絶叫型歌手としては、海外では、「ラブ・ミー・トゥナイト」を歌った「トム・ジョーンズ」、「ラスト・ワルツ」を歌った「エンゲルベルト・フンパーディング」などがあげられる。日本では、まず、「硝子のジョニー」を歌った「アイ・ジョージ(1933年~)」を忘れてはいけない。本当に実力のある歌手で、ニューヨークの「カーネギー・ホール」での公演を果たしている。「愛のメモリー」を歌った「松崎しげる」も絶叫型歌手と言えるかもしれない。そして、極めつけは、「また逢う日まで」を歌った「尾崎紀世彦(1943~)」である。「また逢う日まで」は1971年に第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞のダブル受賞をしている。「尾崎紀世彦」が何故あのような、素晴らしい声が出るのか、どんなボイス・トレーニングをしたのかが知りたくて、「ウィキペディア」を読んでみたが、彼のお父さんがイギリス人と日本人のハーフでお母さんが日本人というクオーターであるぐらいしか、わからなかった。そういえば、彼の顔と声は、日本人離れしている。最近もテレビで歌っている姿を見たが、声は衰えていなかった。
以前は、オーケストラ・コンサートの「プログラム」は、最初が歌劇の序曲や前奏曲などの演奏時間の短い小品、次に協奏曲もしくわ大曲、そして最後にその日のメインの交響曲や組曲などの大曲。というのが通例であった。しかし、最近のコンサートの「プログラム」を見ていると、最初の小品が演奏されないものが多い。これは何故かと考えてみた。そもそも序曲や前奏曲は歌劇あってのものであり、序曲や前奏曲を単独で演奏するのは、不自然であり、演奏するモチベーションが上がらないということなのだろうか?また、アンコールでやればいいということなのだろうか?それから、最初に小品も演奏し、また観客の要望に応えて、アンコールなどをやると、夜のコンサートが多い ので、遅くなって、お客さんの帰りの足に影響が出るのを心配しているのであろうか?うがった見方をしてしまったが、ベートーベンの「エグモント」序曲・歌劇「フィデリオ」序曲、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲、ワグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲、ロッシーニの歌劇「ウィリアムテル」序曲、ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」序曲などを聞く機会が減ったのは、少々残念である。
オリンピックで浅田真央が「仮面舞踏会」をフリーで演じて、その作曲家ハチャトゥリアンの名前は有名になった。ハチャトゥリアンで忘れてはならない曲が「ガイーヌ」である。僕が子供の頃、「ガイーヌ」の中の曲である「剣の舞」はあちこちでよく耳にしていた。リズムのあるコミカル な曲なので、親しまれたのだろう。それと、なんといってもトロンボーンのグリッサンドが強烈な印象を与えたのだろう。トロンボーンのグリッサンドは、ある高さの音を吹き続けて、そのままスライドを伸ばしていくと滑らかに切れることなく音が下がっていく。この奏法は、ジャズでは頻繁に使われるが、クラシックで使われている曲は、僕は「ガイーヌ」しか思い浮かばない(現代音楽にはあるかもしれないが)。ハチャトゥリアンは、コーカサス山脈の南にあるグルジア共和国に生まれたアルメニア人である。この地方は、たくさんの小民族が集まっており、民謡の宝庫といわれる程、民族音楽の豊富なところであるらしい。おそらく「ガイーヌ」もそのような環境から生まれた作品なのだろう。またリズムも強烈で、聞いていると、自分の中で眠っていたものが呼びさまされる。血肉湧き上がる音楽だ。