では、なぜ
がんばってしまうのでしょうか


もしやらなかった場合、
自分をどう感じるかというと
 

ダメなやつ
ひどいやつ

無責任
どうしようもないクズ人間
存在価値ない
居なくていい人

非協力、協調性ない
わがまま
卑きょう者

気が利かない
優しくない
想いやりない

嫌われる
孤独になる
仲間外れになる
怒られる

友達いなくなる
仕事なくなる
仕事減る
仲間に入れてもらえなくなる

置いてかれる
身勝手

知らんぷりする人
冷たい人
愛のない人

不親切
心ない人
最悪な人
最低な人

怠け者
ズルする人
ラクする人
 
人としてどうなの?
大人としてどうなの?

先輩としてどうなの?
後輩としてどうなの?

親としてどうなの?
子供としてどうなの?
 
そんなのありえないでしょ
そんなのダメでしょ
 
仕事なんだから
役割なんだから
“ちゃんと”しなさいよ


こんな感情を味わうことになるのです



これが
がんばってしまう原因の根源です

これが
悩みや問題が起こる全ての原因の根源です



人はこのような感情を嫌うので
無意識レベルで避けます

それが不要ながんばりに繋がっているのです

そうなんです
比べ物にならないくらい
がんばっている方が都合が良いんです
 


 

そうだとすると必要なのは
この〝がんばる〟をやめることです

言い換えると
〝がんばらない〟をやるということです


 
普段の生活の中での“がんばり”に気づく

そして気づいたら、やめる


やめてみると
やらなくてもいいんだってことが わかる
やらなくてもいいんだってことに 気づく
 
やらなくても大丈夫なんだって わかる
やらなくても大丈夫なんだってことに 気づく
 

やりたくなくて、やってたこと

相手のために良かれと思って
やってること、してあげてること

悪いと思って断れずにやってること

自分がやれば済むと思って引き受けていること

べつに、やろうと思えばやれてしまうこと
 

気づいたものから やめてみる
小さいことから少しずつ やめてみる

こんな風に始めてみてください
 




心屋の
がんばらないコツがあります



断る
さぼる
怠ける

ちゃんとしない
人に迷惑をかける
人に任せる

他力を使う
期待に応えない

ダメな自分を隠さない
「いい人」をやめる

計画を立てない



おそらく
今までの真逆の自分になるので
最初はザワザワすると思いますが

これによって
あなた自身の尊厳や価値が減ったり変わってしまうことは全くありません


でもそれが
そもそもの本質の自分なのです

そこは受け入れる必要があります





こんな例え話があります
 
新しい場所に向かうとき、川を渡るために船に乗ります

その船頭さんは言いました
「乗りたいなら今持っている荷物を全部置いていきなさい」と。                                                    
 

ここで言う荷物とは、

人からの評価
実績
安心
安定
名誉
プライド、などのことです

これらを持ったまま自分を変えることは
出来ないからです



 

それでは、
〝がんばる〟エネルギーを
どこに向けたらいいのかというと


好きなことをすること
やりたいことをやること


ここにエネルギーを注ぐんです
ここには惜しみなくエネルギーを注ぎます

 

美味しいご飯を食べること
晴れた日に気持ちよく散歩すること
 
好きなテレビを見ること
スポーツ観戦すること

お買い物
旅行

リラックスできること
ボーっとのんびりすること

コーヒー飲んでホッとすること
花を見てる時間
 
 
あなたの好きなことは何ですか?

あなたのやりたいことは何ですか?

やってみたいことは何ですか?

心地いいものは何ですか?

リラックスできるものは何ですか?


見てみたいこと
行ってみたいこと
食べてみたいこと

触れてみたいこと
感じてみたいこと
 

これをすることを
〝がんばる〟と言います

 
だから
やりたくないことは やめる





ぢんさんの曲に「がんばれ」という曲があります
その歌詞の一部抜粋です

 
がんばるって 休むこと
「できない」って弱音吐くこと
プライド捨てて人を頼ること
自分の弱さを見せる強さ
 
がんばるって 努力じゃない
がんばるって がまんじゃない
がんばるって 勇気出すこと
自分のタブーに飛び込むこと
 


 

