「元気でいる時は、病気になったらどうしてやり過すことができるのか訝しく思う。
しかしいったん病期になると、喜んで薬を服用する。病気がその気にさせるのだ。
健康な時には、夢中になって気晴らしや散歩をしたいと思っていたのに、その気持も失せてしまう。これは病気の欲求と両立しないからである。
その時、自然は現在の状態に合致した感情と欲望を与える。
私たちの気持ちを乱すのは、自然ではなく、私たちが勝手に作り出す思考だけだ。
稚拙な思考は、私たちの現在の状態に、そうではない状態で感じる感情を結びつけてしまうからだ。」
(「パンセ」パスカル)
健康な時には健康な時なりの思考、病を負った時にもそれなりに
人間の心身もアタリマエに自然の一部なのですから、その時々に
応じた臨機応変しなやかな思考が宜しいのかも知れません。
「自然は、アンダー・ガイダンスである。自然は、優しい案内人である。 賢明、かつ、公正で、しかも、やさしい。」
(「エセー」モンテーニュ)
「モンテーニュ『自然』」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-11879403740.html
天地の自然と己の自然体とのバランスこそが肝要であるようです。
そしてこれはそのままフィシス・ノモスの論理的命題とも
なってくるような気もしないでもないのです。
フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理性
ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理
「コスモポリテス 12」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12570515510.html
「愚かな人々は、死も惨めさも無知も免れることができないと思い込み、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとしている。」
(「パンセ」パスカル)
死を免れることは不自然で不健全で不可能でもあるけれど、
神への冒涜でもあるのかも知れません。
が、「そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとしている」ほどに愚かなこともないようにも思われます。
死は考えることで生の意味も理解し易くなる。
生の意味が理解し易くなれば死の意味も理解し受け入れる、
または諦めることも肝要であると悟ることも可となる
ような気もしないでもないのです。
「誰にだって起こりうることが、誰かに起こってしまったといって、悲しむのは、正しいとこととはいえない。」
(「エセー」モンテーニュ)
「美知武習録198(ニーチェ)
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534122142.html
「賢い人とは、死が穏やかな世界への旅立ちだと信じられる人である。 だから、彼は、死が近づいてもあわてふためくことがない。」
(「老年について」キケロ)
「賢人会 6」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12413346764.html
さらには
「惨めさも無知も免れることができないと思い込み、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとしている。」
(「パンセ」パスカル)
などという人々は間違っていると思います。ただ逃げているだけ
人生を、人間を、己を何だと思っていらっしゃるのでしょうか。
天地から与えられた人生は有難く感謝をもって謳歌すべきもの。
「考えずに済ませることで幸せに」などという人々は幸せになる
べきではない人々とされてしまう怖れもあるのかも知れません。
確かに人間は惨めで無知ではあるけれど、それを克服しようと
努めることで、それを受け入れ悔改し知を求め知に縋り、
それを糧として自らの手で幸せを掴み取ろうとするスタンスこそ
が、全能の神々に対する崇美、数徳の礼であると思われるのです
感謝と歓びは合致する。
「もっと悦ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと歓ぼう。
悦ぶことは気持ちいいし体の免疫力だって上げる。
歓べば、くだらないことを忘れることができる。他人への嫌悪や憎しみも薄くなっていく。
周囲の人々も嬉しくなるほどに喜ぼう。
悦ぼう。この人生、もっと歓ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。」
(「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェ)
「無双無想の極意」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12243128109.html