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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

他者の発言に噛みつき、

そこでマトモな議論が

成り立っているのかというと、

 

まるで「犬の遠吠え」の如き、稚拙で

幼稚な発言の応酬だけが

繰り返されていると

お見受けできるようにも思われます。

 

と、そこで、そもそも

「犬の遠吠え」とはという設問を

試みてみれば、そこには、

 

現代日本の日本語自体が

稚拙で幼稚になっているだけであったという

結論に辿り着いてしまうようにも考えられます。

 

日本語のボキャブラリー自体が

貧困で稚拙になってしまっているから、

マトモな議論の、マトモな倫理的論理的議論も

成立しなくなっているのかも知れません。

 

しっかりとした日本語を

身に付けておかなければ、

しっかりとした考えも指針も

立てられなくなってしまう。

 

しっかりとした日本語を

身に付けておかなければ、

ちゃんとした人生設計も、

しゃんとした人生も、

送れなくなってしまうのではないかという危惧も、

現実化してしまうようにも考えます。

 

日本語を大切にしたい。

 

日本語を大切に扱う風潮が

失われれば、マトモな日本語での

マトモな議論にも結論にも

とてもじゃないけど、

辿り着けるわけもないような気も

しないでもないのです。

 

「アダムとイヴのエデンの園はメソポタミアあたりにあったと考えられている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書では、

現在のイラク周辺に

アダムとイヴのエデンの園が

存在していたというそうな…。

 

「その後、指導者として神に選ばれたのはアブラハムである。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人類、文明、文化の始まりは、

現在のイラク周辺地域に、

エデンの園と呼ばれる地があり、

そこの住人アダムとイヴによって、

発祥したそうな…。

 

その後、世界は大洪水に見舞われ、

神に選ばれしノアさん一族だけが、

方舟(箱舟)に乗って生き延び、

その子孫たちは世界に散らばる。

 

その後、神に選ばれたのが、

アブラハムさんであったらしいので、

アブラハムさんはアタリマエに、

丸大でも日本ハムでもなく、ましてや

プリマハムでも伊藤ハムでさえなく、

 

アブラハムさんはまぎれもなく、

ノアさんの関係者であるような気も

しないでもないのです…そうな…。

 

「アブラハムとその家族は神の約束の地であるカナンに移住した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

カナンは現在のパレスティナ。

人類の祖先はおおよそ、

イラク周辺からエジプトまでのエルサレム辺りを

ウロチョロウロチョロしていたようです…そうな…。

 

「イスラエルの民は奴隷化されたので、モーセに率いられてエジプトを脱出し、再びパレスティナに戻った。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

イスラエル、エジプト、イラク、

パレスティナ、カナンだかなんだか、

中東の地はごちゃごちゃしていて、

 

そこに神に選ばれしアブラハムなるユダヤは、

直後には奴隷化され、エジプトも追われ、

再びパレスティナ周辺を

うろつくこととなったようです…そうな…。

 

「イスラエルの民は大体、地中海を西に見てガリラヤ湖から死海の南部までのエリアを守りつつ、アッシリアに滅ぼされたりバビロンに連れていかれたり、シナイ半島の向こうのエジプトまで行ったりという動きがあったことになる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

まあ、良くも悪くも、

イスラエルの民つまりはユダヤ人たちは、

紀元前の世界からもうすでに、

あちこちからの迫害を受け続けて、

あちこちをうろうろせざるを得なかった

ということになろうかとも思われます…そうな…。

 

 

なんで なんで なんで?

どうして どうして どうして ?

 

突き詰めたその先の先にこそ、

真実事実が判明し、その人を

幸不幸へと導いてゆく手掛かり、

 

現実事実が明かされていくような

気もしないでもないのです。

 

物事に、すべての物事に、

なんで なんで なんで ?

どうして どうして どうして ?

は、面倒くさいけど、そして現実には、

不可能でもあるのかもしれないけれど、

 

できるだけすべての物事に、

なんで なんで なんで ?

どうして どうして どうして?

を実践する努力こそが、

重要なこととなってくるようです…そうな…。

 

努力こそが、すべての物事の

基本となってくる。

努力こそが、すべての幸不幸の、

源泉となってくるようにも思われなくも

ないとも考えられるのです。

 

「この間の重要人物の名はアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュアというところだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

キリスト教が好きという程度の誰にとっても

馴染みの深いアブラハム、ヤコブ、モーセ等々の名の

人々が実はユダヤ教徒であり、

新約聖書を

読んだことがあるという程度の人々にとっての

聖書に出て来たと主張する面々の名が、

実は旧約聖書で活躍したユダヤ人の

名であったりもするようです。

 

このあたりからもイメージするのが、

人類史を学ぶ上では、人類史を知りたいと思うのなら、

キリスト教、旧約聖書、新約聖書等々に拘らず、

その他の文献、資料、情報と

照らし合わせて見てみるほうが、

より実践的、より実務的、より効果的でさえあるとも

考えられるようにも思われるのです。

 

「バビロン捕囚から帰還してエルサレムを再建した様子と、ペルシャに残ったユダヤの民の様子などを語る予言書を最後に、旧約聖書によってたどることのできる歴史は終わる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書ではここまで、

この間の出来事までは

記載があるけれど、

旧約聖書は唐突に、

このあたりの史実の記載を最後に、その記述を

終わらせてしまったかのようです。

 

