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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

「あるある」を話せば、

人々はくつろぎ笑い、仲良くなれる。

「ないない」を話せば、

人々は緊張し主張し、敵対する、

のかも知れません。

 

共鳴は、和の原則であり、

和は安寧の根本であるような

気もしないでもないのです。

 

時には、自分に優しく、

自分を愛しまくり、

自己の中に共鳴と安寧の和を、

探してみるのも自分の心の

休息になるのかとも思われるのです。

 

「風神が風を吹かせたり、雷神が雷を鳴らしたりというように、無言の神が力で人を押さえつけるものではなく、啓示宗教の神は人間に〈言葉〉でコミュニケートしてくれる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

キリスト教がどうのこうのというまえに、

なんであれ、言葉で

コミュニケートしてくれるのはありがたい。

 

何を信じ、何を目標として生きればよいのか、

鮮明に理解できる社会ではないのだから、

せめて、哲学でも心理学でも精神医学においてでも、

なんなら宗教でもキリスト教でも仏教でも、

なにかを我々に

やさしい言葉で教えてくれるのならなんでもよい。

 

とそこで、哲学も心理学も精神医学も、挙句の果てには、

論理学も倫理学も、宇宙物理学も最新科学も、

ひととおりかじってみた身としては、最終的に、

最も信じがたく、最も縁もゆかりもない、

最もどうでもよいと思われてきたキリスト教でも

学ばせていただこうかの気概に目覚め、

 

今回キリスト教を反キリスト、反宗教、

無神論者としての立場で、キリスト教を、

みなさんとごいっしょに、

学ばせていただければ嬉しくも感じ、

シリーズ化してみただけなのでした。

 

「これは考えてみればすごいことだ。なぜなら、人間には言語を通して神に出会うチャンスが提供されていることになるからである。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

ココではなんども

申し述べさせてきてはいただきましたが、

僕にとっての神は、

真理であり、山とか川とか海とか、

太陽とか月といった自然であり、

そこに見出されるであろう真実こそが、

僕にとっての神なのであります。

 

「神の〈言語〉を人間の生き方に適用するために、啓示宗教の信徒たちは、古来必死に頭を使い知恵を絞り、その考えをさらに言語化することに努めてきた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

嘘かホントかは分からないけど、

それが事実であるのなら、

これはたしかにありがたいとも

思われなくもないのです。

 

「このような考え方は、物事をあまり突き詰めたり議論したりしないでなんとなく受け入れる習慣のある民族から見ると難しい点があるが、どんな人間も肉体と精神を統合する超越的な価値を必要とする点では変わりはない。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

だから日本において、キリスト教は、

世界の国々と比べてポピュラー化しているとは、

言い難いのかも知れません。

 

我が国においては、物事を突き詰めたり、

物事を深く探求して議論したりすることが、

ウザいとされているような傾向にあるとも

考えられます。

 

だからこそ、我が国の男子はやたらと、

ダサい、ヤベェ、マジ?というような

おバカの三大神器ともよべるような言葉を

重用するとも考えられるのです。

その瞬間、瞬間を、

感謝の気持ちや「有難い」、

素敵な時間であると

実感して生きてゆけば、

最も幸せな人生を歩めるであろうことは、

誰でも自覚しているし

納得もしているはずでもあるようです。

 

しかしながら現実には、

これがやたらと難しい。

現実にはこのような気持ちになる余裕も、

出来事もなさそうな気になってしまっているのもまた、

現実の実体ともいえるようにも思われます。

 

しかしながら現実には、

僕のように余命宣告を受けるという機会にさえ、

恵まれれば、それもかなり楽ちんに

クリアできる幸せへの工程であると考えます。

 

それでは、現実に、幸か不幸か、

余命宣告を受けられない、あるいは、

余命宣告どころではない

 

(余命宣告どころではない状態など

あるのかないのか、余命宣告以上に緊縛した

状況などがあるのかないのかは

皆目わかりもしないくせにの話であります)

 

余命宣告どころではない忙しさ、

余命宣告どころではない状況にある人々が、

 

僕のように日々、瞬間々々、その時間を

持てている有難さや有難味を感じ、

その瞬間々々の幸せを実感するためには、

 

僕のように、余命宣告を受けていると

想像して、その想像上の中の自分に、

実際の自分を更新させて、つまりは

上書き保存してしまえば、

 

僕と同じような幸福感に満ちた、

至福の時を手に入れることも

可能なのではないかと考えられたり、

思われるような気もしないでもないのです。

 

そこに人間の創造性、想像力のスキルが

試されているとも考えられなくもないような

気もしないでもないのです。

 

「無知蒙昧の時代から人間の知性万能の啓蒙主義の時代へという単純な進歩史観から、数々の過ちを反省して、もう一度シンボルを模索する段階だ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

多くの知識人が

警鐘を鳴らしているように、

 

現代こそ、現在こそ、

無知蒙昧から脱出して、

知性重視の啓蒙主義へと移行し、

 

さらなる知性と品性、品格を

模索するべき段階、時代

であるにもかかわらず、この世は、

 

相変わらず軽薄、下劣、卑屈、卑俗な

保身主義が定着してしまっているようです。

 

「好き嫌いにかかわらず、明治以来、欧米スタンダードを課せられて生きてきた日本の若者は、商業主義を離れた自分のサンタクロース像をつかむために今こそキリスト教を学ぶ必要があるのではないだろうか。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

