ギャン父、毒母からの解放。アラフォーからの自分生き直しブログ -14ページ目

ギャン父、毒母からの解放。アラフォーからの自分生き直しブログ

自分の言葉で自己表現し、今と未来をより良く生きていきたい。回復途上ですが相談援助のお仕事もしています。書くこと話すこと…対話を通して人生の課題と向き合うお手伝いがしたい。ゆっくりまったり生きづらさから回復しながら生きてゆくのもいいもんだ♪

昨日、久々に弟からLINEが来た。
面と向かって話すのはなんとなく気まずいのか、母親と上手くいってないことについて
『いい加減、仲直りせぇよ(;´Д`)』
という内容が遠回しにつたわる

現在母親と同居中の彼は
私のことを母親からも色々聞かされ、
きっとやきもきしているに違いない。
弟に気を使わせているのは本当に心苦しいが
これはちょっと今すぐどうこうできる課題じゃないよ、と返信。

それに対して
『いつまでもそういうことでは姉ちゃんの将来のためによくないと思うんだ。』

…。
これ、どっかできいたことのある台詞(;´Д`)


昨日の夜、23時30分位の事。

「あたし、もう30分で14歳になる!」と娘。

「そうやねえ。ちょうど14年前の今頃からあんたはこの世に出てこようとしてたわ~。陣痛らしいものが始まって、病院に行ってね、まだ全然痛くないから帰されるかと思ったら『お産始まってるから帰ったらいかん』言われてね、それから一晩かけて、お母さん生まれて初めて徹夜したのが出産でよ…」
という生まれた頃の話を私はするのです。

他のことになると
「もう、その話、5回目!」
「何回も聞いた!」
と言って取り合ってくれないのですが
生まれた頃の話は
何回しても聞いてくれます。そんな
「14年昔の話」をしながら眠りにつきました。

去年はなんだかんだで誕生日ケーキを買いそびれ、誕生日祝いらしいこともしてあげられず…。
そのうち自然と親となんて誕生日を過ごさないのが普通になるのかなあと少し寂しく思っていました。



一緒に祝える間はやっぱり一緒に祝いたい。
今年は母である私の一番のお気に入りのケーキを一月前からお願いしていました。
お花とハーブで飾りまでして頂きました。
素敵なケーキで娘の誕生日を祝えるということが私の幸せです。
ソーシャルワーカーこまりです。
援助職として
自分がAC(アダルトチルドレン)だった、とか
機能不全家族の中で育ったとか
発達障害かも?
という話を
同業者にすると…(滅多にはしませんが)

ちょっとひかれます^_^;

私も自分のことに気がつくまでは
こういう話をされると
実際、ちょっとひいてました。
家族会とかも苦手です。(今も。)

当事者性やピアカウンセリング、ピアサポート、家族の力なんて全く信用していませんでした。

で、やっぱりひかれる、ということは
援助職全般、まだまだ当事者の力や家族の力を信じるのが難しいのが一般的なのかも知れません。

このことが悪いとかいいとかではなく

ちょっともったいないなぁと思います。

確かに
病気や障害、これまでの人生経験で
傷つきやすかったり
疲れやすかったり
その他諸々、しんどいことや難しいこともたくさんありますが

当事者だからこそ
できることもたくさんあるということは
最近ハラに落ちて理解できました。

私はそれを依存症治療をされている方、回復されたかたからも学びました。

そして
これは私の勝手な理解なのですが…

対人援助を仕事にしている人の中には
愛着や発達の課題をもっている人が本当に多い。
決してマイノリティーではないと思うのです。

一般的には人と関わる仕事はその仕事の特性から葛藤が多かったり、給料や働く待遇があまり良くないのですり減ってしまって離職やメンタル不調につながっている、と言われますが
もともと生きづらさや対人関係の課題を抱えた人がよく選ぶ職業で
仕事での葛藤などで余計に自分自身の課題をこじらせて不調や離職につながっているともいえる。

傷ついたことに
気がつくこと
それがより良く生きる第一歩なのかも知れません。

自分史を書き始めてより強く思うようになりました。

自分史の内容はズバリ、ひかれるような内容です^_^;

でも
私はブログで書き続けようと思います。

当然、
何コイツ?!って思う人もいるでしょう。
やだなぁと思う人は見ないで下さい。

こういうカミングアウト系の内容を公開するのは例えるならば

アタマとココロのゴミ屋敷の片付けを
一般公開しているようなものです。

テレビでもゴミ屋敷ドキュメントは嫌な人がいる。
見てみて『私も片付けてみようかな』と思う人もいる。

私のこれからのスタンスは
自分自身の当事者性を肯定して
愛着や発達の課題を整理しながら(アタマとココロのゴミ屋敷を整理しながら)
人と関わる仕事を続けている専門職
です。



前回は父親について書きました。

今日は母親の事について書きます。

母親は山間地域の小さな村の農家に生まれました。
四人兄姉の末っ子が母親でした。
母親も小さい頃は体が弱く、風邪をこじらせて死にかけたことがあったそうです。
そのことは母親は母の祖母から
『あんたは1回死にかけたので神様に返した子や』と言ってきかされていたそうです。
戦争後数年経過してからの生まれで
まだまだ貧しい農村でしたので母の兄や姉たちは中学卒業後に働きました。
何歳頃のことかは分かりませんが母親は末っ子だったこともあり、親戚に養子に出されたそうですが、その先では酷い待遇だったそうで実家に戻ってきたそうです。
母親だけは高校、短大と進学し、保育士の資格を取りました。
資格取得後は地方都市の保育園で保育士をしていましたが、結婚し、私を妊娠したときに早産するかも知れないと言われて保育士の仕事はやめました。
父親のことで書いたようにひぃばぁちゃんは父親にお金の責任をとらせなかったのですが、
母はそのことを『あんな甘やかした育て方をするから…』と批判しながらも父親のギャンブルで作った借金返済に後から奔走していたようです。つまりはひぃばぁちゃんと同じことをしていました。
それを『イネイブラー』(依存することを助長している人)と言うことは今の私には分かります。

