未来は希望を与え、生きる活力を与える。明日は今日の続きではなく、断絶したものにすることができると信じることができる。今日の喜びで明日も喜ぶことができるとは限らないし、今日の苦しみが明日には消え去っているのかもしれない。先の夜に夢を見れば、人生を大いなる連続性を持った一続きの流れと解釈することができ、大いなるものの中に自らの体を預けることができる、されど人の世にあれば一日とはその日限りのものであって、その次の日に持ち越すことのできないものである。永劫の時の流れの中で断絶を繰り返しつつ前へ歩む、人間のあり方は実際的であり、美しいものだ。とはいえ、私がそれに美しさを感じるときには人間をその具体性を捨象されたある種理想的な存在として想像しつつ考えているのであって、具体性を帯びてくるとまた違った様相が現れ、抱く感情も様変わりするであろう。
生きていれば喜びがあり、悲しみがある。楽しいこともあるが、怒りはない。中庸の精神は怒りという感情を自然と遠ざけてしまう。人は人としてこの世にあればある種の類型化された像に当てはめられるような存在になっていくのは不思議である。これほど多くの人間がいてどうして似たり寄ったりな人間ばかりになってしまうのだろうか?所詮は何れらかの社会の摂理を受け入れているだけなのだろうか?しかし、だからといってそんなにつまらない存在であるとは思えない。生きる活力を感じさせる人間がいる、戦う闘志を持った人間がいる。それは類型化された存在でありうるにせよ、もしも私がそこにに何か新しいもの、創造的なものを見出した時には、かれらは非常に面白い人間に見えてくるはずだ。
明日という日に感謝をささげる。明日という日を言祝ぐ。今私がここにあるのは、過去の付託でもあるが、先が見えることにもよる。先の世の夢が私を私たらしめているのか。いや、それだけであるまい。人間が人間足りうる理由を説明するのはあまりに大変で複雑である。きっとそんな単純なものではないだろう。今日の私はただ、未来を生きる私の幸多からんことを願うのみである。