なにもキリスト教でなくとも良い。

欧米スタンダードに毒され、

おバカにも愚かにも商業主義に

乗っ取られた自身のアイデンティティを

取り戻していただきたいがために、

 

僕はココで主に仏教、陽明学、諸哲学、

ヴィトゲンシュタイン論理学等々を

御紹介解説しながらも、

僕の死後、どこかのだれかに、

このコラムが役に立ってくれれば

有難いという気持ちで、

 

拙いながらも一生懸命、ごいっしょに、

知性としての学問を、品性としての学問を、

唱えてきたつもりです。

 

そこで今回はキリスト教を題材に、

反キリスト教の立場で、ごいっしょに、

なにかを思考するという歓びを

味わっていただければ幸甚であるとも

考えているのでした。

 

「キリスト教は、ユダヤ教、イスラム教とルーツを同じくする〈啓示の宗教〉〈啓典の宗教〉と呼ばれている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕はそうは思いません。

ココにも「クムラン」シリーズで

取り上げたように、

僕にとってのキリスト教は、

イスラム教同様、ユダヤ教のパクリであり、

〈啓示〉だか〈啓典〉だか知らないけど、

どちらにしろ、その思想は、

しっかりしているのかも知れないけれど、

 

その発展に、その信者に、そのシステムに、

大いなる疑問と胡散臭さを秘めた

宗教とも呼べぬ宗教であるのかなぁくらいの

扱いでよろしいのかとも思われなくもない、

一面も二面も、なんなら五面でも御免ネでもある

シロモノであるとも思われなくもなかったり

そうでもないのかも知れなかったり、

どうでも良いような、そうでもないのだとも

考えられるような…そうな…ような…

シロモノであったりなかったりもしているのでした。

 

 

どの状況にあっても、

その状況にあっても、

いかなる状況にあっても、我々は常に、

選択を迫られている、状況にあるそうな。

 

その選択が今日の、今の我々の有様であり、

この選択の一つ一つが、あの選択の一つ一つが、

どの選択であろうが、どの選択肢をチョイスしようが、

それが今現在の自分を表象してしまいそうな

現状にあるといっても、何一つ不思議も提灯も

ありそでなさそな事実であるとも

考えられるような気もしないでもないのです。

 

その選択が、あの選択が、この選択が、

より良い選択であるためには、

その時々の我々の知識と経験によるところが、

多いのもまたかけがえのない真実であったりも、

するような気もしているのです。

 

その根底にあるものが、常に知識と経験に

よるものであるとするならば、

この知識と経験という情報の量と質が、

問題となってくるのであろう事実は、

まぎれもなく我々の人生そのものとなって、

我々に襲い掛かってくるのかも知れません。

 

だとしたら、今、我々の成すべきことは、

たった一つだけ、たった一つ、

知識と経験という情報の量と質を

高めてゆく以外には考えられません。

 

情報の量と質。

これが大事で、これが人生を左右して、

良い意味でも悪い意味でも、

我々を差別化してしまうと、否が応でも、

決定づけてしまうと思われるのです。

 

情報の量と質は友人知人の量と質であり、

情報の量と質はその人そのもの。

情報の量と質こそ、人生の核心であるとも

考えられなくもないのです。

 

友人知人はその人そのままに、

その人の人生であり確信であります。

 

よい人生とは、よい友人知人であり、

よい友人知人とは、その人のもつ情報の、

量と質を現すともいえるのかも知れません。

 

「特に生活様式がすっかり〈西洋的〉となっている日本人にとっては、〈西洋的〉キリスト教を知ることはみずからの〈内なる西洋〉のルーツを知ることでもあるだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

まさにこれが、今回僕が、

「ソフィア」をシリーズとして

採用しようとした理由であると

申し上げても、何の問題も

なさそでありそな…ような…そうな。

 

我々の内部には、奥深く、無意識下においてでも、

欧米つまりは西洋の文明、科学、思想等々が、

入り込んでいる。

 

我々が自分を知る。自分自身を知るためには、

そのルーツなる西洋を知ることが必須であり、

西洋を知らずに、

つまりはキリスト教を知らずに、

もはや我々自身を知ることはできない、

と言ってもまさに過言ではないと

言えるのではないでしょうか…そうな…。

 

「本書では、読者が自分の頭で考えを発展させていくとっかかりになるように話を進めよう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

読書の必須性は、人生とは、

自分の頭で、自分の考えを、

発展させていくという作業の

繰り返しであるから、

 

そこの習慣化には読書は必須で、

まさに読書なしにはより良い人生など

送れる可能性は、

限りなくゼロに近いのだから、

読書は最重要であるということに

なるのかとも考えられるのです。

 

「今はもう一度、精神的なものや超越的なものを視野に取り込もうとしている時代にあるような気がする。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

会社、仕事よりもプライベート優先、

金品、おカネよりもプライバシーの自由を

優先するなどと言っている人々で

あるような気も

しないでもないのかも知れません。

 

仕事の何たるかも知らぬうちに、

会社の本質がどんなものであるのかも

見極めきれぬうちに、

自ら、勝手に決めつけて、

なんだかもわからぬ自由を

追い求める人々。その精神性は、

所詮、ゲームなどに見られる主人公の

超越的な者への憧れへと

発展させてしまっている人々で

あるような気もするのです。

 

そのような人々は、ときに稚拙で、

往々にして幼稚で、所詮、人生の

成功者、真の幸福を手に入れる人々とは、

かけ離れた視野を、お門違いの視野を

もってしまった人々であるような気も

しないでもないのです。