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すべてはうまくいっている! 光と心の調和

横浜の心理カウンセラー ロキのつぶやきブログ
その人がその人らしく
『生まれてきてよかった!」
と思える人生のために。

これまでの(長期にわたる)人生を通じて実にさまざまな人々と出会ってきたわけだけれども、大雑把に強く思うことは、人はぜんぶぜーんぶ何から何まで違うんだ!! よーく交流を深めれば深めるほど、誰も誰とも似ていない。

簡単にいえば人間は「個別性」で成り立っている、ということ。

(流行りの多様性をナンチャラとはまったく別の話)

 

「個性がある」という意味ではない。通常「個性」や「個性的」いう言葉を使うときには、その他一同と比較して、という前提がある。

 

そうではなく一人ももれなく、前提無き「個別性」によって人間は存在しているのだなあ、というしみじみとした実感。

 

倫理学、歴史学、考古学、医学、心理学、神経科学、人文地理学、文化人類学etc. 「人間とは何ぞや」を探究するあらゆる学問があらゆる観点から人間を収まりよく定義づけようと悪戦苦闘している。時代や文化、国や地域、環境や遺伝、性別や年齢など、異なる状況での類似と相違をとことん追求し細密にカテゴライズしてゆく。

 

たとえば心の問題。現在日本の精神科の診断のほとんどは、アメリカ精神医学会の「DSM-5(精神疾患の診断と統計のためのマニュアル第5版)」に基づいて行われている。このDSMの診断法はカテゴリー診断学と呼ばれるものだ。ある精神疾患において、典型的な症状をいくつか挙げ、そのうちのいくつ以上が揃っていれば診断できる‥という診断方法である。病因は問わず、症状のみで診断を行う。

 

このカテゴリー診断学はDSM-3(1980年)に初めて採用され、世界の精神科における共通言語となった。というのも、それまでの診断基準が「観察、記述、分類」➕「仮説的原因論」という、どうにも客観性に欠けたもので、お国柄や精神科医の解釈によって診断名が著しく異なっているという状況にあったからだ。

 

このカテゴリー診断学に至る精神医学界のすったもんだ経緯の詳細や、カテゴリー診断学の問題点や限界など、それだけでもひじょうに面白い状況にあるのだが、きりがないのでそれはまたの機会に。尚、もうひとつの診断基準として、WHOのWHODAS 2.0(世界保健機構障害評価尺度第2版)があるが、それは割愛。

 

でもって、DNS-3(1980年)で採用されたカテゴリー診断学であるが、その後DNS-3-R、DNS-4、DNS-4-TRという改定を経てDSM-5(2013年)となった。

最新のDNS-5の注目点は、それまでのDNS-3を踏襲した改定とは質的に大きく異なっているのが特徴。特に児童期の精神疾患に大幅な変更があった等々いろいろあるが割愛。

 

この最新改訂版で興味深いのは、判断基準によって病的状態と正常を完全に分けることは不可能、と白旗をあげている部分。

 

例えば私の経験した「うつ状態」という症状のケースでも、通院した複数の病院で、それぞれ異なる診断名がつくということはしばしばあるし、薬の処方がまったく異なることも稀ではない。

 

しかし圧倒的に感じるのは、同じ診断名をもケースにおいてもじっくりと話を伺ってゆくと、ひとりひとりの症状はそれぞれまーったく違う!!ということである。

 

うつ病になりやすい人の特徴ととして、うつ的思考パターンという捉え方がある。もちろんそれは膨大なデータから統計学的に導き出されたもので、確かにある状況において共通する思考パターンの傾向というのはある。しかし、それはその人の主な性質ではなく、全体を構成するほんの僅かな一部分に過ぎないし、その思考パターンの現れ方も同じものはない。

 

よくよく見極めれば一人ひとり個別に異なるわけで、改善方法も「コレにはこの方法でOK」と簡単に当て嵌められるものではない。

極端なことをいえば、改善方法は完全カスタムメイド、となる。

 

心理療法に限っていえば、信頼で成り立つクライエントと援助者というチームを組み、そのつど特別仕様の方法によって、最適解による回復を目指す作業、と考えている。まあこれはあくまでも私の個人的な方法論すぎないけれど。

 

そういったわけで、最高には程遠いけれど、私が最善最短の道と考える折衷主義のカウンセリングを心がけている所以である。

https://kokoroki.jimdo.com/折衷主義のカウンセリング理論-1/

 

