愛は複雑な心の指向性である。愛の始まりは、愛の対象自身に属する性質、もしくはその対象と世界との関係、もしくはその対象と我々との関係を、我々が好ましいと思うところから始まる。一時的なものであれば何かを愛する理由を簡単にあらわすことができるのかもしれない。しかし愛し続けていると、愛の対象と自分がいくつもの糸で結び付けられ、さてどうして愛するのかを問われたときに自分でもなんだかよくわからなくなってしまう。しかしそれでも愛しているのだ。いや、愛し始めたばかりですら愛する理由がわからないことがある。あっ、いいなぁというぼんやりとした興味、好感触と言うのがふさわしいか、そんな風な心の動きがいつの間にか愛に変わっていたこともあるし、まさに稲妻に打たれたのかのように自らの心をとらえて離さず、狂信的な愛が生じて自らの行動原理とすらなってしまうこともある。
何かを長く愛しているといっても、どうして愛しているのか理由をいくつも述べられることもあれば、ただよくわからないけどいとおしいものもあるし、惰性的だが今まで長く関わってきたからこれからも愛そうと思う場合もある。だが、何かへの愛というのは必ず守られなければならないいくつかの絶対的な条件が存在し、条件が破られない限りにおいてそれは愛されるのだと思う。これら条件は、普段は表立って意識されないものの、ある時とたんに表へ出てきて我々が誤った認識をしていたことに気付かせるのだ。そして愛は危機を迎える。これをいかなる形で乗り越えるのかは我々と我々の愛の対象に依存する。そもそも誤った認識をしていたという事実をうやむやにしてしまう、そうではなくて実際に誤った認識をしていたことを自覚して認識を改める、もしくは認識の対象を何らかの形で現状から変更する、ないし我々と愛の対象を結ぶ関係性を変更するといった方法がある。
狂信性は他人から見れば、悪魔に乗っ取られた、妖怪に取りつかれたとすら見えるのかもしれない。しかし自らの行動原理を何らかの形で合理的に納得しようとする人間の習性によって、その人の内側では意外なほどに秩序だっているのかもしれないし、向かい合って話せば冷静に見えるのかもしれない。時に自らの中で築き上げられた正当化がその人の属する社会の規範から大きく逸脱しているために、初めは全く話が通じないし理解できない人のように見えるかもしれないが、その言葉の節々や全体から狂信的に見える人を規定する何らかの秩序を見出すことができるかもしれない。
愛するとは理性を超えた感情の論理によってもたらされる心の状態である。愛が人を強く縛って何らかの意味で破滅させることもあるが、程度の違いはあるにせよ夢想状態にさせて大きな幸せをもたらすものである。人は何かを愛し、きっと答えてくれる、実際に答えてくれることに幸せを感じるのだろう。