未来は希望を与え、生きる活力を与える。明日は今日の続きではなく、断絶したものにすることができると信じることができる。今日の喜びで明日も喜ぶことができるとは限らないし、今日の苦しみが明日には消え去っているのかもしれない。先の夜に夢を見れば、人生を大いなる連続性を持った一続きの流れと解釈することができ、大いなるものの中に自らの体を預けることができる、されど人の世にあれば一日とはその日限りのものであって、その次の日に持ち越すことのできないものである。永劫の時の流れの中で断絶を繰り返しつつ前へ歩む、人間のあり方は実際的であり、美しいものだ。とはいえ、私がそれに美しさを感じるときには人間をその具体性を捨象されたある種理想的な存在として想像しつつ考えているのであって、具体性を帯びてくるとまた違った様相が現れ、抱く感情も様変わりするであろう。

 

 生きていれば喜びがあり、悲しみがある。楽しいこともあるが、怒りはない。中庸の精神は怒りという感情を自然と遠ざけてしまう。人は人としてこの世にあればある種の類型化された像に当てはめられるような存在になっていくのは不思議である。これほど多くの人間がいてどうして似たり寄ったりな人間ばかりになってしまうのだろうか?所詮は何れらかの社会の摂理を受け入れているだけなのだろうか?しかし、だからといってそんなにつまらない存在であるとは思えない。生きる活力を感じさせる人間がいる、戦う闘志を持った人間がいる。それは類型化された存在でありうるにせよ、もしも私がそこにに何か新しいもの、創造的なものを見出した時には、かれらは非常に面白い人間に見えてくるはずだ。

 

 明日という日に感謝をささげる。明日という日を言祝ぐ。今私がここにあるのは、過去の付託でもあるが、先が見えることにもよる。先の世の夢が私を私たらしめているのか。いや、それだけであるまい。人間が人間足りうる理由を説明するのはあまりに大変で複雑である。きっとそんな単純なものではないだろう。今日の私はただ、未来を生きる私の幸多からんことを願うのみである。

 私の眼前を川が流れている。夜の暗闇の中、ずっと遠くにある向こう岸のマンションやビル、なんだかよくわからない建物が発する光を背景として、ただ照らされたさざ波が川の存在を明らかにしている。あたりは人がなく地表の露出した何もない川岸だ。土手の向こうまで高い建築物が所狭しと並んでいるのに、ここは人間の気配が薄い。

 

 随分と遠くからきて果てしない場所へ去っていく。人が時の流れを川に例えるのもわかる。川辺に人が住み着き、村を作り、町を作り、世界を形作っていく。しかし今目の前にあるものが永遠に続くとは限らない。向こう岸の街も、背中の向こうにある街も、500年後には森に変えるのかもしれない。未来人はこの土地に町があったか尋ねられれば笑って答えるだろう、「馬鹿言いなさんな、ここは500年前、いや1000年前の昔からずっと森だったよ。」

 

 有形のものは形を変化させるが、それもなにか大いなる抗いがたい力により指向させられるのかもしれない。川は風にかすめられて細かい波の連なりを生み出し下流へと運んでいく。いかに強い力で水面をたたきつけようとも、すぐに中和されて消え、元に戻る。だが、そのような大いなるものも長い年月をかけてその本性を変化させていく。科学者のいうところには、川は時間をかけて形を変えていくそうである。この大自然には不活性で絶対に変わらないように見えるものも、少しずつその様相を変化させていくらしい。

 

 なんとも壮大なことだ。さしずめ私が見ていることなど川にとっては路傍の石となんら変わらないのだろう。だが、まあいい。思わず笑みがこぼれた。

 

 

 今日は、現段階における私の物理学についての世界像の骨格をまとめてみる。

 

 物理学の基礎には量子力学と一般相対性理論がある。ここでいう量子力学とは素粒子物理学を含んでいる。すなわち私の言う量子力学とは基礎に(古典力学における簡単な理論を超えた)特殊相対性理論を含んでおり、それは古典力学について一般相対性理論の重力場のない場合として得られる特殊相対性理論とその基となる原理が異なる。今述べた中に含まれているように、一般相対性理論からは即座に重力場のない場合として古典力学的特殊相対性理論が、前者の特別な場合として得られる。

 