好き、やりたい
   ↓
これ がんばる
 

イヤ、やりたくない
   ↓
これ やらない、やめる


 
辛い、苦しい、悲しいが出てるのは
間違った〝がんばり〟をしてしまっているときです
 

それを戻すために
今までの逆をする必要がある


それが〝がんばらない〟ということ


それが
〝がんばらないと上手くいく〟の真理です
 

がんばることで楽しかったり
がんばることで心が満たされる頑張りは

好きなだけそこに
エネルギーを注げば良いのですが


がんばることで苦しくなったり
がんばることで辛くなったり
頑張ることが苦痛になるときは

そのエネルギーの向け先が違ってるよという
合図のときです


それは例えば、

やらなくてはいけない、とか
やらなくちゃいけない、とか
がんばらないといけない、と思っていることなのですが

それをやめていこう
そこにある思い込みを外していこう、というのが

〝がんばらないと上手くいく〟です


なぜならそれは

がんばる必要がないこと
やらなくていいこと
本当はやりたくないこと
自分じゃなくてもいいことなど

不要な場合があるものだからです


不要な所にエネルギーを注いでいるとき
私たちは辛い、苦しい、悲しいと感じます


だから
その辛さ、苦しさ、悲しさは

そのがんばりは違うよ
そのがんばりの向け先が間違ってるよ
という合図なので
そこに気づいて方向転換をしていきます

今までがんばってたものを反対側の
〝がんばらない〟の方向に舵を切る、のです





私は頑張り教だったので
頑張ることは当たり前

それは普通のことで
みんなも同じだと思ってました
 

私がやれば済むことだと思っていたし
私が頑張らないとって思った

苦労は買ってでもする、がポリシーで
がんばること=努力=“良いこと”だと思ってた

私がその役割だと思っていたし
私がやらなきゃいけないって思っていました
 


その根底にある思いは、

自分よりも相手が喜ぶように
(相手が喜んでる姿は自分もうれしい)

人のために、人が笑顔になるために

物事が上手く進むために
結果が出るために
成果が出るために

みんなが楽しめる場になるように
みんなが楽しめるように

そのためならと色んな仕事を引き受けたし
周りに配慮もしてました



そして無意識ながら
私は我慢をしていました


私がやれば、治まると思っていた
私がやれば、波風立たずに済むと思ってた

私がやれば、解決することだと思ってた
私がやれば、早く終わると思ってた

私がやれば、みんな楽できると思ってた

自分ではなく、人の手柄になるように
(自分の努力も報われてる気がしてた)

下の子や後輩に気遣いをしたし
自分は我慢して他者にゆずった

人が嫌がるような仕事も積極的にやった


そうしたら将来、
自分の力にもなるし
豊かになれると思っていました

そうしたら将来、
素敵な人になれると思ったし
そんな素敵な人になりたかった


人のためにがんばることは、良いことだと思ってた
人のためにがんばることは、悪いことだと思わなかった
人のためにがんばることは、悪いことだと知らなかった
 

努力は報われると思っていたし
努力してる人はがんばる“すごい人”なんだと思ってました

「がんばり屋さん」って、褒め言葉だったから
言われると嬉しいとさえ感じていました


上手くいってる人は
頑張った結果だと思っていたし

がんばったら
自分もすごくなれると思っていました



 

