ありました。
息子が生まれたとき、わたしはモンテッソーリ教育に夢中でした。
幼児教室や、勉強会もありましたが
そういうことで物足りなくて、
「おうちモンテッソーリ教育」にしようと
思ったのです。
実際、赤ちゃんの頃から、
3歳までって、もう「敏感期」がありますからね。
育てていて、もう、楽しくてたまりませんでした。
「ああこれがそうか」
「このただならぬ、こだわりは運動の敏感期なんだな」
とか
「この尋常ではない、繰り返し、執着は、外界への秩序感で・・」とか
もう、生きた教材、教育そのものだったので
もう、目が離せなくて。
もう、人間・・というか生命のちから、そのものを
息子達の様子を見ていて、感じられるわけです。
こんな贅沢な時間ってすごいなと。
これ。
●いろいろな色の洗濯ばさみ
●大きさ、種類もいろいろ
●100個以上、わざとたくさん準備し、「おせんたく」といって
毎日、やっていました。
洗濯もの以外にも、カーテンの裾にもこのようにつけていました。
そのカーテンの裾は、日の出前と、夕方、つまり
カーテンが閉まっているときの一定の時間にだけ、
息子は、はさんでいたのです。
時間、条件、生物としての本能でやっていたわけです。
外に100個以上(選択で使うものと同じかご/大中小にいれていた)
部屋用のは、別に準備していて
いちいち、ベランダをあけなくてもよいようにしていました。
部屋に専用のせんたくばさみがあれば、天候に関係なく
自由にでいるわけです。
「できたー、おかーさん」かな?
指の、「つまむ」という筋肉。運動の敏感期もそうです。
そして、並べる、という秩序の敏感期。
まあ、実際このように、はさんでいく、上手にはさんでならんでいますけれど
ここまでくるのは、暴れまわったり、
涙をこぼしながら、できるまでハサミつづけたり
まあ、見ていて興味深い光景でした。
撮ってあげるね、といったら
満足そうに。笑顔。
息子達の、敏感期は、注意深く見ていると
気付けて、楽しいものでした。
感覚の敏感期
運動の敏感期
のがさないように、こういうことに
じっくりつき合いたいなと思ってきました。
子どもを見る、って
大人の課題なんだろうな、と思っていました。
もうね、この3歳前でしたがここでも
こどもの「知性」はちゃんと表れていました。
洗濯ばさみひとつとっても、
●分ける
●集める
●比べる
●合わせる
そして
●連続させる
●包囲する
●抽象する
●因果関係を知る
知ろうとしている、ってことかな。
子どもを見ているとね、わかります。
じーっと。
人間を育ててみたい、という気持ちは
贅沢な、娯楽のような時間でした。
お出かけの時も、洗濯ばさみを、持ち歩いていた時期あります。
タオルや、ハンカチのまわりにはさんだり、自分の洋服に
はさんだり。
楽しかったなあ!!