臨床つれづれ:カルト研究の危うさ回避に心理臨床経験は貢献するか? | こころの臨床

こころの臨床

心理学は、学問的な支えも実践的身構えも、いずれも十全と言うにはほど遠い状況です。心理学の性格と限界を心に留めつつ、日本人が積み重ねてきた知恵を、新しい時代に活かせるよう皆さまとともに考えていきます。

対象に興味を抱きつつ、一定の距離を置き、相対化できる能力が、カルトを研究する者にとって殊に必要となると思います。

 

 

このような能力は、心理臨床家としての適性とも連関するのじゃないかと考えます。

 

 

対象への興味はときに、好意・ポジティブな感情に発展することがあります。

心理臨床の世界では、もっぱら陽性転移と呼んでいますよね。

 

 

このこころのファンクションを〈知って(=意識して)おく〉ことは、知っていながらも巻き込まれることが不可避の(わかっちゃいるけどやめられない)状況で、結構助けになってくれます。

 

 

話が飛ぶようです(にゃん主観的には飛んでない…)が、爬虫類人(レプティリアン)陰謀論説で知られるアイク,D.さんは、もう一歩進んだ「愛」でレプティリアンとの対立を乗り越えようと提唱しているらしいです(斎藤竹善「日本におけるレプティリアン陰謀論受容とその役割―太田竜から神真都 Q まで― 」『都市文化研究 第25号』2023年3月 66-77頁Studies in Urban Cultures Vol. 25, March 2023, pp. 66-77 :大阪公立大学の紀要?)。←すぐ飛べるように貼り付けるのが諸事情で難しいので、興味がおありの方は、ご自分でダウンロードしてくださいね。

 

 

 

ちなみに、ムスリム研究者が調査研究途上で、研究対象であるムスリムに自らがなる(入信する)事例は、にゃん管見内でも数件存じており、わりと稀でないのではないかと思われます。

 

 

その一方、新宗教…は可能性がまだあるとしても、カルトの研究者がその轍を踏むということは、(少なくとも公には?!)あまり聞きません。

 

 

「非科学・偽科学」的言説を標榜する団体を研究対象としたとき、「科学者」の使命であるニュートラルな研究姿勢をとることが微妙に難しくなって、それが結果的に、ミイラ化を防護する鎧...プロティクションとして機能するのでしょうか。

 

 

…あるいは万が一ミイラ化する場合、ミイラ取りがミイラになっていく過程で、科学の枢軸である批判力を喪ったり、研究調査が人生の第一義的目的から漸次脱落していき、研究報告が残せなかった、という可能性も少ないながらあるのかもしれません。

 

 

これまで事例研究一辺倒(というかそれ以外は無かったので、けっこう他の研究領域からバカにされがちだった…)であったことを、心密かに苦々しくおもってこられたあなた!!

…心理臨床学領域でかつ、公認心理師の拠って立つ知の基盤はキソシンリに他ならない、と日心系…旧医療心理師推進政治団体でご活躍して来られた方々が推し/押して下さるキソシンリなんか、個別の臨床事例にはほぼ不能…なんだけど、代替となる「学術研究」に裏付けられた理論・方法論が見つけられなくて、思考停止のまま泣き寝入りしてこられたあなたも!!

宗教(社会)学のこのような研究調査方法論に触れてみて、少し元気が出てきませんか?

 

 

本来、この心理臨床業界は、宗教(社会)学は、研究方法論と研究対象がかなり重なり合う学問領域です。しかし、学際的に交わろうとしてこなかった、それ故、東畑さんがこの業界では一強のヒーローになっていたり、日々の臨床ですでに数多く出会っているはずの宗教2世やカルト問題に、自信を持って対処することが困難になってしまったのではないでしょうか。

 

 

...ということで、また導入部というか前置きが長くなりましたが、明日から、引き続き、昨年の宗教学会にてのコンスピリチュアリティのパネルについてのご報告をいたします。

 

 

ところで、コンスピリチュアリティってなに? おお! wiki日本語版あるじゃないですか!