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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「天気予報」がなんといおうと、

我々の周囲の人々は、

「梅雨のよう」と感じているようです。

 

じっさい、毎日の会話の中に

「まだ五月だというのにもう梅雨みたい」

とう声も多いようです。

 

「天気予報」の予算は、

年間約600億円。

 

履いている靴や下駄の片方を

放り投げて占う天気予報の予算はゼロ円。

 

600億円とゼロ円を比べて、

高いか安いかではなく、

 

予報の正確度数に応じて予算を決めるなら、

気象庁に年間600億円支払うより、

 

街の子供たちに靴や下駄の片方を放り投げて、

その日の天気を言い当ててほしいような

気もしないでもない。

 

災害時の情報、予報ではおおいに

活躍してくれている「天気予報」ではあるけれど、

今回はそんな難しい話ではなく、

 

気象庁に600億円支払うくらいなら、

街の子供10人を集めて、

一人1回100円くらいの小遣いで、

四六時中靴や下駄を

投げまくっていただいていたほうが、

 

確実かどうかは別にして、

少なくとも予算的には超低予算が

実現しそうな気配も感じたりできるような

気もしないでもないのです。

 

うっとうしい空模様の下、

時に合理性や難しい話よりも遊び心を優先して、

街の子供たち相手に、靴や下駄の

投げ比べ的な遊びを

楽しんでみるのも、

 

『梅雨空』のうっとうしい気分を

払いのけてしまうには一つの

気晴らしとなってくるのかもしれません。

 

さてキリスト教はというと……、

 

さてさてレビ、レビ、レビ記です。

律法の書とされているけど、

 

要するに決まり事、イベントに関する

開催日時、日常生活の過ごし方にいたるまで、

事細かく記されているようです。

 

モーセ五書と称される中では、

最初から順番に

創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記

となるけど、モーセ五書のなかでは

一番面白くもない書でもあると考えています。

 

「イエス自身は、律法が人のためにあるのであって、人が律法のためにあるのではないという柔軟な姿勢を持っていたために、原理主義的な祭司たちから憎まれ、キリスト教はこの律法の書を正典としているわけだが、その中の生贄のシステムはすべて、後にイエス自身が自分を神にささげ、神とすべての人々のために平和をもたらしたことのシンボルであると読み説いている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

自滅という感があります。

イエスは新約聖書作成にあたって、

イエス自身の立場を表明したいがために、

旧約聖書をパクッたわけですが、

 

そこにはなんと律法の書レビ記も

含まれていたわけで、この中の

生贄システムに自らが引っかかってしまった。

 

モーセ五書の解釈をめぐって、

原理主義派と柔軟派に分離してしまったことも

イエスにとっては想定外であったのかも知れないけど、

 

とりあえずは自らの死をもって、

自らの正当性を認知周知していただく以外には

戦略的にキリスト教を認知周知させる方策が

見つからなかった。あるいはその方策が

思いつかなかった、またはその方策以外の方策を

組み立てるだけの戦略的才がなかった

とも考えられるのかも知れません。

 

続いて民数記に入ります。

僕自身の寿命余命を考えると、

少しスピードアップしていったほうが、

賢明であると判断いたしました。

 

「人々の数が新しく数えられた。20歳以上の者が12部族合わせて60万人以上いたというから、都市国家くらいの規模で移動していたわけだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

古代から現代でも、

都市国家といえば

人口10万人~100万人

くらいであったようです。

 

ちなみに、現代では

東京の人口が1500万人弱、

大阪で900万人弱、

東京都八王子市が60万人弱で、

 

ちょうど東京都八王子市の市民全体が、

日本中をウロウロうろついていたという構図が

最も分かり易いのかとも思われます。

 

「モーセ自身も神の命令に正確に従わないという罪を犯したし、行程のつらさに不平を言った民は神につかわされた蛇にかまれて死んだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

戦略的人心掌握術の

基本中の基本であるようです。

 

モーセは自分自身を軽い罪人として、

軽い罰を受けることによって、

モーセ自身の命令に背く者、つまりは

神の命令に背く者には死をもって応じる

という戦略に打って出たようにも考えられるのです。

 

「人々が後悔しモーセが祈ると、神は青銅の蛇が竿に巻き付いている杖を作らせ、それを仰ぎ見る者の傷を癒した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

