やめよう」と思ってもやめられない。
そんな悲惨な事態に陥ってしまったら…

アレですよ、アレ(笑)
問いかけです。
ケイティさんの「ザ・ワーク」です。

それを使って、私が信じているものについて問いかける。
それによって、私は気づくことができるのです。

この気づきのことを、今日のケイティさんは
「呪文が解かれて、深い眠りから起こされる」
と表現しています。

こうしてみると、私は、自分で自分に呪文をかけて眠らせていた…
ということになるのですね。

なんとまあ、めんどくさいことをしてたもんだー(笑)


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あなたが『あなた』を想像して作り上げたのって、正確にはいつのことかしらね。
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原文「正確にいつ、あなたは『あなた』を想像したのだろうか」


「私」という自覚が芽生えるのはいつのことでしょう。

きっとそれぞれ人が、
「初めて『自分』に気づいた瞬間」
についてのいろんなエピソードを持っていることでしょう。
飲み会でこんな話題を振ったら、大盛り上がりしそうです(笑)

多くの人にとって、こうした「自己の自覚」は3、4歳で芽生えるそうですから、「初めての『自分』」のエピソードにはきっと子供らしくてほほえましいものもたくさんあるでしょう。

(今日のケイティさんの写真も、幼い男の子がホットチョコレートを飲んでいる場面です)

さて。
そんなエピソードでひとしきり盛り上がったところで、我に返って考える…

このエピソードの前、私が初めて「私」に気づく前…
私はどこにいたのでしょうか。

「私が私に気づく」。
今日のケイティさんの言葉を借りれば、「私が私を想像する」。

私はその瞬間に「生じた」のでしょうか。
それまで、私はいなかったのでしょうか?
私は、自分で自分を作り出したのでしょうか…?

「私」とは何なのでしょう。

それは、私が「私」だと自覚しているその「私という自覚」なのでしょうか。
それとも、そんな記憶が始まる前からハイハイしていた赤ちゃんの「私」、つまり「私という体」なのでしょうか。

それともそのどちらでもないのでしょうか…?

今日のケイティさんは、そんなことを私たちに問いかけているのかなと思いました。