名所江戸百景 14景 日暮里寺院の林泉 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  14景 
 題名  日暮里寺院の林泉 
 改印  安政4年2月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政3年3月中旬 

広重アナリーゼ-日暮里寺院の林泉 初摺
広重アナリーゼ-日暮里寺院の林泉



 広重は、嘉永~安政にかけて絵本江戸土産という本を描いている。この絵は江戸土産4巻と構図が全く一緒なのである。他にも百景には江戸土産と同じ構図もしくは近い構図のものが数多く存在している。江戸土産は1~4巻を嘉永4年に、5、6巻は不明だが、7巻を安政4年に出版している。したがってこの絵は嘉永年間の絵を使ったことになり、百景が安政地震後の江戸を描いたという前提が崩れ、多くの過去に描いた作品を流用していることになる。

広重アナリーゼ-絵本江戸土産 同所寺院庭中雪の景
絵本江戸土産 同所寺院庭中雪の景



 一応絵の説明をしてみよう。右端に船の形をした刈り込みがあるが、この刈込から場所が特定できる。江戸名所図会の、「日暮里惣図」に同じ刈り込みをした船が載っている。図会ではいくつかの境内がつながって載っているので、この庭園がどの境内であるかはっきりしないが、堀晃明氏「広重の大江戸名所百景散歩」では青雲寺と特定している。
 しかし図会では、青雲寺境内と船の刈込はページが違うくらい離れている。青雲寺には、「舟繋ぎの松」という大きな松があるので、堀氏は刈込の名前を「舟繋ぎの松」だと思って勘違いしたのではないか。ヘンリースミス氏は修性院の呼び物だった刈込、と指摘している。

広重アナリーゼ-江戸名所図会日暮里総図その3
江戸名所図会 日暮里総図 その3


 ところで気になる文献もある。はやり信仰事典によると、「日暮里惣図」の境内には観音・恵比須・布袋の諸堂、庭園は隣寺修性院・妙隆寺と地続きの大庭園・・云々とあるが、文化4年(1807年)に諸堂が焼け、文政のころには庭園も廃園となったという、とある。これが本当だとすると、安政期には青雲寺がさびれていたと思われる。さらに図会は天保年間に出版されたが、斎藤家親子三代で40年かかって編纂している間に寂れてしまったのか。そうなると、広重は江戸土産の時点ですでに図会を参考にして、さらに百景で江戸土産を参考に描いてしまい、現場を見ずして描いたということか。それはいくらなんでもおかしいので、今後の検証課題としたい。

 江戸土産では、手前の桜は枝垂桜だけではないが、百景では2本とも枝垂桜に置き換わっている。しかも初摺ではちょっと変わった摺りになっている(上の絵)。後に柳を描くような摺りに変更されている(下の絵)が、この摺りには研究者たちで議論があり、摺りに失敗したという人と、斬新な創作とする人がいる。著者としては後者だと思う。というのも「上野清水堂不忍ノ池」では、清水堂の前の桜をわざわざ枝垂桜から、彼岸桜に置き換えているが、今回は枝垂桜に置き換えている。これは斬新な摺りが漸くできるような環境になったと思われる。ただ後摺では、一般的な摺りになっていることから、摺り師が変わったか、一般ウケが悪かったのだと思う。

 さていつものように、この絵の描かれた日の推測をする。江戸土産とほとんど同じ構図であるが、江戸土産は雪景、百景は枝垂桜が満開ということで、改印直前の春の風景としておこう。改印は安政4年2月なので、安政3年の春ということになる。いつも同じ論法を出すようで申しわけないが、藤岡屋日記には、毎年将軍や御三家が桜が咲くと外遊するので、その毎年その記録が残っている。安政3年は、3月13日に高田、雑司が谷、王子、道灌山、千駄木などを家定公が御成している。これらの地域にある桜は、彼岸桜あるいは山桜といった類と思われる。この絵にあるのは枝垂桜で、東都歳事記によると彼岸桜と枝垂桜はほぼ同時期に咲くとあるので、御成の日と数日と違わない安政3年3月中旬を意識してえがいたのだろう。

この記事で参考にした本
江戸名所図会三 有朋堂文庫(非売品 大正4年)
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
広重 名所江戸百景
江戸東京 はやり信仰事典
日本名所図会全集〈〔6〕〉東海道名所図会・東都歳事記 (1975年)

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