では、
何でそのとき頑張っていたのかというと
 
その方が仕事がスムーズに進む
その方が物事が円滑に進む

他の人が楽できる
自分もそんなに手間じゃない

自分ができる範囲だったし
それが最善だと思った
 
がんばることは良いことだと疑わなかったし
誰かがやらなきゃいけないならと自ら進んでやった

何かすることを“がんばる”って言うから
それは当たり前のことでした
 




がんばったら、報われる
がんばったら、幸せになる
がんばったら、自分の実力がつく

がんばったら、成長できる
がんばったら、結果出る
がんばったら、喜ばれる

がんばったら、成果出る
がんばったら、良いことある
がんばったら、役に立てる
 

何かを成すときって
がんばらないと何も生み出せないし

素敵な人たちは頑張ってる
そんな素敵な人たちは努力が大事って言ってる
 
何かすること=がんばる
何か行動すること=がんばる

だから「がんばろう」って思うのは
ごく自然なことでした
 




もう一つ、
がんばってしまう理由があります

それは、嫌われないためにがんばる


人は無意識の感覚に
認められたい
見捨てられたくない
嫌われたくない、という感情を持っています


だから
文句言われない、ためにがんばる
怒られない、ためにがんばる
居場所がなくならない、ためにがんばる
断るの悪いから、がんばる
 
こんなのが
頑張ってしまう理由にあります





こんなに身も心も使ってがんばってきたのに
何一つ報われませんでした


その“がんばる”は違ったんです
 
その頑張りは自己犠牲的で
辛くなった
悲しくなった
苦しくなった
 
誰も褒めてくれないし
誰も評価してくれない

なんにも報われないし
せっかくやった「のに」が出てくる
怒りが出てくる
 
誰からもお礼言われなくて
疑いや不信感が出てくる
 
誰のおかげだと思ってるの?
私に気づけよ、という謎のオラオラ感が出てくる
 

そう、
この「がんばり」は必要なかった
無駄だった、いらなかった、ものばかりです
 

もし自分がやりたくてやったことなら
「のに」は出てこないからです


お礼言われても 言われなくても
認められても 認められなくても

褒められても 褒められなくても
評価されても されなくても
 
何も思わない
気にならないのです


 
つまり、そう思うのは

本当はやりたくなかったこと
だったからなのです =͟͟͞͞(꒪ᗜ꒪ ‧̣̥̇)



次へ続く...

人のリアクションや反応の仕方や
感じ方や表現を
2つのタイプに分けることができます


名付けて
〝めっちゃ族〟と〝ふーん族〟


体験や出来事を
シェアしたい
分かち合いたいめっちゃ族と

自分の中で感じ、味わい、
自己完結するふーん族がいます





めっちゃ族は
めっちゃ美味しいね!
めっちゃ好き!
これ、すごいね!
楽しいね!
ここはこうだね!
そこはそうだね!と

気持ちや出来事や感想を
共有したい、シェアしたい、分かち合いたい


ふーん族は
そういう気持ちを
自分の中だけで感じて味わい完結できる

相手と感想を言い合ったり表情に出さないけど
内側で燃えていたり感動をしている





めっちゃ族はリアクションが大きく
ふーん族はリアクションや反応が薄い


ふーん族は落ち着いたリアクションだから
感動・感謝・気持ちが他人に伝わらない

リアクションすることで体力を消耗してしまう


だから、
すっごく嬉しかったり
すっごく楽しかったりしても

それがあまり伝わらない





「すごい!」「楽しい!」「嬉しい!」を
10段階で表したとすると、

めっちゃ族は
3を

9を15で表現する (もはや10を超える 笑)


それに対してふーん族は
3〜9は
10になると〝10〟で表現する(らしい)





