賢人の話を聞いた。
我々の可愛いペットも他の生きものから見れば食べ物であり、
獰猛な化け物であり、友達であったりもする。
他者の存在も認める寛容が大事なのかも知れない。
現代社会における人と人とのよそよそしさは、
IT社会の浸透と共に加速したそうな。
蜂は蜜のある花が咲く場所を知っているが、
肉汁たっぷりのハンバーグ屋さんの場所は知らない。
自分の世界だけがすべてではない。自分の世界を知っているからといって、
訳知り顔で傲慢になってしまう蜂は少ない。
蜂から見ても花から見ても魚は生き物であるが、
人間から見れば食べ物でもある。
それぞれの世界がある。
Aという人間の家族はBであるが、Bという人間はCの兄弟でもある。
Aは男であるが父でもある。
それぞれの世界を尊重する視野が望まれるのかも知れない。
電気屋さんは花屋さんをバカにはしない。
魚屋さんはパン屋さんをバカにはしない。
電気屋さんは電気が得意だからといって、訳知り顔で世の中わかったような態度もしない。
魚屋さんは魚に詳しいからといって、世の中全部わかったような訳知り顔もしない。
ITの普及は訳知り顔の愚か者を生み出してしまったという。
哲学の中でも最も解り難いのが存在論なのかも知れません。
金づちが金づちでありえるのは、我々人間がそれで釘を打つという生活をするから。
科学も学問も自然や人間、ありとあらゆるものとの関係を無視しては成り立たない。
(「存在と時間」ハイデッガー)
ITの普及は、自分と他人、人間と自然との関わりを軽視する人間を生み出したらしい。
他人との交流よりもゲーム、動物と関わるよりはフィギュアをチョイスする。
どぶねずみが蜜のある美しい花のある場所を知らぬように、
彼等も他人の人格は知らない。いや、知ろうともしないらしい。
このような人間が増殖すれば、人と人とがよそよそしくなる社会が出現する。
(「現象学の根本問題」ハイデッガー)
現代の知として最大級の影響を持つと評されるマルティン・ハイデッガー。
素っ裸の男を見た関西人が尋ねる。
「あんた、なんですか!?その恰好は!?」
関西人はまじまじと男の下半身を眺め、やがて諦めたようにヒトコト言って去っていく。
「フルチン・サイデッカー」
ハイデッガーは何冊読んでも難しい。何度読んでもわからない。
マルティンとフルチンの違いくらいしか、未だに理解できないのです。
マルティン・ハイデッガーが苦手な僕に
賢人は延々と説いてくれた。
よそよそしい人間関係が根付くと、やがて世界は崩壊へと向かうらしい。
ナチスの根本も人を人とも思わぬ金持ちへの抗議からであったらしい。
IT社会にドップリと浸かってしまった人間の増殖は、
ヒトラーのような独裁者を生み、ナチスの残虐が横行するという。
IT社会の訪れがよそよそしい人間関係の起源だとする賢人の主張に、
僕はついて行けない。
それでもハイデッガーは我が敬愛のニーチェを畏怖していたらしい。
ニーチェの「超人」はナチスのアーリア人優越主義に還元され、
ニーテェの「末人」はIT関係者から見れば彼等以外の人間ということになってしまったのかも知れません。
それでもいい。僕はハイデッガーが不得意。存在論には辟易なのだ。
賢人は「ヒトラーのような人間が出現しても君は平気なのか?」と僕に問う。
平気じゃないけど恐怖も感じない。存在論は苦手だけど暴力武力なら得意なのだ。
「他者との関係、自然との関係を重視したヒトラーの根本は間違ってはいなかった」
賢人はまたもや僕にわけわからぬことを述べ始めた。
IT人間たちの持つ他者へのいたわりの希薄さも嬉しくはないけれど、
それに業を煮やしたヒトラーのような人間の出現も困ったものではある。
が、僕はハイデッガーが苦手。
存在論はよくわからないんだロン、いやわからないんだもん。
賢人の話を途中で誤魔化し、
僕は「ハイデッガー!♪」もとい「さいでっか~!♪」と切り上げることにしたのです。