 

散らかった話を元に戻すと、つまり、あらゆる面で、人間一人ひとりの存在は個別に異る。

外見も、思考も、行動も、遺伝子も、遺伝子のon/off も、情動も、脳システムと体の相互作用の仕組みも、圧倒的に一人ひとりぜんぶ違う。似ているようでぜんぜん違うのだ。

そういう生物なのだ。

 

だからこそ、自分とは異なる他人と縁あって、ほんの一部分であっても共通項を発見し共感し合えることは、ある意味奇跡に近い幸運なのだなあ。

 

といったようなことを、友だちが少ないが故に、とくにしみじみと感じる今日この頃。

 

そういえば、我が家の二桁に上がる歴代ハムスターも、全員外見も性格もまったく異なっていた。今いるロン(竜)君は、知能派ツンデレ食いしん坊である。

心理職に就く者として、思想、信条、性別、人種、価値観、性的指向、社会的立場‥等々のいかなる要因にも、いっさいの斟酌や認知バイヤスを極力介在させず(許容範囲の広さだけは自負)、できる限り自主性と個別性を尊重するカウンセリングを心がけている。もちろん上記のような要因を心理的問題の重要事項として見立てた場合は、カウンセリングの課題のひとつとして扱うことにはなる。以上はあくまでも個人的な指針。

 

また、心理職を離れた一個人の立場としては、自分仕様の価値観や信条・社会規範意識 等々を一応もってはいる。が、他人様に対して、これが正しい!とか こうあるべき!などとは欠片ほども考えておりやせん。あくまでも自己中に「こうありたい自分」ってだけ。

 

以上を踏まえた上で、このところ話題に上がっている、LGBT法案(性的少数者の方々で構成される4団体は強く反対)にも関連する、「性自認」もしくは「性自認至上主義(トランスジェンダリズム)」について、うまく説明できないが直感的なモヤモヤ?を抱いている方に、ひとつの判断材料として一冊の本をご紹介。

 

「性同一性障害・トランスジェンダー」という複雑な問題に対し、著者は当事者としての経験や深い思索による緻密かつ哲学的・論理的考察により、ひじょうな説得力をもって「トランスジェンダーの原理」を客観的理解へと導いてくれる。興味のある方はどうぞ。

 

『トランスジェンダーの原理ー社会と共に「自分」を生きるために』 神名龍子 著 / ポット出版プラス

 

本書からの抜粋。

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 もうひとつ、性自認について大事な指摘をしておくと、性自認それ自体はあくまでもその人の「主観」に過ぎないということだ。

「主観」である以上、他者はそれを直接に確かめることはできない。私たちは誰も(たとえ心理学者や精神科医であっても)他者の心というものを直接に経験することはできず、相手の言動を通して推しはかることしかできない。

 だから、ただ「私の性自認はこれこれです」というだけでは、直ちに周囲がそれで納得してくれるということもあり得ない。

 他者から見ても「なるほどそのように思える」と納得させるだけの説得力を必要とする。それは本人の言動にも大きな責任がある。

 単に「主観」としての性自認を持つことと、それを他者との間での共通了解として成立させることとは違うのだ。後者のための努力がなければ、他人は納得してくれない。

 もちろんこれは、性自認の話だけではなく、自分がどんな人間であるかを他者に知ってもらうために、あらゆる人間が必要とする営みでもある。

 それが社会の中で生きるということでもあって、けっして性的少数者だけの話ではない。

 そうである以上は性的少数者であることを理由として甘え、その営みに必要不可欠な手間暇を惜しむことには、どんな正当性も認められるはずがない。

 言葉を変えて言えば、自分が身体とは異なる性自認を持つ場合、性自認の性別で生きるということは、自分の欲望に従う生き方の実践であると同時に、その性別が他者に対しても説得力を持つように振る舞うことでもあるという両犠牲を持っている。

 後者が欠ければ、その人の性自認は単にその人自身の主観に過ぎないのだ。

 私たち性的少数者は、とりわけ私のような性別移行者(性同一性障害やトランスジェンダー)は、、そのことを忘れてはならない。

 この努力を怠って「社会からの理解が得られない」などと嘆いてみせるのは逆恨みに過ぎない。(p84~85)

 

