熊本市西区花園に所在する

浄池廟(じょうちびょう)です。

文化財の指定は受けていません。

 

 この廟は加藤清正の墓になります。説明板によると、加藤清正は慶長16年(1611年)6月24日に熊本城内で亡くなり、遺言により、熊本城に相対し、自身が築いた熊本城の天守閣と同じ高さの地に葬られ、浄池廟と称されました。

 元和2年(1616年)には本妙寺もこの清正の墓を守るために熊本城内から移転してきました。浄池廟は正面に清正の木像を安置していますが、その真下に清正が葬られているそうです。

 

 

 

 

※写真は2020年11月撮影

南阿蘇村両併に所在する

甲斐有雄の道しるべ(南阿蘇村両併所在)です。

文化財の指定は受けていません。

 

 甲斐有雄は江戸時代から明治時代にかけて活躍した石工です。旅人等のために、熊本・大分・宮崎県の山間部や道に迷いやすい場所に道標を総計約1,800基建てました。この南阿蘇村両併の道標は1,368という数字が刻まれていますので、1,368番目に建てられた道標ということが分かります。また、「右 たかもり 左 志んまち」と刻まれています。

 

 

 

 

 

 

※写真は2019年2月撮影

熊本市西区島崎に所在する

西の武蔵塚(寺尾家墓所)です。

文化財の指定は受けていません。

 

 説明板によると、寛永17年(1640年)に、藩主細川忠利に招かれて熊本に来た宮本武蔵は、5年後の正保2年(1645年)に千葉城跡の屋敷で亡くなりました。62歳でした。そして、遺言により東郊の龍田町弓削に葬られたというのが通説です。この西の武蔵塚は宮本武蔵の高弟の寺尾家の墓地です。死の直前の武蔵が寺尾求馬助に「兵法三十五箇条」を、その兄孫之丞に「五輪書」を授けて二天一流の正系を伝えたところから、愛弟子の墓域に葬られたという説も生まれてきたと思われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※写真は2023年9月撮影

熊本市北区清水本町に所在する

放牛地蔵(44体目)です。

文化財の指定は受けていません。

 

 放牛地蔵は、放牛というお坊さんが江戸時代の享保7年(1722年)~17年(1732年)にかけて現在の熊本市を中心に設置した石仏100数体のことです。現在では失われたものもありますが、県内各地で大切に守られています。

 

 

 

 

※写真は2023年9月撮影

宇土市花園町に所在する

三日(さんち)天満宮の石室です。

文化財の指定は受けていません。

 

 三日公民館の隣に所在します。

 凝灰岩の石材を彫り込んだもので、保存状態は比較的良好です。石室の左側面に銘文があります→「応永十九年 七月十一日 願主宝厳敬白」 ※応永19年=1412年

 石室自体がそんなに県内にあるわけではないですが、この石室は県内最古銘の石室になります。

 

 

 

左の小さい石造物が石室です。

 

 

 

 

左側面です。写真では少し分かりにくいですが、銘文がよく残っています。

 

 

※写真は2023年9月撮影

熊本市東区桜木に所在する

花立(はなたて)往還道標です。

文化財の指定は受けていません。

 

 熊本市と益城町の境にあります。

 道標には、

  右 すなとり

  左 ぬやま津

 と刻まれている道標です。江戸時代のものと思われます。

 

 

 

※写真は2023年9月撮影

宇城市松橋町古保山に所在する市指定史跡の

当尾(とうのお)の穴井手です。

 

 宇城市HPによると、 当尾の穴井手は、天保から嘉永年間(1829年から1854年)に古保山の外当尾地区から猫の迫溜池に至る台地の下に人工的に作られた延長500メートルの通水トンネルです。

  天保10年(1839年)に現在の松橋駅周辺にあたる松橋新開(干拓地)が築造された際に、用水源として猫の迫溜池が築造されましたが、台地間に挟まれ流入河川もなく、周囲からの取水面積は非常に狭く十分な取水量を得られませんでした。そのため、水源を古保山地区の迫田に求めましたが、溜池と迫田の間には台地が横たわり、そのままでは水の利用ができない状態でした。

  そこで、台地の下にトンネルを掘り、溜池に水を引くことが考えられたそうです。トンネルの線上には、5ケ所に地上に通じる朝顔形の穴を設け、トンネルにたまった泥揚げや井手竣工の際に利用されました。(現在は圃場整備で整地され、2ケ所となっています)

 

真ん中に見えているのが穴井手です(見にくいですが、、、)

 

 

 

※写真は2023年9月撮影

宇城市松橋町両仲間に所在する市指定史跡の

宮島貝塚です。

 

 宇城市HPによると、宮島貝塚は水田の中の台地上に立地しています。

 貝塚の広さは約60アールですが、現在は耕地となっており貝塚の面影をとどめていません。

   大正年間に、部分的に試掘された記録が残っており、それによると貝層の上層部に弥生土器、その下に縄文時代前期の曽畑式土器、さらにその下層から轟式土器が確認されています。ここが重要な点で、轟式と曽畑式が層位で新旧を確認できたというのが大きな成果でした。

   宮島貝塚は縄文時代前期から弥生時代にかけて、長い期間に形成された貝塚であることが分かります。

 

 

 

 

 

※写真は2023年9月撮影

宇城市小川町新田に所在する市指定史跡の

新地塘(しんちども)です。

 

 宇城市HPによると、新地塘は慶長13年(1608年)に加藤清正によって実施された新田新地の干拓で築かれた塘(堤防)です。

   新田新地は、八代地域で最初に着手された干拓地になります。

   干拓面積は67町(約66.4ヘクタール)と非常に広範囲で、干拓後には101戸、1,988人の移住者がありました。また、この干拓により、熊本藩は八百石の増収となりました。

   干拓時の塘が数か所に残されており、加藤清正が馬を歩ませて測量を行ったなどの伝承も残っています。

 

 

 

※写真は2023年9月撮影

宇土市栗崎町に所在する

打越の天神楠です。

文化財の指定は受けていません。

 

 かなり大きなクスノキですが、未指定です。指定文化財になってもおかしくないクラスのクスノキだと思います。丘陵を越えた北側には県指定文化財の「栗崎の天神楠」があります。

 

 

 

 

 

※写真は2023年9月撮影