そこになにがあったのか。

ちょっとした研究者であれば、

あるいはココの読者であれば、

ココで得た知識をもとに、

その間の、事象を推測することも

大スぺクタル・ミステリー、

軽いミステリーとしても楽しめるようです…そうな。

 

しかしながら一般の人、つまりはココの

読者以外の人々にとっては、

アタリマエにこの間の事象については、

想像だにできぬ、または、想像することさえ

しないという事態であるのやも知れませぬ。

 

「その後、イエスが生まれてキリスト教の新約聖書が出来事を語るまでには、約四百年のブランクがある。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ここです。このブランクが、

なにを意味するものであるのか。

 

そこのところの理解が、ココの読者と

まったくそうでない人々との違い、

知的スキルの差異となって

表象してしまうのかも知れません。

 

「こうしてローマ帝国の植民地としてのユダヤ王国が、キリスト教発祥の舞台となる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ここからですネ。多くの人々が、

キリスト教と古代史を知った風な

気になってしまっているのは。

 

この四百年にもおよぶ歴史の

闇に封印されたキリスト教史ともいうべき

世界史、古代史は、この四百年を

無しにしては語れません。

 

もちろん、ココの読者は、

十分ご存知であるように、

この間の出来事についても、ココでは

嫌というほど取り上げて、語らさせて

いただいてきたようにも考えられます。

 

この間の出来事については、驚くべきこととして、

我が国では小中学校の授業の一環のなかにも、

しっかりと情報として、授業の一環として、

教科書を通じて、その情報を得ることが

可能となっているような…そうな…。

 

この間、古代史としては、

新旧訳聖書にも記載のない出来事としては、

ユダヤの民たちは、

ギリシャのアレクサンドロス大王に再び

国を滅ぼされ、ユダヤの民はギリシャ化して、

哲学に華を咲かせたりもしていました。

 

いってみれば、この四百年こそが、

哲学の発祥であり、この四百年こそが、

人類がギリシャを中心として、

哲学の華を開かせた瞬間であったとも

考えられるのです。

 

その後、エジプトや、シリアとメソポタミアの王国に

征服されたりもしながらも、ユダヤ人の

宗教活動を禁じた王に対しては、生意気にも、

哲学に目覚めた民たちは、

反乱を起こしたりもしていたわけです

…ような…そうな…。

 

トランプとイーロン・マスク、

この関係性をどう読み解くのか

その関係性はどうであるのか、

あの関係性はどんなであるのか、

 

こんなことさえ考えようとしないのか、

そんなことは考えないのか、

あんなことは考えられないのか、

そうでもないのか、

その深度、遠渡、速度、いわゆる

深慮遠謀、頭の回転の速さ等々。

 

二人の関係性と二人の演出を

どこまで読み解けるのか、

そうでもないのか。

 

そこのその人の、でも

そこにこの人の、でも

そこにあの人の、でもよいけれど、

そこにこそ知能程度というか、

知性教養、品性知性が

表象されてしまうような気も

しないでもないのです。

 

「歴史の中に現れた神の言葉に人間がどうつきあってきたかという記録がキリスト教の歴史でもあるのだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

宗教には興味がない。なかでも

キリスト教にはさらに興味がない。

むしろがんじがらめの無神論者である。

 

と思って生きてきた老いぼれ愚翁も

運命とも考えられる流れの中で、

我々の歴史がどのように刻まれてきたのか、

その一点にだけは興味も深く、

その歴史の中でうごめく人間たちの多くが

キリスト教徒であるという事実が

避けられないものであるのなら、

 

自然な人間の自然な選択の歴史と

自然を神として讃える人間が

歩んできた歴史を、キリスト教という視点から、

見直してみるのもたいへん興味深く

思われなくもないとも考え、その気に

なってきたような次第が当該シリーズの

意図でもあるのかも知れません。

 

「旧約聖書の出来事が起こったとされる時代と場所をまず頭にいれておこう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕は新旧約聖書をそれぞれに、

それぞれの観点から見た歴史書

であると考えています。

 

人類のはじまり、

人類が知恵を手に入れたそもそもの、

はじまりについて知ることは、

 

現代に生きる我々にとっても、

知識の始まりはどのようであったのか、

 

人間はいかにして、人生を、

幸福とか不幸という概念を、

手に入れて来たのか。人間とは?

 

人生とは?幸不幸という概念は、

どのように育まれてきたのか?等々、

あらゆる知恵の有様を理解する

ということであるのかも知れません。

 

「その頃一般的だったのは、世界の寿命を六千年として、天地創造が紀元前約四千年、ユダヤ民族が律法を得たのが紀元前約二千年、キリスト教会時代が二千年というもので、さまざまな時代の終末論に根拠を提供した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ルネサンス以降、人類は、

どう考えても、それぞれの時代が、

それぞれなりの世界の終わりである

という考えに囚われ、終末論、世紀末論

ともよばれる刹那思考と思われる考察に

明け暮れてきたようにも思われます。

 

そのような情況もふまえたうえで、

2025年の現在は、終末論、世紀末論もなく、

比較的安穏とした日々を、人類全体が

過ごしているようにも見えるような気も

しないでもないのです。

 

それにしても世界の寿命六千年の内訳が、

イエスの誕生以前が四千年で、その他、

ユダヤとキリストを合わせて四千年というのも、

なんだか、現在が、現代そのものが、

もうすでに終末であるようなそうでもないような、

不気味な感じもしないではないような

気もしないでもないのです。