めっちゃ族は
めっちゃ好きも、めっちゃ嫌いもある

ふーん族は
めっちゃ嫌いはない





めっちゃ族は
エネルギッシュだし、人生も激動的だったりする
騒ぎたいタイプだから騒ぎたい出来事が集まる


一方、ふーん族は
エネルギーを温存するので
エコだし平和な暮らしをする





めっちゃ族は
気持ちや出来事や感想を分かち合うことで
エネルギーが湧くしチャージされる

エネルギーの回復にもなるし
分かち合ってること自体が休憩でもある


それに対しふーん族は
気持ちや出来事や感想を分かち合うことで
エネルギーを消耗してしまう

1日のテンションの量が決まっているので
大事に使わないと疲れてしまう

テンションを上げたり
リアクションの大きさを求められると
大量に電池を消耗するからやめて欲しい

そこに限られたパワーを使いたくない


エネルギーを保つために、ひとりで居たい





全く違うタイプの両者がゆえに
お互いに憧れ合うこともあります


めっちゃ族は
ふーん族みたいに冷静な大人になりたい

周りの騒がしさに動じない凛とした姿が
素敵でカッコよくて憧れる


ふーん族は
めっちゃ族みたいに楽しそうになりたい

ビジネスでもめっちゃ族みたいに明るく話が上手で社交的で人気者な人の方が成功すると思ってしまう





まるで別人種とも思える
〝めっちゃ族〟と〝ふーん族〟


一番の違いは愛情表現です


ふーん族の愛情表現は

一緒にいること
自分が存在していること

毎日家に帰ってくること
お金を家に入れてること

既婚者の場合は、
結婚していること



めっちゃ族からしたら
大前提のものばかりなのです





人は誰でも
自分が基準に思えたり
自分の感覚が当たり前に感じてしまいます

だから自分の特性を知る


自分はめっちゃ族だから こんな言動をするのか
自分はふーん族だから こんな言動をするのか

自分はめっちゃ族だったんだ
自分はふーん族だったんだ、と

ただ知ることが大事です



そして他者を知る


自分と真逆の言動をする相手は
ただめっちゃ族なだった、だけ。

自分と真逆の言動をする相手は
ただふーん族なだった、だけ。


自分と同じようにさせようとしなくても
自分が相手のようになろうとしなくても

そんな必要はなかったということです




そしてもう一つ大事なことは

自分が好きな人
自分が大切に想う人

自分とは真逆なリアクションをする
その大好きな人は、

私に対して

無関心なわけでも
興味ないわけでも
迷惑なわけでも

楽しくないわけでも
イヤなわけでも
嫌ってるわけでもなかった


ダメなわけでも
できてないわけでも

恩義せがましいわけでも
圧をかけてるわけでもなかった



それは自分とは違うタイプだったから
気づけなかっただけのことで


決して
ダメだったわけでも
受け入れてもらえなかったわけでもなく、


むしろ逆で
愛されていたし
楽しんでいたし
相手もあなたのことが大好きだった

相手もあなたのことを大切に想っていたのです


あなたがいるその場に大きな安心感を感じていた


そうとは知らずに
自分とは真逆な態度をとる相手と

疎遠になったり
距離を置きたくなって離れたり

会いたいのに 会いたくなくて

相手の気持ちがわからないから
一緒に居たいのに
これが最善だと思って、別れを選ぶ


大切なのに。
本当は、大好きだったのに。
本当は、ずっと一緒に居たかったのに。




だからそれは

相性の不一致
性格の不一致
価値観の不一致ではなく、


めっちゃ族とふーん族の違いなだけ
ただ自分とは真逆のタイプなだけ
なのかもしれません


めっちゃ族・ふーん族という

2種類のタイプがいると知って

〝スレ違い〟や〝勘違い〟がなくなって

自分の特性のまま、

自分が自分で居られる
好きな人を好きで居られる
大切な人を大切にできる


そんなふうになれればいいと思うのです


ぢんさんが自分とは違うタイプがいることに気づいて発見した、前者後者論。

人はどうやら生まれた時に
すでに備わっている性質があって
それは2つのタイプに分けられます


その、それぞれの性質は
努力や鍛錬でなれるものではなく、
生まれた時からそもそも備わっているものです

だから、自分の性質や能力を否定ぜず
また、無いものを自分に求めるのではなく、

それぞれがその性質のまま生きることで
お互いに補い合って共に生きていけるのです


この前者後者論は
それぞれの特性を知ることで
「自分らしさ」に気づき、

無理なく豊かで幸せな人生に転換しよう、という

心屋の独自の理論です





まず1つ目のタイプは、

・空気が読めて、
   理解・理論・表現・処理能力が比較的高い

・マルチに仕事を同時にこなせる秀才タイプ

・わりと常識的でマルチに何でも出来る人

・左脳をよく使う

・秀才型

・周囲の空気や状況をまんべんなく読める

・比較的要領が良く、
   ちゃっちゃと物事がこなせる




2つ目のタイプは、

・天然、癒し系

・言葉をストレートに受ける

・何か一点に集中する天才タイプ

・直感的に、感覚的に生きている

・天才型

・無邪気な子供のよう。
   天然、癒し系、マイペース、のんびり屋さん

・集中すると周りが見えなくなる


こんなタイプの人です。




また、
1つ目のタイプである前者は
思考がフリーズしない。

起きている間なら
くつろいでる時もボーっとしてる時も
思考回路が止まることはない

なので、意識が飛ぶことはありません




2つ目の、
のんびりタイプである後者は
思考がフリーズする。
または、シャットダウンする。

というより、勝手になってしまう。

意識が飛ぶ人。

よく頭が真っ白になったり、
気がついたら意識がどこかに飛んでしまう人です



前者は意識が飛ばない、飛ばね族。
後者は意識が飛ぶ、飛ぶ族。





自分がどちらか判断する基準は1つだけです

人の話を聞いていて
頭がシャットダウン(真っ白)になるか?

