내한국 私の大好きな韓国☆ -46ページ目

내한국 私の大好きな韓国☆

2010/12-2011/11まで韓国でワーキングホリデーを体験し振り返ってみる思い出日記で、3か月の語学堂終了後就職した怒涛の1年間。自分の記憶断捨離のため始めたblogでもある、今だからこそ落ち着いた第三者目線で見れる私が愛した韓国を綴る。

내한국
안녕 여로분!

板門店での話をもう少し。
いくつか観光客が回れるところをバスで案内してくれる。降りて歩くのは寒すぎだ。カメラを向けられる場所も銃口に間違われるため限られ、観光気分で行くには緊張するところだった。しかし日本の8人くらいのおじさま達は説明時間いびきをかき、列を乱すなと言われたそばから外れる始末。とても恥ずかしかった。これもツアーならではの洗礼だ。

トラ展望台では日本語を話せる軍人の方がいて色々と説明をしてくれたが、遠くて聞こえなかったのか?かっこよすぎて顔しか見えてなかったのかわからなかったが、母国の言葉を覚えてくれているという嬉しさだけはいまでも忘れられない。

ソウルに戻って、お買い物もできないなか何をしたか?
姉の友人が中国留学の時に知り合った韓国の方を紹介してもらっていたおかげで、おいしい焼肉と参鶏湯を食べることができただけではなく、右も左もわからないので車で送り迎えをしてもらい、なんとグランドハイアットのclubに連れて行ってもらい、踊りまくり、バーテンダーにカードを預けてくれたので飲みまくることもできた。なんとひどい女だろう。このclubのジュースは2,3000円する。とても高いお店だが悪い女だから仕方ないと知ってもらうことにする!

その悪行のせいか?友人は私と違いいい人だが、帰国の便で友人は税関で同姓同名がブラックリストに載っているということで、足止めになる。チェックインカウンターでツアーの担当者を呼んでくれと言われ待つこと1時間?彼女のせいで帰れないと本気の喧嘩になる。本当はそんなこと言いたいわけじゃなかったはずなのに、泣きまくる彼女、やっと出国ぎりぎりで許可が下りる。急がなきゃいけないし、免税を取りに行くため私は荷物カートに乗って彼女が走る。きっと最後の搭乗者になったようでみんなの視線が冷たかったが、なんとか初めての韓国を終えることができ私は胸がいっぱいだった。いっぱいといえば涙をためていた彼女に本当に謝りたいと思う。

最後にもうひとつ、韓国に降り立ったとき、ツアーバスで移動だった。感じたことのない痛い寒空、バスで移動できるのはなんとありがたいとだが、臭い。友人がおならをしたにちがいないと思い込み、ちょっと窓あけてくれる!?とお願いする。してないといわれたが信じがたいにおいがした。あれはキムチの香だな。これも今なら許してくれるとおもうが、謝りたい。本当に申し訳なかった。


写真* 当時の頃の写真。クラブに行った時のたのしい私。スミマセンㅠㅠ
내한국
안녕 여로분!

RSウイルスみたいな風邪をひいてしまい毎日更新するはずが、、、
12/20までにどうして韓国にいくことになったか、
どうしていきたいと思ったか?
なぜ韓国だったのか?
そして食事、就職、恋愛、結婚?民族?文化。
こんなことについて、現地で住まないとわからない!?
不思議な韓国の魅力についてお話していこうと思う。

どうして12/20かというと、そう韓国に飛び立ったのがこの日だからだ。

では初めて韓国へ行くの巻。2005/1
SNSのblogが流行りだして、コミュニティーにはいり、友達を増やすきっかけになりはじめたころ、私は大学生から付き合っていた彼とちょうど7年で別れたのだった。それも運がなく鈍感で別れ話になりながらもファミレスでお茶を飲んでいると半年前に別の人と結婚していた結果に。
最後のほうは、会社にも電話がかかってくるような感じで会社も辞め、彼氏も失い、神経衰弱になったところ、大学の友人と何故か?38度線を見に行くことになった!

 2月の旧正月の韓国は、2大市場も門を閉め、ほぼお店はやっていない。ソウルから北へ1時間ちょっとで、ツアーバスから軍隊のバスへ乗り換えて38度線の板門店へ到着。外国の方のみ参加できるツアーで死を覚悟した!という書類にサインが必要である。

 体感温度はマイナス20度?30度?知らなかった壮絶な戦争の話や、あの川を越えたら同じ民族がすむ別の国という事実と今もなお休戦中だが戦争の中ということを知る。

ソウルの町に帰ると寒すぎて
露店で目出し帽を友人と購入。2人でスタバに入ったら
全員がこちらを向いたので今でも笑い話のひとつだ。

写真* 当時の頃の写真。今思えば不思議な色のセンスの服!?
내한국
안녕 여로분!

母から何気なく聞きながら話せるようになった日本語だが、特に優れているわけでもない。
英語も中学校、高校、大学と10年も勉強するチャンスがあったはずなのに英検2級だ、しかし韓国語は、日常会話なら不自由ない程度に、あの1年でできるようになった!

大学は英文科を専攻し、ドイツ語を第2外語、ふたつとも中途半端で何も身になっていない、4年の1年間は学校にある全ての語学を勉強した。少し変わっているかもしれないが、当時テニスのキャンパスクルーという大学生なら入れるサークルに入っていて、様々な外国の友達に出会い話をしたいという安易な理由だった。

 1年間だけだったが、スペイン語、フランス語、中国語、韓国語を学ぶことになる。
スペイン語はローマ字読みで、日本人の先生で比較的優しい和気あいあいのクラスで、夏休みには娘さんの面倒をバルセロナで見るようにと教授に申し込まれたのに、バイトがあると断った!なんともったいないことをしたと今では思う。「gato negro(ガトネグロ)黒い猫」この単語しか思い出せない。

 フランス語は、入門ではなく会話を選択。本当に勉強することが大変だったことを覚えているが、優秀な学友となんとか1年間やりきった。それもキャンパスクルーで知り合った先輩の友達で、電気企業に研修に来たフランスの人の中にヴィヴィアンという26歳の男性を好きだったからだ、しかし日本語しか話せない、カラオケで「ど根性がえる」を歌う逞しい女性に負けて何もできなかった悲しい思い出。貿易事務に就職したとき英語の名前が必要ということでヴィヴィアンヌと名乗ったのはこの人が由来。実はフランス語!lol

中国語は、中国の厳しい先生で週に2回ある授業だが、1課毎進み、毎回会話の授業がある。「这个多少钱?(Zhège duōshǎo qián)これはいくらですか」チンプンカンプンで茫然する日々だった。学生は私を含め2人、1人が休めば家庭教師、手は抜けない。単語も簡単な文もこの後中国の会社で4年程働く時に役に立つ。

 韓国語について、舞台女優?出身の韓国人の教授はいつもたのしく屋外の階段で授業を受けたり、歌を歌ったり、ちぢみを焼いたが、「안녕하세요(アンニョンハセヨ)こんにちは」この単語も書くこともできなかったが、今でもあの時の歌や楽しかった思い出はすぐに頭に浮かぶ。語学は教える人によって変わるのだろうか?後々飛躍的に伸びる語学となるとは思ってもみなかった。

                                       続く

写真* 韓国では珍しくないカップルティー(お揃いのシャツ)