善悪二元論だけではなく性差否定もまた、性同一性障害と相入れるものではない。性同一性障害の当事者が、その性自認に基づいて、「私は男ではなく女だ」「私は女ではなく男だ」という場合には、論理的にも「男と女は違うものだ」ということを前提とした発言であるはずだで、それは政治的立場のあちらかこちらかという話ではない。

 「男=女」を」前提とするならば、性同一性障害という概念それ自体が成立しないのである。

もちろん性差否定を前提としてしまえば、戸籍上の性別変更を認める特例法も求める意味がない。(p158)

 

同性愛だって異性と同性の区別を前提とする概念なのだから、性差否定と両立するはずがない。(p159)

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痺れる!(死語)

著者は、被害者の立場となることに与しない。

「差別について」「性別について」「近代社会原理の再確認」「性的少数者と社会」等々紹介したい箇所が沢山あるけれど、キリがなくなるのでこの辺にして。

 

男女の生物学的性差については、進化論に基づく進化心理学や認知心理学、遺伝学、脳科学、生物学など、様々な分野で科学的解明が進んでいる。ちょっとズレるが、遺伝と環境の相互作用説などもひじょうに面白くなってきてた。 σ(・_・.)どこまで正確に理解しているか定かではないけどね。

 

一方でジェンダー(概念)をめぐるアレコレに関しては、科学ではない、ある種のイデオロギーなのでほぼ興味なし。

相変わらず政治利用や利権を目論む動きも活発ですこと。

 

差別行為によって被差別者に社会的不利益や心身への実害を与えることと、差別意識をもつことは同義ではない。

社会人として生活を営む成人で、差別意識をもたない者などほぼ皆無であろうと考えている。

もたぬ人が存在したとして、その確率はツチノコやイエティよりちょっと上くらい?(根拠なし)。

ときには差別する側が差別される側となる、その逆も然り。

 

差別意識の内在を、どこまで自己洞察できるか。

自分のダークな部分に目を逸らさず向き合うことは難しい。

 

いつの時代も、そのときどきのマジョリティの差別意識を変えてきたのは、差別される側の人々の、個として自尊を保ち毅然と生きる姿そのものではなかったか。

マジョリティの、恐れから生ずる異端排除(差別)という不当な自己防衛心理を、圧倒的説得力をもって無効化させ変容させてきたのが、差別に傷つきながらも果敢に生き抜く個々人の勇気ある振る舞いではなかったか。

などと色々考える今日このごろ(個人の感想です)。

 

我が身に内在する差別意識を変化させるよりも、上部だけ反差別や公平を装うことのほうが遥かに楽でたやすい。

 

えーと要するに、久々に読書で感銘を受けたのだった。

マウンティングというのは、動物が相手に上からのしかかるように跨って上位を示す行動だが、それを人間関係に当て嵌め、人が人に対して上位・優位を示そうとする行為を「マウントをとる・とられる」と表現するのだそうだ。数年前にクライエント様から教わったが、ああ!なるほどー!と感心した覚えがある。。

私の若い頃(古生代?)は、類義語でそのような人間を俗物(スノッブ)小物と称していたが、マウントという表現もひじょうにユニークで分かりやすい。

 

実際にのしかかるわけではないので、マウントをとっても気づかれなかったり、マウントのつもりがなくてもマウントと捉えられたり、敏感な人と鈍感な人では感じ方が違ったりと、ファジーな感じが「自慢」「「皮肉・嫌味」「受動的攻撃」とも似ているように思う。対抗意識の表れであろうが、ある種の心理攻撃ともいえる。

 

社会心理学ではヒトの攻撃性を、「無抵抗の相手に対し、身体的・心理的危害を加えることを意図して行う行動」と定義しており、内的衝動、情動発散、社会的機能という3つに大別している。また、攻撃行動の原因についても様々な研究・学説がある(あくまでも仮説)。私は、マウントなど他者に自分の優位性を示すための攻撃行動は、主に自分を守るという「自己防衛によって安心安全の報酬を得る」ためのものと考えている。

 

いずれにせよ、マウントを取られる側は何も思い悩む必要はないのである。

相手がライバル視しがちなタイプとして、職場やサークルなど、たまたま同じ環境で遭遇した他人に過にぎない。

問題は100パーセントそのような言動に出る相手の側にある。

 