 量子力学から非相対論的古典力学を導く方法は、私の知る限りハイゼンベルグの運動方程式に含まれる交換子をポアソン括弧に置き換えることで古典力学の正準方程式を得るという方法と、非相対論的量子力学のシュレーディンガー方程式において波動関数を、ハミルトンの主関数に虚数因子をかけて換算プランク定数で割った量を引数とする指数関数に実数値関数を掛けた形にとり、半古典近似と同様の手法でシュレーディンガー方程式の換算プランク定数における0次近似をとることにより得るという方法の二つがある。しかし、前者の方法だと交換子をポアソン括弧に置き換える根拠が(私の知る限り)、正準方程式とハイゼンベルグの運動方程式が似ていること以外にないのに対し、後者の方法は非相対論的量子力学の運動方程式の0次近似として古典的運動方程式が得られるからその方法を(古典的運動方程式を知らない場合にも)行うことが正当化される。したがって、一般的には前者の方法がよく量子力学が古典力学の一般化であることの根拠に使われるが、論理的に正しい操作を行っているのはむしろ後者の方法であると思う。

 

 無論、古典力学はそれ自体でニュートンの運動方程式、ハミルトンの変分原理、ワイスの原理、カルタンの原理など、量子力学の近似としてではなくそれ自体別の原理から導くことができる。

 

 熱力学は、他の物理学の分野と一風変わって思弁的な考察の多い分野である。熱という概念は量子力学、古典力学のいずれからも導かれるものでなく、それをエネルギーの移動の一形態として(その詳細に触れるか触れないかは別として)熱力学で定義するのである。熱力学第二法則も古典力学や量子力学から導く方法が(私の知る限り)なく、それらに依らない原理として認めることが求められる。

 

 統計物理学は熱力学とひとまとめにして語られることが多いが、しかしその原理において熱力学と大きく異なる。まず時間に依存せず一定のエネルギーにおいて定められる状態という概念が意味を成す多粒子系を想定し、ある量子力学的状態をとる確率についての等重率の原理から種々の物理量を状態ごとに与えられる値に適切な比例係数をかけた平均値として得る。熱という概念や熱平衡という概念は熱力学と共通であるものの、エントロピーの表式は異なる(ただし熱力学と統計物理学での表式が数学的に一致することがわかっている)。

 

 (古典力学的)連続体の力学は古典力学において(ある意味での)微小体積内に十分多くの粒子が存在することをもってそれらの粒子の持つ速度の平均値をもってその微小体積内の代表点における速度とし、そのほかに種々の(理論が整合的であるための)仮定を設け、そして運動量保存則から基礎的な方程式を導くという形で構成される。そして、力学系の何らかの意味での理想化として構成方程式を選ぶことにより、我々は流体力学、弾性体の理論、その他種々の理論を得るのである。連続体の力学の基礎方程式の適切な近似によって、(広い枠組みでの)弾性体の理論から線形弾性理論を得ることもできる。また、流体力学の場合はさらに局所平衡仮定を行い、例えばその結果得られるナビエ・ストークス方程式に含まれる定数は熱力学的量である。

 

 電磁気学は意外と他の分野との関連性が薄いように見える。マクスウェル方程式は素粒子物理学における質量のないスピン1粒子を表す場が必然的に満たすべき方程式として導かれる波動方程式について、場を表す演算子をq数でなくc数とすることによって得ることができると思うが、私はやったことがないため確証はない。マクスウェル方程式は古典力学的特殊相対性理論の枠組みの中に組み込むことができ、その場合はローレンツ共変的である方程式として原理という形で扱われる。しかし、連続媒質の電磁気学については真の場についてのマクスウェル方程式について原子半径よりも大きいスケールだが巨視的には小さいスケールをもつ微小体積について古典的場の量を平均することで得るため、新しい仮定が必要だという意味で真のマクスウェル方程式の近似である。そのような仮定によって電気変位や磁場の強さ、電気分極や磁化という新たな量が、電場や磁場と関連した量として現れるのである。

 

 物理学の最も基礎的な部分は上のような構成になっている。ほかにも固体物理学や宇宙論、高分子物理学、量子力学的流体力学などいくつかあるが、それらは上に述べた諸分野の延長線上にある(無論、まだ述べていない各分野においてもそれぞれ新たに仮定を加えており、単なる定理として得られるものではない)。

 

 物理学は広く、奥深い。しかしそれは決してとらえられないものではない。異なる分野でもその構成には共通した部分があり、なにより使う言語は等しく数学である。各分野が似た方法で作られているため、共通した思考法で臨むことができる。少しずつ積み重ねていけば、物理学の世界像がきっとよく見えてくるだろう。

 

 

※2021/10/25 6段落目『熱力学と統計物理学での表式が一致』に『数学的に』を加筆