コラム・インテリジェンス -13ページ目

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

当ブログ

「ソフィア9」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12895732818.html

に引き続き、

女性被害者の殺人事件。

 

埼玉、宮崎に引き続き、

川崎でも、

女性被害者の殺人事件です。

 

川崎での

殺人事件については、

警察の対応も問題になっていますが、

 

いずれにしても、

殺人事件の被害者が

女性であるという共通項。

 

真剣に、

女性同士で話し合い、

そこに愚老の意見なども加えて、

真剣な

意見、議論が

求められていると考えます。

 

前回は

コメントを求めても、

それに応答くださるかたが

皆無でしたが、

今回も、

懲りずにコメントを求めます。

 

是非、真剣に、

考えていただきたい。

命の問題です。

 

自分の命が、

他者の手により、

終わらせられてしまうなんて、

 

自分の人生が、

他人の手により、

終わらせられるなんて、

 

こんな理不尽はない。

こんな不幸もない。

 

どれだけの悲しみが、

そこに集約されてしまうのかなんて、

考えたくもない話だけれど、

 

一人で守り切れない命なら、

一人では

どうすることもできない悲劇が

そこにあるのだから、

みんなの 真剣な 対応が

求められているのだと考えます。

 

「ヤコブとその十二人の息子の一族であるイスラエルの民がエジプトに移住してから長い年月(430年)が流れたが、新しいエジプト王ファラオは彼らを奴隷にしてしまった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

いわゆる〈出エジプト記〉ですね。

 

出エジプト記は、旧約聖書の一節で、

旧約聖書そのものは

モーセ五書と呼ばれる

「創世記」「出エジプト記」「レビ記「民数記」「申命記」

の各節からなり、アタリマエに筆者モーセ

とされているようです。

 

ユダヤ人と称される人々は、聖書の中でも、

ヘブライ人と呼ばれたりへブル人と称されたり、

まあ曖昧でもあるわけですよネ。

 

ただ、このヘブル人、原義が、

「国境を越えて来た者」

「川の向こうから来た人々」であって、

これもなんだか曖昧ではあるようなのです。

 

そこで僕は個人的に、

ヘブル人と呼ばれるどこから来たのかも定かではない、

どこの馬の骨ともわからぬ人々、

なんなら本当に人類であったのか宇宙人であったのか、

なにしろそれまでの人類が見たこともない人、

「どこからか来た人々」であることから、

 

ユダヤ人、つまりはヘブライ人あるいはヘブル人こそが、

それまで地球上で暮らしていた「人々」とは

違った「人々」「生物」であり、

ユダヤ人の物語≒旧約こそ、ユダヤ人のものであり、

新約すなわち新約聖書から後の物語は、

のちにキリスト教徒と呼ばれる人々の、

キリスト教徒の物語であるのだと理解したいと

思ったり考えたりもしているのです。

 

「奴隷化された民は神に祈り、神は民を救う指導者としてモーセを選んだ。紀元前1300年頃のことだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書によれば、奴隷化すなわち

迫害を受けた受難者たちがヘブライ人、

 

ヘブライ人とはイスラエルの民のことであり、

イスラエルの民は迫害を受け、

その受難のなかから神は、

ヘブライ人のモーセを

指導者として選んだ、ということのようです。

 

しかしながらここで注目すべきは、

紀元前つまりはイエスが生まれる

1300年前には、すでに

モーセという指導者が存在し、

そのモーセはユダヤ人であり、ヘブライ人でもあり、

はたまたイスラエルの民でもあったわけです。

 

ユダヤ人(ヘブライ人、イスラエル)の歴史が

数千年続き、その神はモーセであったはずであるのに、

紀元前0年、ある日突然、新約聖書の物語が始まり、

神もユダヤ人のモーセではなく、

同じユダヤ人であるイエスを、

神の代理人として指名してしまっているという点に

あるのかとも考えられるのです。

 

「モーセに名乗った神は自分のことを〈在りて在る者〉とのみ表現した」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

減税だか節税だか知らないけれど、

やたらそんな議論ばかりが、

目につくようです。

 

しかしながら現実には、

議員の数を減らすとか、

議員の報酬を減らすとか、

 

国民の実益にも効果にも

つながる議論は一切無視が、

恒例のようにもルールであるかの如に

映っているとも思われなくもないのです。

 

議員定数を削減、議員報酬も激減、

幹部社員以上の会社員の報酬も

各企業の実益の何%以下に定めるとか、

 

国家公務員等々の報酬もこれに準づるなど、

世の勝者、つまりは世の勝ち組たちの純益を

正当公平平等の精神に照らし合わせて

反映させていかなければならない。

 

現在の無知蒙昧ぶりもどこかで

いいかげんにしておかなければあと数年後には、

この国は終わってしまうような予感も

しないではないとも言い切れぬような気も

しないでもないのです。

 

「アラブ人とイスラエルの民が、たった一人の男から分かれたという図式が自明のことのように伝えられてきたことは驚くべきものだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人は元来、愚かです。

愚かで醜悪でもあります。

 

この理(ことわり)が、

自明とならないところが、

まさに人間の衆愚性にあるのかとも

思われなくもないからのようにも

考えられなくもないのかも知れません。

 

どこからみても相容れないアラブ人と

イスラエルの民が、同じ男を祖先として、

枝分かれしていったなどという御託にも似た

 

言いがかり、いや嫌がらせ、そうでもなく、

信じられないような状態が、アタリマエのことのように、

聖書に記され、その書物をまたアタリマエの

 

真実の書であるかのように扱ってきた人類の

愚かさといったら、これはもうおバカの極み、

呆れるくらいの稚拙であると考えられても

なんら弁明の余地もないのかも知れません。

 