相手は攻撃する相手の凹んだ様子(ほぼ妄想)的なリアクションを確認して、優越欲求、承認欲求を(とりあえず)満たし、不安からくるストレスを解消しているケースがほとんどである。

 

主な原因としては、下位であるべき(と勝手に決めつけた)相手が、自分に脅威を抱かせる、つまり恐怖や不安を感じさせる存在になったから‥と推測できる。

 

相手を下げることによって自分が上位であると示し、優位性を保つことで安心する。

相手と自分の二者関係だけではなく、特定集団の中で自分以外の人の評価が上がった(上がりそうな)場合も、その相手にマウントを発動し自分の方が上であると周囲に示そうとする。

 

マウントを取る取らないに関わらず、プライドが高い、と評される人のほとんどがこのような心理的傾向を持っている。

プライドを保つ為の表現方法のひとつが、マウント行為ということである。

その原因は種々あれど、心に大きなコンプレックス(主に劣等コンプレックス)を抱えている場合がほとんどと考えてよい。

 

コンプレックスは、元々フロイトやユングなどの深層心理を扱う精神分析の概念で、「無意識の中に抑圧凝固した複雑な観念/感情の塊)」という。

その後、様々なコンプレックスが分析家によって提唱されたが、その一つ「劣等感(他者よりも劣っているという感情)」に基づくインフィリオリティー(劣等)・コンプレックスが、アメリカの教育理論のなかで扱われるようになり、広く一般に(劣等コンプレックス=コンプレックス)として知られるようになった経緯がある。

 

プライドの高い人=劣等コンプレックスが強い人、といっても過言ではない。

 

マウント & プライド & 劣等コンプレックス この3つはセットとして考えると理解しやすい。

これは誰しも少なからず持っている心理的傾向で、それが強いか・弱いか、自覚しているか・いないか、コントロールできるか・できないか等によって、人生の味わいが違ってくる。

 

他人との比較、相対評価で自己価値を規定するのがプライドなので、自分より下か上か他人次第で自分の価値が上下し、プライドが高い人ほど心理的には常に不安定な状態にある

とうぜん、比較対象が自分より下と認識できている間は安定しており、鷹揚で親切な人でいることもできる。

 

プライドの根拠として、権力、権威・才能、社会的地位・肩書き、学歴、資産、家柄、容姿etc. ほとんどが内面ではなく、外面から見える世俗的評価に人間の価値基準を置いているといえる。

それらは時間の経過とともに必ず変化してゆくもので、したがって容易に他者と上下が逆転するという事実がある。

 

そこに自我のアイデンティティを築き上げようとしても、土台の脆い建築物のように、いずれ人生の途上で崩壊の危機に陥るリスクが高い。

 

人の何に価値をおくかは個人の自由であるし、そのモノサシで他者を判断することも自由だが、自分のモノサシは自分だけに通用することを認識する必要はある。

通常は、似たようなモノサシを持つものどうしが、惹かれ合ったり、つるんだり、張り合ったりするのではあるけれど。

 

以前にもどこかで書いたが、日本ではプライドと自尊心を同義語として扱っているが、英語では、Self-esteem自尊心Pride傲慢として、まったく別の概念と捉えている。

 

プライド Pride(傲慢)  

相対評価 他者との比較 他者:優劣・上下の関係性 心理的不安定

 

自尊心 Self-esteem  

絶対評価 自己を尊重  他者:対等な関係性  心理的安定

 

 

人は意識下の劣等コンプレックスをちょっとでも刺激されると、扁桃体はそれに敏感に反応しブワッと不安が増大する。

自己防衛のための不安反応は人それぞれであるが、基本は、逃走か闘争かフリーズ、のいずれかの反応になる。

 

マウント行為の場合、自己価値が下がる不安からくるストレスを、他者を下げる(=自分が上がる)というその場凌ぎの闘争で解消しているわけであるが、それはほとんど無意識下に行われる。

 

劣等感による不安の要因は、「他者から評価されないと自分は価値がない → 他者から見下され惨めで恥かしい存在」といった類の刷り込まれた自動思考

逆に言えば「他者から高く評価される自分は優れている(偉い・凄い)→ 他者から羨望・称賛されて然るべき存在」と思い込んでいる。

 

つまり、マウント行為は徹頭徹尾、自己防衛のための反応の一つに過ぎず、される側は関係ない。

 

