安部が死んだ。何かが変わったと、皆朧気ながら感じているだろう。とてつもないことが起こった、安部の死は単なる一個人の死以上のものをもたらすと。今、我々は歴史的大事件に立ち会わせているのではないかと。しかも、決して理解できないことではなく、真偽はわからないが歴史の大きな流れの中でこの事象が起こったのではないかと。

 

 安部批判を長らく続けていたものは、既にこのような事態が起こることをうすうす予想していたのではないだろうか。安部は熱烈な信奉者を抱えていたが、それと同時に多くの恨みを買っていた。安部に批判的だった知識人が言葉上は民主主義への攻撃だと犯人を非難し、安部の回復を祈ると言っても、全く信用できない。私の見るに、安部への批判は部分的には生理的嫌悪、自分の身体に結びついた感情的な部分を伴っていたからだ。8年の長きにわたって政権についていた安倍晋三をずっと批判しているのに、自らの発する感情に影響を与えないとは思えない。いや、いないとは言い切れないが全くいないはずがないだろう。どんな経緯にせよ、多方面に悪影響を及ぼしてきた安部への生理的嫌悪が極限まで達すれば、理性の裏付けに助けられて安部を排除しようとする人間がいてもおかしくはない。安部は誰かに狙われるのではないかと思っていた人も多いはずだ。

 

 たとえ言葉上は民主主義の擁護をうたっても、皆その言葉の空虚さに気付いているのではないか。安部こそが議会軽視や憲法の解釈改憲、私的な利益誘導によって民主主義を破壊してきたのだから。しかし知識人たちも軽々しく民主主義の擁護などという。暴力による言論の阻止があってはならないことは正しいし、この手の発言がある程度、民主主義の擁護に必要なのは確かだが、ここまで画一的な言明が繰り返され、自らの身体の言葉に則った言葉が皆無だと、むしろ民主主義を形式的かつ空虚なものにするのではないか。

 

 私は、安部を殺した犯人は必ず法によって裁かれ、刑罰を受けなければならないと思う。とはいえ、公然と嘘をつき続け、知性というものをないがしろにし続け、日本の凋落を止めるための貴重な時間を自らの権力維持に費やした安部という人間が、知性を尊ぶ一個人としてどうしても許せなかった。誰にせよ安部を私的に殺すことはあってはならないことだが、とはいえ犯人の動機によっては同情の余地が生まれるかもしれないと思う。

 

 いずれにせよ、安部は首相辞任後も長らく自民党内で大きな力を持ち、政権の行う政策に影響を与えてきた。何よりも保守派のシンボルだった。安部がいなくなることで、岸田政権の政策もいくらか変わる可能性があるし、安部に代わる人がいない自民党内保守派の勢いは確実に削がれるだろう。だが、それ以上に、だれもが何か変わったと感じている。こういう時は、本当に歴史的に何か重大な点を超えたのであり、もはや昔の時代には戻らず、これからの日本は昨日までとは異なる流れの中にあるのだろう。それは、我々にとって良いものとなるのだろうか?まだわからない。

 愛は複雑な心の指向性である。愛の始まりは、愛の対象自身に属する性質、もしくはその対象と世界との関係、もしくはその対象と我々との関係を、我々が好ましいと思うところから始まる。一時的なものであれば何かを愛する理由を簡単にあらわすことができるのかもしれない。しかし愛し続けていると、愛の対象と自分がいくつもの糸で結び付けられ、さてどうして愛するのかを問われたときに自分でもなんだかよくわからなくなってしまう。しかしそれでも愛しているのだ。いや、愛し始めたばかりですら愛する理由がわからないことがある。あっ、いいなぁというぼんやりとした興味、好感触と言うのがふさわしいか、そんな風な心の動きがいつの間にか愛に変わっていたこともあるし、まさに稲妻に打たれたのかのように自らの心をとらえて離さず、狂信的な愛が生じて自らの行動原理とすらなってしまうこともある。

 

 何かを長く愛しているといっても、どうして愛しているのか理由をいくつも述べられることもあれば、ただよくわからないけどいとおしいものもあるし、惰性的だが今まで長く関わってきたからこれからも愛そうと思う場合もある。だが、何かへの愛というのは必ず守られなければならないいくつかの絶対的な条件が存在し、条件が破られない限りにおいてそれは愛されるのだと思う。これら条件は、普段は表立って意識されないものの、ある時とたんに表へ出てきて我々が誤った認識をしていたことに気付かせるのだ。そして愛は危機を迎える。これをいかなる形で乗り越えるのかは我々と我々の愛の対象に依存する。そもそも誤った認識をしていたという事実をうやむやにしてしまう、そうではなくて実際に誤った認識をしていたことを自覚して認識を改める、もしくは認識の対象を何らかの形で現状から変更する、ないし我々と愛の対象を結ぶ関係性を変更するといった方法がある。

 

 狂信性は他人から見れば、悪魔に乗っ取られた、妖怪に取りつかれたとすら見えるのかもしれない。しかし自らの行動原理を何らかの形で合理的に納得しようとする人間の習性によって、その人の内側では意外なほどに秩序だっているのかもしれないし、向かい合って話せば冷静に見えるのかもしれない。時に自らの中で築き上げられた正当化がその人の属する社会の規範から大きく逸脱しているために、初めは全く話が通じないし理解できない人のように見えるかもしれないが、その言葉の節々や全体から狂信的に見える人を規定する何らかの秩序を見出すことができるかもしれない。