大人数による果てしない歩行旅では、

モーセも歩き疲れ杖が欲しかった。

 

軽い罪を犯してしまった者同士の

連帯感を利用して自らの杖を作らせ、

挙句の果てにはその杖を信仰の

よすがとなるような体現を与えれば、

 

これはもう人々をモーセ一色、

神への畏れとモーセへの畏怖を

ごっちゃ混ぜにして、

 

モーセを神とも崇める戦略に

打って出たというようにも

考えられなくもないようにも思われます。

 

歩きスマホはもはやアタリマエ。

ベビーカーを押していても平気でスマホ、

自転車に乗っていてもアタリマエに

スマホから目は離せない。

 

こんな理不尽がアタリマエになった結果、

ほったらかしにされた幼児が

事故に巻き込まれて死亡したり、

 

障害者である老婆もアタリマエに、

事故に巻き込まれて死亡するなどの、

 

アタリマエになった理不尽が、

理不尽がアタリマエになれば、

かならず弱者が被害者になってしまうようです。

 

歩道を横並びになってふさいでしまっていても、

それがアタリマエになり、

 

電車内で大声をあげていても

それがアタリマエになり、

 

アタリマエが横行すれば、

かならず理不尽も横行してしまう。

 

こんなアタリマエに気づかぬのもアタリマエ、

こんなアタリマエを

考えたこともないというのもアタリマエ。

 

アタリマエに理不尽が横行してしまえば、

 

その先に見えてくるのはアタリマエに、

理不尽な加害者であったり、

理不尽にも被害者になってしまう人々。

 

こんな世の中、そうそう

長続きもするわけもなく、

 

そんな社会はアタリマエに

歪んで混沌に陥ってしまうのかとも

考えられなくもないとも思われます。

 

「長い間、西洋キリスト教国は進歩主義的考えを持っていたから、なんとなく、原始的なアニミズムや多神教からより進化したのが一神教であるというイメージを抱いていたが、一神教は、じつは、民族神から進化したのである。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

太陽や月、それに山や河川を、

神と崇めるアニミズムは、

そこから派生する科学や論理学の

基ともなる可能性はあり得ると考えています。

 

アニミズムこそフィシス的思考の

原点であるのかも知れません。

 

いっぽう民族神から派生するものは、

どこまでも民族間の対立や協調等々、

ノモス的思想へと発展してしまう可能性も

秘めているようにも思われなくもないのです。

 

歴史はこれを物語っている。

ナチスにしろ十字軍にしろ、

現在の南北アフリカ、中東地域における紛争も

これを証明しているとも考えられなくもないようです。

 

※フィシス、ノモスに関しては、当ブログの検索欄より

検索していただければ、まぁ、いろいろと

ああでもないこうでもないこれでもかというほどに、

能書きをご覧いただくことも可能なのです。

 

「イエスというユニヴァーサルなメシアを特定するためにだけ、神は延々とローカルな選民の歴史を作ってきたことになる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

たしかに…、

イエスであれ何であれ、

世界が特定のメシア(救世主)を崇め、

世界が一つになって統一された平和を

目指すのは悪いことではないようにも思われます。

 

しかしながら…、

問題はどんなメシアなのか、

どのようなメシアなのか、

なんならメシアとは誰なのか、

メシアなどいるのかいないのか等々の議論が、

もう少し真剣に真摯に世界規模で、

行われなければならないと考えています。

 

「偶像を破壊されたり他の神を拝むことを禁止されたりして初めて一神教とは何かを悟ることになる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

何にでも正の部分があれば

負の部分もあるのはアタリマエであるようです。

それでも…、

偶像破壊の現場を見れば、あるいは、

太陽神を崇拝することさえ禁じられれば、

人が違和を感じるのもアタリマエといえば、

アタリマエの情動であるのかとも思われるのです。

 

「イスラエルの民らしい部分は、神の姿をかたどった偶像なしでの礼拝システムだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

これが僕が最も単純に幼少のころから

イスラエルの民への憧れとなった所以となりそうです。

というのも単に日本の少年の目から見れば、

現代のように平気でイエス像マリア像を

礼拝する姿、いやイエス像マリア像そのものに、

芸術的異和を感じていたのかも知れません。

 

かといって、仏像も観音像も、ようするに

宗教芸術全般に違和を感じており、

それぞれの作品は素晴らしいと思うけど、

それが宗教と結びつけられた途端に、

それぞれの作品に違和を感じてしまうのです。

 