母親は私にとってはどんな人だったかというと
3歳ぐらいの頃はとにかく厳しくて怖かったので一緒にいても落ち着きませんでした。
むしろ
ダメンズの父や絶対に𠮟らないひぃばぁちゃん、母親とは超絶不仲だった祖母と一緒にいるときの方がホッとできていたように思います。
当時、母親は近くの菩提寺のお手伝いに行くのに週に一~二回、夜遅くまで出かけることがありました。
早く寝なさい、も
真っ暗なトイレに一人で行きなさいも
言われないので
母親が不在の夜はなんだかホッとしていました。

そして妹の世話や何だかんだで忙しくしていたのか、よく祖母の家にも預けられていました。
私も自分から好んで祖母の家には泊まりに行っていました。
祖母やひぃばぁちゃんと近所の神社や堤防、公園に行った想い出はあるのですが、母親と出かけた想い出はほとんどありません。
こうやって書いてみるのですが、母親の生育歴はとても薄っぺらく、ふくらみがない感じがします。いろんなエピソードも聴いているはずなのに、父親の時のように、また、私が仕事で他人様の生育歴を書くときのように想像力が働きません。
それは母親が私に多くのことを語ってないからなのか
私が想像力を働かせたくない
働かせていないだけなのか

今は自分ではわかりません。

私の父親は

記憶(そのほとんどが母親からの悪口だったりする)をかき集めると
 
どうしようもないダメンズでした。
妹の誕生←前回も少しふれました。
父親と交わした会話や一緒に遊んだことはもう少し先できちんと書きながら振り返ります。(ダメンズでも直接の思い出はいくつかあるのです。)
今日の話は私が周りの大人(そのほとんどが母親からの悪口)から聞いた父親の「生育歴」です。
 
父親の父親(私の祖父に当たる人)はちいさいころに一度生家を追い出されたのだそうです。
この辺はとても複雑なのでジェノグラムでの解説が必要になります。

◎が私。線で囲んだ範囲が同居家族。
 
この写真の通り。
父親の父親(私の祖父)と父親の母親(私の祖母)も離婚し、祖母は長女(私の叔母)を連れて家を出ます。
祖母は同じ町内にずっと住んでいたので私たちとはその後も行き来はありました。
なので、生家に残された父親は父の祖父の後妻に育てられます。
そう、私を「叱らなかった」ひいばちゃん、その人です。
 
学校は小学校から隣の市の私立小学校に通いました。
高校卒業後、大手会社に就職し、28歳で結婚。29歳時に長女(私)が生まれます。
結婚当初よりパチンコや競馬、競輪、などのギャンブルをよくしていました。
会社での接待なのか、ゴルフもたしなんでおり、道具やゴルフウエアへの投資も怠りません。
麻雀で何日も帰って来ない日もあったようです。
 
怠りがちだったのは
家計に給料を入れる事。
 
小学生から
結構な額のお小遣いや電車に乗っての通学なので交通費を日常的に手にしていた父は
学校へ支払うべき月謝からも
時々抜き出しては
遊興をしていたとの事です。
 
集金が届いていない、と連絡が入れは
 
「忘れておりました。すみません。」
と、何事もなかったかのように
学校に直接お支払いに行っていたのは
「ひいばあちゃん」でした。
そう、ひいばあちゃんは父親のことも叱らなかったそうです。
言うと夫(私の曾祖父)に父親も叱られるので黙っていたのだそうです。
叱らなかった、というよりは叱れなかった、のかもしれません。立場上。
 
父親はお金のことは自分が考えなくても、責任を取らなくても
どこかで誰かが助けてくれる、と思って育ったようです。
 
父親はとても器用な人で
スポーツや勉強もそれなりにこなす人でした。
しかし、何かを突き詰めてやる、やり遂げることはなかったようです。
また、させなかったようです。
とあるスポーツではかなり上達したにも関わらず、
くだんの「ひいばちゃん」が
「けがをするとかわいそうなので、やめさせます。」といってやめさせたそうです。
父親も特にそのことに対して不満はなかったとの事です。(この辺りは本当は葛藤があったかもしれないと私は思うのですが…。今となっては分かりません。)
会話もそれなりにウィットにとんだ気の利いたやり取りができ、
社会的には「人当たりのいい、温厚な人。」という印象でした。
 
もう、ここまで書いて見渡してみたら
この家庭、危うすぎる!
としか言いようがない。
 
そして
子どもとしては
やっぱり思うのです。
なぜ
これだけのダメンズなのに
母親は父親と結婚したのだろう?
私は生まれたのだろう?
 
きっと母親の考え方や生い立ちも影響しているのだろうなあ、ということは
援助職の視点で見ると理解はできる。
 
私は
20代~30代の頃、こういう機能不全家族の中で育ってきたことを
自分の「欠陥」だと思っていました。
こんな「欠陥」だらけの人間が人を援助しようというのだから
とにかく人の何倍も何倍も努力しなければならない
援助職として「優秀」になって、人から認められなければいけない。
そうじゃないと援助職なんてやっちゃいけない。認められて、優秀に…
 
今、こうやって自分史を書くことで
色々な執着や
私の中の不全感を癒しているような気がします。
 
優秀ではないけれども
対人援助職もまだ続けていきます。