 

 愛するとは理性を超えた感情の論理によってもたらされる心の状態である。愛が人を強く縛って何らかの意味で破滅させることもあるが、程度の違いはあるにせよ夢想状態にさせて大きな幸せをもたらすものである。人は何かを愛し、きっと答えてくれる、実際に答えてくれることに幸せを感じるのだろう。

 

 

 いくつ年を重ねようと、どれだけ多くの経験をしようと、人の心とはよくわからないものである。時には人に好かれる理由もわからず、人に嫌われる理由もわからない。今までの経験則から類推しようにも、人の心を織りなすものはあまりに複雑すぎて適用できないことが多い。人間の心はいかなるものか、古代から現代まですべての人間にとって永遠の課題であり、日常生活から高尚な賢者の言葉まで、あらゆる人間が人はいかなるものかを説いてきた。

 

 人の心が難しいのは、専ら各人の背負っている歴史の違いによってその心の動き方が全く違ってしまうことによる。同じ文化で育ってきたものの方が、お互いに共通した世界理解を持ち、似た言葉の使用をするであろうから一般に分かり合える部分が大きいと考えられているが、私はそれほど他の文化で育った人々と日常的によく接しているわけではないのでこれが正しいかわからない。ただ、同じ文化で育った人間であっても世代を問わずその行動や考えがよく理解できない人間がたくさんいることは知っている。

 

 そして同じ場所で同じように育ってきたように外面的には見えても、実はその人の趣味や家族との関係、インターネット上での活動など、見えないところで大きな差があり、それらはたいてい心の動きの大きな差を生みだす。それに、最近の傾向かどうかは私にはわからないが、相手によって全く身のふるまい方を変える人が大半のようで、人に見せる態度には共通部分もあるもののその場限りであることも多く、その隠蔽的態度は人の心の真のふるまいがそのまま自然と外に現れるのを強く妨げ、私がその人の心の動きを真に理解することを妨げる。そういった態度は感情が自然な形で外に現れるのも妨げるため、自然な感情を失わせ、ますますその人を私が理解することを難しくする。

 

 外面から読み取れる人間の心の動きは非常に大きな制約がかかっているが、それは人間が個別的動物、すなわち別々の身体を持った動物であり、共通した意識を持たない動物であり、かつほとんどの他者とともに過ごす時間が人生の長さに対して著しく小さいという性質を持っている以上、避けられないことである。人間が人間として生きるのであれば、人の心を完全に理解することは不可能であるし、部分的に理解することすらそれなりに相手のことを知らなければならない。

 

 だが、決して悲観することではない。理解できぬものを理解しようとするのは存外楽しいものだ。相手を知り、心の動きを少しずつ理解してゆく。人に近づき人と親密になっていく。まさしく幸せの道だろう。

 人に向き合い、人と生きる。人間のあり方は時代とともに変化せども、人が人とともに生きることに変わりない。人に向かい合うにあたって誠実さを保つことは非常に難しいことである。人は虚構ないし語らぬことによって真実を隠し、自らをよりよく見せたがるからだ。社会の中で我々は建前のみで生きるすべを身に着け、いつしか虚飾が当たり前となって初めは自らが話すのを控えておこうと考えていたことがいつの間にか話さないと決めていたことすら気づかない、根拠の薄いままなんとなくそれは話さないことになっているため話さない、といったようになりがちだ。自分が話さないでおこうと決めたことから人間の歪みが生まれ、他人から見れば全く誠実でないふるまいが自分にとって誠実なものとなってゆく。

 

 人間がさらに歪んでゆくと、自らが歪んでいることを自分でも気づくようになってくる。自らの歪みが明らかに他人の自分への態度、評価に影響を与え、自分が歪んでいる、何か腹の中に後ろめたいものを隠しているように見えているということがおぼろげながら(時にはっきりと)伝わってくるからだ。そこで歪みを直そうと努力できる人間もいる。間違いを間違いと認める、言わなかったことがあると自分で気づき、反省して人に言えないようなことを減らしていこうと努力するのが望ましい。そうでなければ、人間は自らが歪みを抱えていることを知ったうえで、自らの精神的一貫性を担保するために、歪みを正当化しようとする。自らが一貫していないことを批判的に認めつつ生き続けるのは高度な知性が要求されるのに対し、どんな形であれ歪みを正当化した方が精神的に快適であるからだ。しかし合理的に正当化しえないものに根拠づけようとするのであるから、正当化の手法は決して合理的なものではありえない。具体的には、皆がやっているから問題ないという集団的行動による根拠づけ、または歪みがあるけどそれを批判しても仕方がない、もっと他に重要なことがあるという論点のすり替えによる肯定的な逃走、または歪み自体を聞かなかったことにするないし別のものに熱中するないし酒を飲むなどの行動によって忘れるといった消極的な逃走がある。

 

 だが、それでは人間のあり方としてあまりに悲しすぎるではないか。知的にあまりに怠惰である。私は間違いは間違いと認め、それを直したうえでより良い人のあり方を追い求めたい。自らへの反省から人がより良くなる手がかりが生まれる。何より、自らに誠実でない人間が他人に誠実であることなどありえない。他者に対して誠実であろうとするにはまず自らが誠実でなければならない。他人に向き合う自分がまとっている虚飾に気付き、それを正すことが大切である。