僕は幼少期、自分がイスラエルの民つまりは

ユダヤ教徒であり次に仏教徒となりさらには

陽明学の徒となりついには無神論者と

なっていった経緯もあるようです。

 

その経緯のなかには、この偶像云々、

礼拝システムの有様等々も

大いに関係していたようにも考えられるのです。

 

AIについての議論も

老人ホームでじぃさんばぁさんが

意見をぶつけ合う場合と、

 

大学の研究室あたりで

研究者たちが交わすそれとでは、

大きな差異が見られるようです。

 

しかしながら現実にはどちらでもよい

どちらもそちらも どちらもあちらも

なんだったらどちらもこちらもでさえ

正解である場合もあるのかも知れません。

 

大切なのは互いの意見を受け入れ合うこと。

相手の存在をおおいに認め敬い、

情をもってこれを治めるくらいの

心意気が大切であるとも考えられるのです。

 

日常においては、まるっきりの他者つまりは

for instance(たとえば)

通勤通学電車においての隣人にも

In addition to this(これにくわえて)

親愛の情であるとか、いたわりの気持ち、

博愛の精神であるとか、友情の如き親近感も

心がければ、みんながみんな、いっしょに

豊かで楽しいうれしい気持ちで

毎日が過ごせるような気もしないでもないのです。

 

「モーセに名乗った神は自分のことを〈在りて在る者〉とのみ表現した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

たいへん抽象的な表現ですネ。

哲学的論理学的でさえある。

 

在りて在る者。…存在論…。

 

在りて在る者を存在論として扱うのか、

そうでもないのかで解釈も意見も

分れるところではあるのでしょうけど、

僕は存在論として受け止めているようです。

 

ココ(当該コラム)でも、

「存在論」で検索してみれば、

 

ハイデカーにはじまり、ウィトゲンシュタイン、

ガブリエル・マルクス、池田晶子等々、

まぁ実に多くの哲学者が命題として

扱っているのかがわかります。

 

なかでも近年東京大学の

必須教科書になろうかという「死生学」においては、

生と死、神と人間の関係を、

実に真摯に、実に潔く、

扱っているのかなぁとも思われます。

 

「生と死の学問1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12651364151.html?frm=theme

 

在りて在る者…とは…。

そこの在るものを、そこに在るものとして

アタリマエに受け止める…。

 

まさにこれはフィシス、ノモスの関係に

由来するものとも考えられるのかも知れません。

 

パスカルパンセ32

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12589970936.html

 

フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理性

ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理

 

話がどんどん小難しくなってしまう

ような気もしないでもないのかも知れませんネ。

 

が、「在りて在る者」…。

 

人類は、いや、人間は、もともと

自然崇拝の傾向があるということ。

 

そしてその「自然崇拝」こそが、

まさに自然であり、アタリマエであること

であるような気もしないでもないのです。

 

「おそらくユダヤ人たちの間の民族神として認知されていた神が、試練の時代にリニューアルして出てきたのだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書そのものが、

ユダヤ人ありきで創作され、

つまりは人類は、

キリストなんぞが生まれて

能書きを言い始める数千年以前から

ユダヤ人によるユダヤ人のための

ユダヤ人による神を創出していた

ということのようです。

 

まさにイスラエルの民、またはユダヤ人が

「選ばれし民」と主張する根拠が

ここにあったのかと留飲がさがるような

気もしないでもないのです。

 

が、神は神であると信じたい。

事実、フィシス、ノモスの思想でいえば、

ユダヤの神であろうがイスラエルの神であろうが、

神は神なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

フィシスの神は、我々日本人にも、

ユダヤの神も、我々日本人にも

その恩寵を授けようとなさってくださると

信じるべきであるのかも知れません。

 

世界的に広がる一神教思想の原点が、

このように一民族の歴史に偏った視点で、

展開していってもよいものなのかどうかはわかりません。

 

しかしながら、フィシス思考的な神が、

一民族に恩寵を授けたり、この民族を庇い、

 

この民族に敵対する人々に災害を起こしたり、

あるいはこの一民族が律法を犯したり、

偶像崇拝に走ったりとした愚かなる罪を犯せば、

 

当の、その一民族にさえ、神は災いを

もたらしたりもしたそうな。