「後にモーセに十戒を与えた時は『殺すなかれ』といった神だが、自分に従わぬ者には容赦ない厳罰を与えたのだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

神が擬人化されているのか、

キリストにおいての神は、

それほど人間っぽいということなのか、

 

はたまた指導者たる者、

二枚舌を持ち合わせているが如くに、

自身の意見を一通りだけではなく、

一貫性を持たせることに拘ることなく、

 

一通りも二通りも、あげくのはてには

三通り四通りと縦横無尽に、

自分の意見を変化させていくものなのだと

いわんばかりに聖書は好き放題、

支離滅裂、縦横無尽に物語を

展開させているようです。

 

「神罰におびえたユダヤ人と違って、キリスト教ではイエスというメシア(キリスト)がすでに現れて人類をその罪から救い神と和解させたことになっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

神罰にでもなんにでも、被害妄想的に怯える

旧約聖書のユダヤ人的発想は、

もうすでに神にでもなんにでも和解が

なされたという安易で楽観的な思想よりも

優秀で安全であるかとも考えます。

 

しかしながら、現世界の実情を鑑みれば、

イスラエルの、つまりはユダヤ教徒の、

なんだったら旧約聖書の教えを順守するイスラエルのように

過激化する場合もあるようです。

 

いってみれば、キリスト教のような

楽観主義も世界平和に貢献できるのかもしれないけれど、

それではあまりにも安易で現代社会のような混沌を

生み出してしまう危険性もはらんでいる。

 

かといって、イスラエルのように、

旧約聖書の約束を順守して、賢全に生きるならば、

ときに過激と評されてしまう場合もあるようなのです。

 

我々は、キリスト教の楽天性とユダヤ教の

被害妄想的賢全性を理解し、そこに

個人的には宗教ではなく思想として扱っている

ブッダの訓えを導入することで、

安全賢吾に人生を謳歌することが

できるのやも知れません。

 

サクラばかりが持て囃されて、

次に来るツツジやツバキが

あまり注目を浴びてもらえぬことに、

 

なんだかわけもわからぬ怒りだか

憤慨だかを覚えてしまう愚老のコラムだか

エッセーを掲載させて頂いております。

 

しかしながら、愚老と申しましても、

なにしろアタリマエに、

生きてきた年数、経験が圧倒的に長い。

 

長いと申しましても70年でありまして、

末期がんであって余命宣告の時期も逸してしまい、

 

このなんだかんだの感謝を、なんだかんだと当コラムにて、

表象できたら本望であるとも

考えていたりもしているようです。

 

「では三つの一神教にどういう血縁があるかというと、アブラハムの最初の息子イシュマルが後にメッカに移住してアラブ人の先祖となる。次男のイサクがいわゆる『イスラエルの民』の先祖となり、その家系にやがてイエスが生まれることとなる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人類は一神教に落ち着いたあとでも、

よくもまああい変わらずスケベで

相変わらず一夫多妻からは

抜け出せなかったようです。

 

人類のそのスケベさが悪因のもととなり、

アブラハムという大スケベおじさんの

子孫が、同じ子孫でも

 

ユダヤ教ではヤハウェ、

キリスト教ではイエス、

イスラム教ではアッラー

 

と分れていっただけらしい…そうな…。

 

まあ、個人的には、

旧約聖書を基に古代文明の

始まりを考えればユダヤ教となり、

 

旧約聖書をパクッておきながらも、

そこにあらたなエッセンスを吹き込みながら、

ユダヤ人を撲滅しようとして始まったのが

キリスト教と考えても、所詮、個人的に、

なので問題もない…ような…そうな。

 

そしてさらには、ではアラブ系は、といえば、

旧約新約の基に、さらにはアラブを主張するためには、

アッラーという最強の神をも

出現させてしまったのがイスラム教。

 

これは同じアブラハムを祖としながら、

イサク系のヤコブさんが後にイスラエルと

名前を変えたり、

 

同じアブラハムという好色ジジィを祖として、

イシュマル系のアッラーを神として扱ったのが、

イスラム教であったりという状況に

近いのかとも考えます、…そうな。

 

「アブラハムの神がアブラハムに約束し与えたものは、遊民としての子孫繁栄だけではなかった。約束の地カナンをも領土として与えたのだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ずいぶんと都合のよい神も

あったもので、なんだったら僕が、

僕の神から啓示を受けたと申し立て、

 

啓示の内容は、皆の平和で安寧な生活、

とともに僕みずからの子孫繁栄と

 

遊び惚けてあちこちうろつき回っても、

その行く先々で土地を所有し、尚且つ、

皆とも平和で仲良く暮らせる、という

 

僕にとってはたいへん都合の良い啓示を、

神から約束された、というようなもので

あるかのようにも受け取れます。

 

自分にとっても皆にとっても都合の良い神ならば、

誰しも受け入れるのは至極アタリマエ。

 

このアタリマエの論理に従い、子孫繁栄、

私腹を肥やすことに専念できる神ならば、

 

なにもアブラハムでなくても、誰しもが、

この僕でさえもが、「神の啓示を受けた」とも

言いたくなるような気も

しないでもないのでした…そうな。

 

「アブラハムのイシュマル系子孫はアラブ人となり、イサク系子孫がイスラエルの民と呼ばれるようになる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

なんのことはない。

なんのこともなく、ただ一人の男が、

自身が神から啓示を受けたと申し出た挙句が、

挙句の果てにその子孫までもがそれぞれ、

アラブ人としての土地を譲り受け、または

イスラエルの民としてその土地を子孫永劫、

譲り受けるというかたちにしちまった、ではなく、

してしまったようなものであるとも

考えられなくもないのです。