これだけです



頭がシャットダウンしなければ、前者。
頭がシャットダウンすれば、後者です




前者はシャットダウンしないし、出来ません。

後者は意思とは関係なく、
自動でなって〝しまう〟のです





それぞれのタイプ別の特徴があります


前者の特徴は、

・段取り命
   段取り通りに進めたいので、ひとつ狂うと焦る

・人生でそんなに面白いエピソードがない
   わりと普通。普通に淡々と真面目に生きてきた

・喫茶店とかでしゃべりながら、
   周りの音や声が一緒に耳に入ってきてしまう

・常にリスクを想定している

・がんばらなくても意識は飛ばない

・寝る時に初めてスイッチがオフになる

・飛ぶ族の言動がよくわからない



次に後者の特徴です

・気づいたら冷蔵庫に変なもの入れてた

・待ち合わせ場所を、良かれと思って
   勝手に動いて怒られる

・しゃべりながらだと、ご飯の味がわからない
   もしくは食べられなくなる

・電話をしながらメモを取れない

・信じられないミスをやらかすが
   奇跡のリカバリーもよくやる

・普通と言われることが、よくできない

・何かに集中している時は
   周りが見えなくて聞こえないから
   無視してしまう

・ボーっとできる

・エレベーターのボタンを下に押したのに
   上に上がる

・よく笑われたり失笑されるけれども
   意味がよくわからない

・よく怒られるけど何に怒られているのか
   よくわからない

・気がつけば夕方4時。

・料理で味見しない

・9時に家を出るのに気がつけば9時。


・前者が怖い



この特徴の違いには
お互いにびっくりするものばかりです





こんなにも自分とは違うタイプが
わりと身近にいるものです

親だったり
夫だったり
妻だったり
パートナーだったり

兄弟だったり
子供だったり。



人は自分がそうだと感じてるものは
相手もそうだと思っています


だから
自分と違う言動をされた時、

怒りが込み上がってきたり
自分を責めたり
嫌われてると感じたり
バカにされたと勘違いしたり
嫌がらせしてるのかと勘違いしたり

行き違いが出てきます



例えば
前者は意識が飛ばないので
後者が飛んでいると

こんなに心配して伝えてやってるのに!とか
私の話しはそんなに退屈なの⁈とか
あ、私には興味ないのね、とか

そういう思い違いをしてしまうんです


まさか意識が飛んでる、
しかも勝手に飛んでしまってるなんて
夢にも思わないです

衝撃でしかありません




大切だと思ってる人に嫌な態度を取られることは
一番悲しく感じることです


でも、

そうではなかったんだ、
そもそもの性質が違ったんだと知るだけで

納得できたり
心が軽くなったり
楽になったり

余計に悩まなくてよくなります





前者後者論は
自分とは全く違う、
まるで別人種にも思えるタイプがいることを知り

また、
自分の性質や特徴や能力を
ちゃんと知って理解して

自分も相手も否定せず
憧れてなろうともせず

そのままの自分であることが
「私らしさ」
「自分らしさ」なんだと気づいて、


これからは
今まで不必要に感じてた嫌な思いをすることなく、

この、今ある日常を心地よく過ごすために
使えたらいいんじゃないかと
そう思っています



やりたいこと
やってみたいこと

したいこと
してみたいこと

食べたいもの
行ってみたい所

今思いつくもの
前からずっと胸に秘めていたもの

小さいこと
大きいこと


どんなことでもやってみる
体験してみる


それがたとえ
何の役に立たなくても
無駄なことでも
やって何になるの?と思えることでも

気になったものや
興味が湧くものを実際に体験してみる



もちろん「好きなこと」には
前にもやってみたことがあるものや
ずっと続けているものもあると思います


もう一回行ってみたい所
またやってみたいこと
今度はバージョンアップしてやってみたいこと。


自分が心惹かれるもの
興味があるもの
ワクワクするものなら何でも、やってみる。


これが〝好きなことする〟ということです





そしてもう一方の、

イヤだと感じていること
親切心だと思ってやってること
良かれと思ってやってること
状況や立場上で仕方なくやってること、など

自分が〝嫌〟だと感じているのに
