68景 深川八まん山ひらき | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  68景 
 題名  深川八まん山ひらき 
 改印  安政4年8月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  嘉永3年 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-深川八まん山ひらき


 題名の「深川八まん山ひらき」とは、深川八幡宮の別当永代寺の庭園を毎年3月21日から8日間一般に開放することを言う。なぜ山開きと言うのかは、永代寺の庭園には富士塚があり、富士講の登拝を解禁することを山開きというのと、永代寺は真言宗で、真言宗の寺の慣行としての「林泉をひらく」という意味の山開き、という2つの意味からきている。

 この絵に描かれている山は富士塚で、文化3年に造られた。「江戸名所図会」(天保七(1836)年刊)では甲山と注記がされているのは、それ以前から築山はあり、それが甲山と呼ばれていた。
 描かれている花は桜とツツジだが、実際にはこれらの花が時期を重なって咲くことはない。山開きを題としているのでツツジが本物で、桜がデフォルメと考えられる。このように実際にはありえない花の組み合わせを1枚の絵の中に描く手法は、14景「日暮里寺院の林泉」にも見ることができる。ちなみに永代寺は他に牡丹の名所でもあり、時期的にはそれを描いてもよさそうだが、なぜか描いてはいない。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所図会 永代寺山開
江戸名所図会 永代寺山開


 永代寺について少し説明してみよう。永代寺は、深川で最も参詣の多い富岡八幡宮の別当である。別当とは江戸時代は神仏が厳密に区別されておらず、寺が神社に属している状態で、神社の宮司が寺の住職を兼ねるなど、江戸時代ではめずらしい習慣ではない。
 永代寺の敷地は、隅田川東岸では最大で、絵のように広く美しい庭園を有していた。
 しかし明治に入り神仏分離令によって廃寺になったが、庭園と富士塚は昭和まで残っていた。しかし昭和40年(1965年)に潰されて駐車場になったという。

 なお現在この地には、成田山新勝寺の東京別院がある。新勝寺ができたのは明治になってからだが、この地にあるのは少なからず理由がある。
 成田山新勝寺は、江戸時代の歌舞伎俳優の市川團十郎が信仰していた寺として有名であり、それにあやかって出開帳が行われていた。そのほとんどが永代寺であった。江戸時代最後に行われた出開帳は、安政3年3月15日から60日間で、そのときの様子が武江年表に書かれている。

同二十日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於いて開帳(江戸着の時送迎の人数、千住より深川迄 街巷に塞り、錐を立つべき所なし。開帳中日参朝参等はなはだしく諸人山をなせり。永代寺境内・は寸地を洩らさず、看せ物、茶店、請商人の仮屋をつらねたり。又奉納の米穀、幟、挑灯、扁額等境内に充満せり。

 とにかくものすごい人出で大人気であった。江戸時代も安政に入ると出開帳は、マンネリ化してしまい、当たりはずれが激しかった。その後に行われた永代寺の出開帳は

安政三年八月九日より、深川永代寺に於いて、相州江の島本宮岩屋弁才天開帳始まりしが、更に請人少し。然るに同月二十五日の大風雨に仮家潰れて、境内にある所の小堂に移し、程なく帰国あり
安政四年四月朔日より六十日の間、深川永代寺に於いて、常州真壁郡大宝八幡宮開帳(神宝に小鳥丸太刀、其の余刀剣の類多し。名におふ霊社なれど、開帳中請人少なかりし)

と、その後は失敗も続いた。

 さて、このブログのテーマは、序文にもあるように百景が安政地震からの復興を描いているのか、ということなので、安政地震の被害について調べてみよう。
 武江年表では、
富岡八幡、永代寺 富岡八幡宮恙(つつが)なし。別当永代寺は大方潰れたり
 江戸大地震取調 相沢宅右衛門では
永代寺中所々大破

と、ごく簡単に記述してあるが、永代寺は各所が潰れ大被害であったようだ。しかし地震後の安政3年3月から出開帳を行っていて、8月にはさらに台風の被害を受けるものの、その後も出開帳を続けているのは、たくましさを感じる。

 最後にいつものように描かれた日の推測をしてみよう。
 いつもであれば、出開帳の広告の目的であることが多いが、今回の調査ではそれにも結びつかない。
 改印のある月の別の作品を見てみると、この月に出された百景は全部で10作あり、かなり多い。実際には月に10作描くのは困難であり、他の作品で深川周辺を描いたものは、66景「五百羅漢さゞゐ堂」、69景「深川三十三間堂」があり、いずれも過去の作品と同一の構図を取っている。このことからこの絵を描くためにわざわざ深川に行ったわけではないと推測される。
 ではいつ永代寺を描いたのか?この絵から最も新しく永代寺を描いたのは嘉永3年の絵本江戸土産2編である。桜とツツジが同時に咲いているところからして、写実性が低いことは明白であるので、構図は百景とは異なるが、図会と江戸土産から想像して、この絵を描いたのではないかと思われる。
 一応ここでは、絵本江戸土産の描かれた嘉永3年の作を参考にして描いたことを結論としておく。
  

参考文献
江戸東京 はやり信仰事典
広重―江戸風景版画大聚成
江戸名所図会 (下)
定本 武江年表〈上〉 (ちくま学芸文庫)
定本 武江年表〈中〉 (ちくま学芸文庫)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
広重 名所江戸百景

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