パスカル「パンセ」32 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

「元気でいる時は、病気になったらどうしてやり過すことができるのか訝しく思う。

 しかしいったん病期になると、喜んで薬を服用する。病気がその気にさせるのだ。

 健康な時には、夢中になって気晴らしや散歩をしたいと思っていたのに、その気持も失せてしまう。これは病気の欲求と両立しないからである。

 その時、自然は現在の状態に合致した感情と欲望を与える。

 私たちの気持ちを乱すのは、自然ではなく、私たちが勝手に作り出す思考だけだ。

 稚拙な思考は、私たちの現在の状態に、そうではない状態で感じる感情を結びつけてしまうからだ。」

(「パンセ」パスカル)

 

健康な時には健康な時なりの思考、病を負った時にもそれなりに

人間の心身もアタリマエに自然の一部なのですから、その時々に

応じた臨機応変しなやかな思考が宜しいのかも知れません。

 

「自然は、アンダー・ガイダンスである。自然は、優しい案内人である。 賢明、かつ、公正で、しかも、やさしい。」

(「エセー」モンテーニュ)

 

「モンテーニュ『自然』」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11879403740.html

 

天地の自然と己の自然体とのバランスこそが肝要であるようです。

そしてこれはそのままフィシス・ノモスの論理的命題とも

なってくるような気もしないでもないのです。

 

フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理性

ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理

 

「コスモポリテス 12」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12570515510.html

 

「愚かな人々は、死も惨めさも無知も免れることができないと思い込み、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとしている。」

(「パンセ」パスカル)

 

死を免れることは不自然で不健全で不可能でもあるけれど、

神への冒涜でもあるのかも知れません。

 

が、「そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとしている」ほどに愚かなこともないようにも思われます。

 

死は考えることで生の意味も理解し易くなる。

生の意味が理解し易くなれば死の意味も理解し受け入れる、

 

または諦めることも肝要であると悟ることも可となる

ような気もしないでもないのです。

 

「誰にだって起こりうることが、誰かに起こってしまったといって、悲しむのは、正しいとこととはいえない。」

(「エセー」モンテーニュ)

 

「美知武習録198(ニーチェ)

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534122142.html

 

「賢い人とは、死が穏やかな世界への旅立ちだと信じられる人である。 だから、彼は、死が近づいてもあわてふためくことがない。」

(「老年について」キケロ)

 

「賢人会 6」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12413346764.html

 

さらには

 

惨めさも無知も免れることができないと思い込み、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとしている。」

(「パンセ」パスカル)

 

などという人々は間違っていると思います。ただ逃げているだけ

人生を、人間を、己を何だと思っていらっしゃるのでしょうか。

 

天地から与えられた人生は有難く感謝をもって謳歌すべきもの。

「考えずに済ませることで幸せに」などという人々は幸せになる

べきではない人々とされてしまう怖れもあるのかも知れません。

 

確かに人間は惨めで無知ではあるけれど、それを克服しようと

努めることで、それを受け入れ悔改し知を求め知に縋り、

それを糧として自らの手で幸せを掴み取ろうとするスタンスこそ

が、全能の神々に対する崇美、数徳の礼であると思われるのです

 

感謝と歓びは合致する。

 

「もっと悦ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと歓ぼう。

悦ぶことは気持ちいいし体の免疫力だって上げる。 

歓べば、くだらないことを忘れることができる。他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。

周囲の人々も嬉しくなるほどに喜ぼう。

悦ぼう。この人生、もっと歓ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。」

(「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェ)

 

「無双無想の極意」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12243128109.html