日常生活においては
日本語、英語、和製英語と
言葉は入り混じり、
最近ではこれに中国語、中国語でも
広東語、北京語、上海語が入り混じり、
欧米人の中では英語はもちろん、
イタリア語、スウェーデン語、ポルトガル語等々、
僕のような愚爺の日常においても、
これらの言語が入り混じって
耳に入ってくるようです。
そこでただでさえ愚爺というくらいの
愚かなジジィにはもはや
何が何だかわからぬような日々を
過ごさねばならぬ状況とも
なっているようなのです。
たまの散歩に大学キャンパスを
うろつき回って見ていても、
愚爺には自分がどこにいるのか、
どこの国に来てしまったのかさえ、
わからなくなってしまう。
ましてや僕が散歩コースとして
利用させていただいている大学では、
昨日まで五月祭と名打った文化祭で
世界中の人々が
集まってしまったのではないかと
思われるような盛り上がりを
見せていました。
こうなるともう愚爺には自分が
どこの国の人なのか、自分が
どこの国に来てしまったのか、
今日は何年何月何曜日?
というレベルの戸惑い様となるのです。
グローバル化もいいけれど、
しっかりとした日本語、
しっかりとした日本人意識を
保たなければ、さもないと僕のような愚爺は、
言語的に戸惑っているだけなのか、
すわ認知症が悪化したのか、
それさえわけもわからなくなって
しまうような気もしないでもないのです。
「ユダヤ人というと、しっかりと彼らの神を崇拝し続けていたのかと思うだろう。しかし前述したように、一神教の厳しさはいかに他の神をあきらめるかというところにあるので、平和が続いて緊張感が緩んでくると、人々はいっせいに私欲を実現させるように偶像崇拝に走ったようだ。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
すべては同じパターンで繰り返される。
我が国においても、先の戦争時には、
国民が一体となって清貧、謙譲、
譲り合いの精神に溢れていたであろうに、
平和が続いて緊張感が緩んでくると、
人々はいっせいに私利私欲を
実現させるようにカネの亡者と化し、
いっせいにカネ、カネ、カネの社会へと
走ったようだ、と書き変えることもできるようです。
すべては同じパターンで繰り返される。
ユダヤも日本人も人類はおしならべて、
全体の災難時には清貧、謙譲、
譲り合いの美徳が現れ、
平和が続いて緊張感が緩むと、
今度はおしならべて私利私欲、
カネ、カネ、カネへと
走ってしまうようです。
すべては同じパターンで繰り返される。
戦争と平和、被災時と安定、
現在の我が国は中長期的にみて比較的、
平和であろうとも思われるので、
次には必ず戦争か被災という状況が
待ち受けているとも考えられます。
「ルツ記 女性の名を冠しためずらしい書。時代は『士師記』と同じで紀元前12世紀前後だと思われる。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
このあたりになると
かなりあやしくなってきます。
成立年代も曖昧で、現在もなお
学者の間では議論が終結していません。
旧約聖書には
いっさい登場しなかったイエスの名も
いきなり登場し始めるのもこの書の
特徴であるのかとも考えられます。
「ルツは死海の東南側でイスラエルの民の領地ではないモアブの国の出身の女性だが、イスラエルの神を拝していた。夫がユダの出身だったのだ。夫の死後ヨルダン川を西へ渡って姑のナオミと共にユダのベツレヘムへ行き、ナオミの金持ちの親戚と結婚した。この結婚によって始まった家系からイスラエル統一王国の王ダビデ(ルツの曾孫)やその子のソロン、その数百年後にイエスが生まれることになる。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
長々となりましたが、
これが嘘かホントかわからないイエスの
誕生に関わる重要な記述であるのかとも
考えられたのでした。
そしてここからが
学術的には旧約聖書にはない
嘘かホントかわからないとされる
記述の始まりとなるのでした。
「ヨルダン川の北の端にあるガリラヤ湖辺の地方であるナザレのヨセフとマリアの子であるイエスがわざわざユダのベツレヘムで生まれたとされているのは、このイスラエル統一王国のダビデの家系であることを強調するのに役立っている。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
旧約聖書と新約聖書では、
矛盾してしまう物語が多いようです。
その矛盾の原因は、もともとユダヤ人のための
ユダヤ人によるユダヤ教の聖書が
旧約聖書で治まっていれば済んでいるものの、
それを欲張って、キリストという
実存するのかしないのかもわからぬ人物を基に、
ユダヤ民族をも取り込んだキリスト教なる組織を
広めようとした結果によるものであるとも
考えられるようにも思われなくもないのです。