マウントをとられた側は、

・見下される自分に原因があるのでは‥という自動思考によって心理的に落ち込みストレス増大。

・相手のマウントに対し屈辱感や怒りが生じ、同じような反撃行動に出てしまいストレス増大。

・相手の言葉を繰り返し反芻し、悔しさで悶々と眠れなくなりストレス増大。

等々、相手の抱えている問題に、自ら巻き込まれて不毛なエネルギーを費やしストレスを増やす。これは極力避けたい。

 

ただし、マウントをとられる側が自分の心の動きを客観的に捉えることで、逆に自らが抱えるコンプレックスを点検分析するチャンスにはなる。

 

単なるマウントに対する最も効果的な対処は「気にしないで流す」。

例として、以下は友人が「めんどくせーから」と言いつつ実行している省エネ対応。

 

相手からのマウント攻撃には、苦笑しながらウンウンとうなづき、そこで終了させる、

「ふーん」「あ、そう」「なるほどね」等と苦笑しながらつぶやき、そこで終了させる。

苦笑て、立派な反撃やん。。

例によって、ほとんど参考にならない例えになってしまった。

 

やりがちな衝動的反応は、相手の目的(優越欲求を充たす)に応えることになり、相手の思う壺(博打のサイコロ伏せ器)。

あれ?と気づいたら、雲の動きを眺める様に無関心に対応、相手が中空を殴っている様を遠目で楽しむこと。

 

だって私は関係ないんだモン♪

(しつこいですが)「問題は相手の側にあり、自分は関係ない

応用として「職場で偉ぶったり重箱の隅をつつく上司や同僚も同じ」

 

「不安なのネ」

 

相手の心理状態を理解して、無意味なストレスから自分を解放してあげる。

自分で自分の心身を守る、という責任を果たことにもつながる。

 

「恐怖や不安」は、原始時代から繁殖や自己防衛に必須の感情として備わったものだ。

 

しかし現代における「不安」という情動は、個々人の自己防衛という機能だけではなく、過剰もしくは不要な「攻撃」につながる破壊への大きなファクターのひとつとなっている。

不安を過剰に煽るすべての情報はほぼ100%うさんくさい。

 

なぜ不安をこれでもかと煽るのか。

 

生存本能と直結している古い脳(扁桃体)は、不安という刺激に対し超過敏に反応する。

 

効果的に煽られた不安感情は、反射的にドワッと意図された恐怖心を育て上げる。

 

衝動(本能)にかられ、自分を守らねばと浮き足だち、行動へと駆り立てられる。

すぐに何かにしがみついて、不安や恐れから逃れたい。

 

不安を煽り立てる輩はそこにつけ込むのである。

 

ほら、こっちに来たら大丈夫だよ~

 

それは金儲けであったり、特定のイデオロギーであったり、特定の学説であったりする。たいていは権威でコーティングされている。

人は圧倒的に権威に騙されやすい。

 

結局、不安を煽る一握りの集団の利益享受のために利用される。

 

怯える人々を取り込んでマインドコントロールするのは簡単である。

知らずに取り込まれ、善意のつもりで不安を煽る人々の背後には、

必ず意図をもって彼らを操る輩が存在している。

 

人を操作するには、恐怖や不安を利用するのが最も簡単で効率的なのだ。ましてや、あっという間の伝播が可能なネット時代。

 

コロナ禍で味をしめた輩が、ネット上にわんさか湧き出てると思いませんか?

 

おかげで毎日使ってもあと1年位大丈夫って数の、マスクと消毒液が棚を占領しているですよ。。 ( ̄^ ̄ ;) バカジャネーノ

以前「心ほどの世を渡る/1-~3」という記事で、同じ事象であっても、それをどう解釈するかによって個々人の「心のつくりだす世界」はまったく異なるーーといったようなことを書きました。映画の「羅生門」ですね。事実は一つであるが、真実は無数にある、という。

 

訂正:後から気づきましたが、映画では「羅生門」、芥川龍之介の原作では「藪の中」でした。


最近の研究で、ヒトがものごとを解釈する脳の働きを「サニーブレイン(楽観脳)」と「レイニーブレイン(悲観脳)」とという観点から捉えた研究があります。これまで「自分を知るということ/2」で紹介した、異なる過程を経て生まれる2種類の思考「二重過程理論」の仲間と考えていいかもしれません。

 

