「東京は田舎出身の不安な努力家が多数派なのですよ。」
ひろゆき氏がポストした…そうな…。
「田舎出身の不安な努力家」だから
流行に敏感なフリをする人もいるようです…そうな…。
「不安な努力家」は、それだけで素敵なのだから、
なにも虚飾や虚栄に走る必要も
ないようにも思われなくもないのです。
もっと自然に、もっと自由に、
誇りにしてアピールもした方が、楽しいようにも、
快適であるようにも考えられます。
それだけで素敵で、
彼らに聞いてみたいこと、
教えてほしいことが満載であるとも
思われなくもないのです…そうな…。
「不安な努力家」は、それだけで素敵で、
尊敬に値するのだから、もっと飾らず、
虚飾や虚栄はかなぐり捨て、ありのままで自然に
ありのままに、東京に融合してしまうのではなく、
ありのままに堂々と、
「不安な努力家」をアピールしてほしい、
…そんなことを考えていたら僕の周りにも、多くの
「田舎出身の不安な努力家」な女性が
うようよしていて、
「東京人」である僕なんぞは、
常にいつでもどこでも、彼女たちからは、
たっぷりと軽蔑を含んだ視線を
投げかけられているような気もしないでもないのです。
ところが、実際に、僕が軽蔑されている部分は、
僕が東京人である点にあるのではなく、僕自身の、
性格や性癖であるとも考えられるのです。
「その後で、いよいよ「ユダヤーキリストーイスラム」という三つの一神教、現在でも全人類の半分近くが信仰する一神教の共通の祖先であるアブラハムが登場する。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
考えてみれば、ここまでは、世界は一つ
ではないけれど、世界は、アブラハムを
父と仰ぎ、そのまま一神教が一信仰として、
統一されていたのかも知れません。
ここまでは、というのは、旧約聖書までは、
あるいはバベルの塔が崩壊するまでは、
またはそれまでは旧約聖書であり
ユダヤ教一般であったはずなのに、
なぜか新約聖書以降、
キリスト教、イスラム教という宗教が
沸き起こったと解釈できるようにも
考えられたり思われたりもするのかも知れません。
いってみれば、それまでは旧約聖書つまりは
ユダヤ教で治まっていたはずなのに、
なぜか、どこのドイツか、
どこの日本かでもよいのですが、
それにしても誰かが突然、嘘か誠か、
真実か虚偽かも得体のしれないような
新約聖書なるものを持ち出して、
あるいはでっちあげて、
その新約聖書を基に、キリスト教だ
イスラム教だと嘘八百いや、まことしやかに、
いや、戦略的に、あるいは、なんだかわからないけど、
新約聖書を持ち出してそこに突然
キリストなる人物を登場させただけという
感じがしないでもないのです。
「日本ではあまり耳にしないが、この三つの一神教は異宗教間対話などで友好的に同席したりするたびに、互いに『アブラハムの宗教』と言い合って『兄弟分』であることを強調し合う。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
我が国は島国のせいもあるのか、
島国根性とかいうものが根強く、
海外のこういった情報は、
メディアがニュースとして
取り上げないのが常態であるのかも知れません。
本来ならば、自分探し、自分の立ち位置
というものは、宇宙の中の地球、
地球の中のアジア、アジアの中の日本
というふうに、自分がどのような立場で、
どのような人間であるのかを認識していくのが、
アタリマエといえばアタリマエで
あるような気もしないでもないのです。
しかしながら、現状では、マスメディアが、
その情報に興味を示さなければ、その情報は、
我々には周知することもできない。
ゆえにアブラハムだろうがアブラゼミであろうが、
なんならアブラムシでさえ我々は耳にできない。
なので「恐怖の総和」とよばれる状況も情報も、
一神教の異宗教対話の情報も
我々が耳にすることもない、となってしまうような
気もしないでもないのです。
「聖書の中の主要登場人物は神とのかかわりの中で出世魚のように名を変えることがあるので注意しよう。」
(「キリスト教入門」講談社学術文庫)
聖書自体の文法に誤りがあったり、
各言語の発音の違いにより、翻訳段階で
名前がごっちゃになっているので、
このあたりはたいへん面倒くさいけど、
ダラダラといい加減に受け止めて読み進むのが、
寛容であるかのようにも
考えられるとも思われなくもないのです。