やってしまっていることをやめていく


これが〝嫌なことやめる〟です




この〝好きなことして 嫌なことやめよう〟には、

「そんな風に生きてみたい」と思う気持ちと同時に

内側ではとても強い抵抗が出てきます


好きなことをする、にも抵抗があり
嫌なことやめる、にも抵抗があります

どちらにもそれぞれ
抵抗が出る理由があるんです





まず、
〝好きなことする〟の抵抗は
「許可」にあります


好きなことをする時に自分で許可をする必要があります

その好きなことをして「いいよ」という、
自分への許可です

その「許可」をすることに私たちは
怖さを感じます



何か
「やりたい」
「行きたい」
「したい」と思っても

家族のことを考えると、そうは出来なかったり
お金のことを考えると、そうは出来なかったり
状況を考えると、そうは出来なかったり

そんな簡単に「いいよ」だなんて思えないのです



その怖さは何から来るかというと、罪悪感です

その罪悪感の元は
〝お母さんを幸せに出来なかった〟という気持ちにあります



ずっと昔、自分が幼かった頃に感じた、

「お母さんを幸せにしたかった、でもできなかった」という思いを罪と感じているのが元となっています


その罪悪感の中には

本当は、して欲しかった
本当は、してもらいたかった
本当は、してあげたかった

もっと褒めて欲しかった
「すごいね」って言って欲しかった

欲しい物を買って欲しかった
もっと優しい言葉をかけて欲しかった

あなたが1番だよって言って欲しかった
お父さんから守ってあげたかった


などの思いもあります



〝好きなこと〟をしようとする時に
こんな罪悪感を無意識で感じてしまうので
それが邪魔して

やれなかったり
好きなことが浮かんでこなかったりします



そして、好きなことをする時には
1番嫌な所を感じなくてはいけません


1番恐ろしいと感じること
1番触れたくないこと
そんなのあり得ないと思うこと
「それはないわ」と思うこと


自分が自分で感じたくないこと
自分が自分で見たくないもの

内側にある嫌な所を通るということを
心は無意識でわかっているので

いざやってみようとする時に
「怖さ」が出てくるのです





一方の〝嫌なことをやめる〟の抵抗です


〝嫌なこと〟をやめようとすると

本当は、優しくない自分
本当は、良い人じゃない自分
本当は、気が利かない自分

本当は、能力が高くない自分
本当は、出来ない自分
本当は、冷たい自分

などの内面を視ることになります



さらに その先に、

そんな自分は
役立たずで
出来損ないで
人でなしで

最低で
最悪で
人間のクズ

などという
見たくない、感じたくない自分を
認めることになります


これを感じなければならないことを
私たちは無意識でわかっています

だから怖さがでるのです


これが〝嫌なことやめる〟時に抵抗となる「怖さ」の正体です






そして
好きなことをする、ときも
嫌なことやめる、ときも

両方に共通して出てくるのが

そんなことしたら
怒られる
嫌われる

叩かれる
笑われる

お金なくなる
悲しませる
反対される

という思いです



〝好きなことする〟って、怖いことなんです
〝嫌なことやめる〟って、怖いことなんです

どっちをやるにも
腹をくくる必要があるんです



怖いけど、
ひとつずつやってみませんか?

自分にできるところから、ひとつずつ。




そう。

怒られても、いい
嫌われても、いい

叩かれても、いい
笑われても、いい

お金なくなっても、いい (本当はイヤだけど (-。-;

悲しませても、いい
反対されても、いい


と怖いままに覚悟して




そして、

やって いいよ
してみて いいよ

行って いいよ
食べて いいよ

失敗しても いいよ
ダメでも いいよ

無駄でも いいよ
お金使っても いいよ

またやっても いいよ
もっとやって いいよ
何回でも いいよ


と許可をする





〝好きなことして 嫌なことやめよう〟

言い換えると

〝やりたいことやって やりたくないことやめよう〟



どっちも怖いけど、
やっていくうちに
本来の自分へと戻っていきます


そして本当にやりたかったことを体験でき、
自分だけの
喜びと自由を実感できます