そのなかの一冊『脳科学は人格を変えられるか』(著エレーヌ・フォックス:文芸春秋社)から、私が興味深く感じたところを何回かに分けてアトランダムに紹介してゆきたいと思います。著者は以前にNHKの「白熱教室」で取り上げられ、かなり話題になったとのこと。ここ十数年TVは観ないので見逃していましたが、かなりの反響があったといいます。番組で興味を持って本書を読んだ方もいらっしゃるかもしれません。

 

というわけで、著者はその後新たな研究成果を一般書籍では発表しておらず、評価も定まった頃合いなのでぼちぼちと紹介してゆきます。

 

何をどう見る(解釈)か、どう反応(行動)するか

 

本の冒頭に『あなたがものごとをどう見るか、そしてそれにどう反応するかによって、実際に起きることが変化する。」それが心理学が解き明かしたシンプルな事実』と書いてありますが、まさしく世界中の一人ひとりがそれぞれの自分の心ほどの世を渡っているのは事実なのであります。

 

ポジティビティ比(ポジティブとネガティブの比率)

 

最初にすぐに取り組めそうなところをかいつまんでご紹介。

 

本書の最後の方で紹介されている、著者の知人であるバーバラ・L・フレドリクソンというポジティブ心理学者の研究です。ポジティブ心理学は、精神疾患ではなく、「どうしたらより幸福に生きることができるか」という、人間のもつ良い面や楽観主義といった面を研究テーマとする、ごく最近に始まった心理学分野のひとつ。

 

幸福に過ごすには、日々の生活にポジティブな気持ちをより多く感じるとイイよ!、ということです。当たり前でんがな~といいたいが、フレドリクソン博士が発見したのは、ポジテブ:ネガティブ → 3:1という黄金の比率、ポジティビティ比

 

この比率を上回り幸福へ向かうか、下回りそうでない方に向かうかのティッピングポイント(転換点)がポジ3:ネガ1だとといいます。

 

本書で挙げているネガティブ感情とポジティブ感情についての例

 

ポジティブ感情:驚嘆、思いやり、満足、感謝、希望、喜び、

        性的欲望 etc.

ネガティブ感情:怒り、軽蔑、嫌悪、困惑、不安、悲しみ、恥 etc.

 

比率を出す計算方法やその妥当性については同様の他の研究例がまだ乏しく、どこまで事実であるは不明ですが、脳の情報処理システム的にはかなり重要なところをついています。私はひじょうに信憑性の高い研究結果と考えているので、こんな考え方があるよ!という感じで紹介いたします。

 

幸福な人生を送りたければ、ネガティブな気持ちを一つ感じたならば、ポジティブな気持ちを3つ感じなさい、ということなんですね。ネガティブを排除せよ!ではないところがミソです。大抵の人は、ポジティブ2につきネガティブ1の 2:1、しかしポジをもうひとつ増やすだけでより豊かな人生が手に入る‥ということです。

 

ポジティビティ比が高いほど、自己の能力や才能を最大限に生かせる人生というだけではなく、ストレスが少ない状態によって免疫力や回復力が上がり、より健康で長生きできる人生にもつながるわけです。ちなみに、うつ病患者のポジティビティ比は1:1だということです。

 

さらに、数学者のマルシャル・ロサダ先生との共同研究で、ポジティブな感情と幸福度の関連は数式で表せる!という発見に至ったとのこと。

 

ここでの「幸福」の定義は、『自己を最大限に生きることであり、良きものや成長や創造性に満ちた生活を楽しむこと。ものごとが困難な方向へ進んだときも、それを乗り越えて立ち直る強さをもつこと』としています。

 

1.881人の大学生に調査を行い、上記の「幸福」定義による独自の基準によって「幸福な人23%」「幸福でない人77%」のグループに分け、ある条件のもと、1ヶ月間の感情変化(ポジティブ感情、ネガティブ感情)のデータを分析します。

(この調査の詳細は説明がややこしいので、知りたい方は本書又は『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』著バーバラ・フレドリクソンをお読みください。)

 

その結果、簡単に言えばポジテブな感情の合計をネガティブな感情の合計で割ったところ、幸福なグループの平均は3.3、そうでないグループの平均は2.2。

 

つまり、ポジティビティ比 1:3を上回ることが、人生を最大限に幸福に生ききる人になるかどうかーーの重要なラインになるというのですね。

 

