人に向き合い、人と生きる。人間のあり方は時代とともに変化せども、人が人とともに生きることに変わりない。人に向かい合うにあたって誠実さを保つことは非常に難しいことである。人は虚構ないし語らぬことによって真実を隠し、自らをよりよく見せたがるからだ。社会の中で我々は建前のみで生きるすべを身に着け、いつしか虚飾が当たり前となって初めは自らが話すのを控えておこうと考えていたことがいつの間にか話さないと決めていたことすら気づかない、根拠の薄いままなんとなくそれは話さないことになっているため話さない、といったようになりがちだ。自分が話さないでおこうと決めたことから人間の歪みが生まれ、他人から見れば全く誠実でないふるまいが自分にとって誠実なものとなってゆく。
人間がさらに歪んでゆくと、自らが歪んでいることを自分でも気づくようになってくる。自らの歪みが明らかに他人の自分への態度、評価に影響を与え、自分が歪んでいる、何か腹の中に後ろめたいものを隠しているように見えているということがおぼろげながら(時にはっきりと)伝わってくるからだ。そこで歪みを直そうと努力できる人間もいる。間違いを間違いと認める、言わなかったことがあると自分で気づき、反省して人に言えないようなことを減らしていこうと努力するのが望ましい。そうでなければ、人間は自らが歪みを抱えていることを知ったうえで、自らの精神的一貫性を担保するために、歪みを正当化しようとする。自らが一貫していないことを批判的に認めつつ生き続けるのは高度な知性が要求されるのに対し、どんな形であれ歪みを正当化した方が精神的に快適であるからだ。しかし合理的に正当化しえないものに根拠づけようとするのであるから、正当化の手法は決して合理的なものではありえない。具体的には、皆がやっているから問題ないという集団的行動による根拠づけ、または歪みがあるけどそれを批判しても仕方がない、もっと他に重要なことがあるという論点のすり替えによる肯定的な逃走、または歪み自体を聞かなかったことにするないし別のものに熱中するないし酒を飲むなどの行動によって忘れるといった消極的な逃走がある。
だが、それでは人間のあり方としてあまりに悲しすぎるではないか。知的にあまりに怠惰である。私は間違いは間違いと認め、それを直したうえでより良い人のあり方を追い求めたい。自らへの反省から人がより良くなる手がかりが生まれる。何より、自らに誠実でない人間が他人に誠実であることなどありえない。他者に対して誠実であろうとするにはまず自らが誠実でなければならない。他人に向き合う自分がまとっている虚飾に気付き、それを正すことが大切である。