ゼノン 8 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

「観念とは、精神に現れる表象であり、何らかの存在するものでも、何らかの性質のものでもなく、存在しているかのようなもの、性質であるかのようなものであり、ちょうど馬が目の前に存在していなくても馬の像が精神に現れるようなものだ。」

───「ギリシャ哲学者列伝」ディオゲネス───

(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)

 

「固定観念に捉われてはならぬ」「先入観を捨てよ」などとは

よく見聞きする言葉ではあるけれど、

概念もまた観念に等しく、捉われてはならぬもの、捨て去ること

も心を浄化する一つの方法ではあるのかも知れません。

 

「ゼノンは君たちが何かを知っているとは認めない。『どうして?』と君は反論する。『我々は愚かな者でさえ多くのことを捉えると主張しているのだから』と。

 それなのに君たちは、智者以外の誰かが何かを知っているということは否定する。

 このことをゼノンは身振りで表わすことにしていた。

 というのは、まず指を開いた手を差し出して見せ、『表象とはこのようなものだ』と言い、次に少しばかり指を折り曲げて、『同意とはこのようなもの』と言い、さらに指をしっかり閉じて拳をつくり、『把握とはこれ』というのだ。

 『把握』というそれまではなかった呼び名と概念を、これによってまたまたゼノンは人類史上初めて創作した人物であると言えよう。

 いったいゼノンがどれだけの言葉と概念と思考を、人類史上初として創り出したのかさえわからぬほどに、セノンは最も優れた智者であるのだ。

 さらにゼノンは左手を右手の拳に近づけて強く握りしめ、『知とはこのようなもので、智者以外の誰も手に入れることはできない』と言った。

 しかし、誰が智者なのか、あるいは智者であったのかはゼノンたちは誰も明かすことはなかった。」

───「アカデミカ前書」キケロ───

(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)

 

古代ローマ三賢人の一人キケロも心酔するゼノンの叡智。

天才は天才を理解し、愚か者は天才に気づきもしないとは

よく聞くけれど、恐るべしはキケロとゼノンであるのかも

知れませんネ。

 

「賢い人とは、死が穏やかな世界への旅立ちだと信じられる人である。

 だから、彼は、死が近づいてもあわてふためくことがない。」

(「老年について」キケロ)

「賢人会 6」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12413346764.html

 

表象とは、

開いた手をそのまま見て、見たままの状態状況。事象現象。

同意とは、

指を少しばかり折り曲げるという己の意思と

思考が関与したもの。

把握とは、

指をしっかり閉じて拳をつくるが如くに、己の同意事項に対して

自らのものとした状態状況。

とは、あらゆる事象表象を自らの意思で理解分析解明し、

それを自らの知識として保存活用できるようにしたもの。

 

そしてそれは実績、生き様として現れ、

それを第三者が評価確認すべきものであるから、

ゼノン及び彼の弟子であるストア派哲学者たちも、

明かすべきことでもない、ということなのかも知れません。

 

「ストア派は、相互に結び付いた三つの真偽規準があると主張する。

 すなわち『知』と『思い込み・思い上がり』とこれらの中間を占める『把握』である。

 『知』とは安全で確実にして、どのような論理(ロゴス)にも覆されることのない『把握』であり、

『思い込み・思い上がり』は知能の低い者の偽りの同意であり、これらの中間を占める『把握』は個々が捉え得る表象への同意にすぎない。

 また捉え得る表象とは、ストア派によれば、真であって偽とは成り得ぬものでなくてはならない。

 これら三つのうち、『知』は、ただ智者においてのみ成立し、『思い込み・思い上がり』は醜悪なる愚か者のみに成立するが、『把握』は両者ともに持ちうるものであり、これも真偽の規準となる、と彼らは言う。」

──「学者たちへの論断集」セクストス・エンペイリコス──

(「ゼノン/初期ストア派断片集」京都大学学術出版会)

 

「把握」は智者でも愚者でも体験できるけど、

「知」を身に付けし者は孤高で高貴となる。

 

が、「思い込み・思い上がり」の者は常に群れたがり、

けっして孤独を楽しむオトナへとは成長できないようです。

 

「私たちの社会と社交は、つまらないものになっています。私たちは、人に会う時間が長すぎ、多すぎて、会う人に伝える新しい価値を身につける暇がありません。」

(「ウォールデン 森の生活」ヘンリー・D・ソロー)

「ソロー 28」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534122785.html

 

人との時間が多くなればアタリマエに

己の知識を身に付ける時間は短くなります。

 

スマホを弄る時間はあっても書物に親しむ時間を取らぬのは、

まさに孤独を恐れ、常に群れの中にいたいという欲望の

愚かなる表象であるかのようにも見受けられます。

 

「このような人間が増殖すれば、人と人とがよそよそしくなる社会が出現する。」

(「現象学の根本問題」ハイデッガー)

「よそよそしさの起源」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120939.html

 

「この人生を簡単に、そして軽薄に過ごしていきたいというのか。

 

 だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。

 そして、いつも群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。」

(「力への意志」ニーチェ)

「美知武習録193(ニーチェ)」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12056075983.html