このポジティビティ比は、人間関係(お互いが相手に感じる感情)にも応用できるといいます。

 

カップル‥‥ポジティブ:ネガティブが 5:1 

 

調査では3分の会話内容によるカップルの将来予測、的中率9割だとか‥

たとえば、「君ってワガママだよね、でも可愛いし、オシャレだし、強いし、えーと可愛いし、可愛いよね ♪」 

     「あなたってドジよね、でも優しいし、力持ちだし、気前がいいし、んー 優しいし、優しいもんね ♪」

 

といった具合に、一つ貶してしまったら取り敢えず五つ褒めておく、さすれば二人は永遠に結ばれたままであろう? ヾ(-_-*) 

年配で仲良しご夫婦の会話を聞いていると、言葉は少なくてもお互いに「ウンウン」と頷いていらっしやることが多いように感じます。

 

他の人間関係にも、それぞれポジティビティ比のティッピングポイントがあるといいます。

その比率を上回るほど関係性は良好になり、下回るほど悪化してゆくという法則。

 

職場の上下関係‥‥4:1

友人‥‥8:1

親子‥‥3:1

 

ところで友人関係が8:1というのは意外ではありませんか?

友人といっても親密度は様々でしょうが、ネガティブ感情1にポジティブ感情8が良好な交流を維持するラインだとすると、カップル以上に気の合う間柄ということです。お互いの相手への共感度や許容度がズレてくると、友人の一言や行動にカチンとくる率は、職場の上下関係や家族よりも高いのかもしれません。

 

ポジティビティ比は個人だけではなく、会社や学校、サークル等の集団にも応用できるといいます。集団が良好に維持されるかどうかは、集団内で交わされるコミュニケーションのポジティビティ比に大きく影響されるとか。ポジティブで雰囲気のよい集団組織は栄えるということですね。

 

いずれにせよ、日々の生活の中でポジティブな気分でいる時間が多いほど、心身のあらゆる面にひじょうに良い影響を及ぼす というのは実証済みの事実です。

 

では、どいうすれば自己のポジティビティ比をあげることができるのか?

 

人それぞれ独自の方法もあるでしょうが、ここでは誰もが実践できる方法についてお伝えします。

 

1. ネットやTVでのネガティブな情報に触れない

  

 TVやネットの報道やニュースは、約8割がネガティブな情報でできているといいます。とくにコロナ禍等の不安な状況下では、防衛本能によって不安を煽るネガティブな情報ばかりに注意が向かうようになります。

 

脳は同じような情報に繰り返し接していると、それを重要事項と認識し、同じ傾向の情報ばかりをキャッチするようシステム化されます。やがて常に不安情報ばかりを漁るというネガティブスパイラルに陥り、それが認知バイアスとなり日常生活そのものに悪影響をもたらします。

 

2. 歩くだけでもいいので、継続的に運動をする

 

運動のもたらす効果は、身体だけではなく脳(抗ストレス・集中力・記憶力・創造力)にもひじょうによいことが実証されています。

 

運動によって、副交感神経優位となり、ストレス解消のためのセロトニンやエンドルフィンが分泌されます。その結果、身体の健康維持だけではなく、精神面でも不安が軽減しポジティブ感情が豊かになるわけです。

 

3. ものごとに対し意識的に、いつもの思考・解釈ではなく、

 ポジティブに解釈してみる

 

「あの人いっつも、私のちょっとしたミスまでしつこく指摘してくるけど、嫌なやつ〜!」→「あの人いっつも、私のちょっとしたミスまでしつこく指摘してくるけど、私が気になって仕方ないのね〜♪」

 

「失敗したらどうしよう〜」→「うまくいっても失敗しても、経験値は上がるわけで、長い目で見れば σ(・_・.)の人生にとってどっちもOKじゃない?

 

「なぜ私ばかりこんな酷い目に遭うのだろう!」→「なぜ私ばかりこんな酷い目に遭うのだろう!、と感じている人は今日本にどれくらい居るのかな

 

例えが下手すぎて、「酸っぱい葡萄」のキツネの負け惜しみや『阿Q正伝』阿Qの精神勝利法みたいになっちゃった。参考にしないで、ご自分で考えてくださいまし。

 

次はメインテーマ「レイニーブレイン(悲観脳)」と「サニーブレイン(楽観脳)」の働きについてご紹介いたします。(不定期)