AIについての議論も
老人ホームでじぃさんばぁさんが
意見をぶつけ合う場合と、
大学の研究室あたりで
研究者たちが交わすそれとでは、
大きな差異が見られるようです。
しかしながら現実にはどちらでもよい
どちらもそちらも どちらもあちらも
なんだったらどちらもこちらもでさえ
正解である場合もあるのかも知れません。
大切なのは互いの意見を受け入れ合うこと。
相手の存在をおおいに認め敬い、
情をもってこれを治めるくらいの
心意気が大切であるとも考えられるのです。
日常においては、まるっきりの他者つまりは
for instance(たとえば)
通勤通学電車においての隣人にも
In addition to this(これにくわえて)
親愛の情であるとか、いたわりの気持ち、
博愛の精神であるとか、友情の如き親近感も
心がければ、みんながみんな、いっしょに
豊かで楽しいうれしい気持ちで
毎日が過ごせるような気もしないでもないのです。
「モーセに名乗った神は自分のことを〈在りて在る者〉とのみ表現した。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
たいへん抽象的な表現ですネ。
哲学的論理学的でさえある。
在りて在る者。…存在論…。
在りて在る者を存在論として扱うのか、
そうでもないのかで解釈も意見も
分れるところではあるのでしょうけど、
僕は存在論として受け止めているようです。
ココ(当該コラム)でも、
「存在論」で検索してみれば、
ハイデカーにはじまり、ウィトゲンシュタイン、
ガブリエル・マルクス、池田晶子等々、
まぁ実に多くの哲学者が命題として
扱っているのかがわかります。
なかでも近年東京大学の
必須教科書になろうかという「死生学」においては、
生と死、神と人間の関係を、
実に真摯に、実に潔く、
扱っているのかなぁとも思われます。
「生と死の学問1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12651364151.html?frm=theme
在りて在る者…とは…。
そこの在るものを、そこに在るものとして
アタリマエに受け止める…。
まさにこれはフィシス、ノモスの関係に
由来するものとも考えられるのかも知れません。
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12589970936.html
フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理性
ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理
話がどんどん小難しくなってしまう
ような気もしないでもないのかも知れませんネ。
が、「在りて在る者」…。
人類は、いや、人間は、もともと
自然崇拝の傾向があるということ。
そしてその「自然崇拝」こそが、
まさに自然であり、アタリマエであること
であるような気もしないでもないのです。
「おそらくユダヤ人たちの間の民族神として認知されていた神が、試練の時代にリニューアルして出てきたのだろう。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
旧約聖書そのものが、
ユダヤ人ありきで創作され、
つまりは人類は、
キリストなんぞが生まれて
能書きを言い始める数千年以前から
ユダヤ人によるユダヤ人のための
ユダヤ人による神を創出していた
ということのようです。
まさにイスラエルの民、またはユダヤ人が
「選ばれし民」と主張する根拠が
ここにあったのかと留飲がさがるような
気もしないでもないのです。
が、神は神であると信じたい。
事実、フィシス、ノモスの思想でいえば、
ユダヤの神であろうがイスラエルの神であろうが、
神は神なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
フィシスの神は、我々日本人にも、
ユダヤの神も、我々日本人にも
その恩寵を授けようとなさってくださると
信じるべきであるのかも知れません。
世界的に広がる一神教思想の原点が、
このように一民族の歴史に偏った視点で、
展開していってもよいものなのかどうかはわかりません。
しかしながら、フィシス思考的な神が、
一民族に恩寵を授けたり、この民族を庇い、
この民族に敵対する人々に災害を起こしたり、
あるいはこの一民族が律法を犯したり、
偶像崇拝に走ったりとした愚かなる罪を犯せば、
当の、その一民族にさえ、神は災いを
もたらしたりもしたそうな。