人生で孤独にならなければならない時期が2度あります。
ひとつは青春期。ひとつは壮年期。
今回は青年期の孤独について。
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もうすぐ夜明けだ、
出発の時がきた
さらばふるさと
想い出の山よ河よ
いま…朝焼けの丘を越え
青年は荒野をめざす
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ザ・フォーク・クルセダーズ
「青年は荒野をめざす」の2番の歌詞です
作詞は五木寛之。
五木寛之は小説でも「青年は荒野をめざす」を著し
当時の若者たちの圧倒的支持と共感を得ました。
青春期の青年は荒野をめざします。
それはどういうことかと言いますと
青年は「たったひとりで荒野を行く」
ということなのです。
「たったひとり」というのは、
「孤独」になるということです。
なぜ孤独になる必要があるのか。
青春期にある青年は、
それまで親や先生などに教わった価値観や倫理観を
総点検するときなのです。
そして、
普遍的、社会的な規範に根差しながら、
自己のオリジナルな「生き方」へと
チューンナップしなければならない。
それには「ひとり孤独な時間」が必要なのです。
「孤独な時間」とは、
自分と向き合う時間です。
自分を知るための時間です。
たったひとりの孤独の旅は、
不安や恐怖が道連れとなるときがあるでしょう。
寂しさやせつなさが道連れになるときもあるでしょう。
しかし、それを必死でふりきりながら
たったひとり荒野をめざし
渡らなければならない。
そうして、ひとり黙々と進んでいるあいだに、
自分の価値観や倫理感(生き方)が
深く深く内面化してゆきます。
そのために
孤独な時間が必要なのです。
人は孤独を過ごすことで成長します。
あなたは孤独ですか?
耐えられないような
孤独なときを
過ごしたことはありますか?
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◉習慣的性格
前回、「性格は変えることができる」という場合、この第3層目の「習慣的性格」を指す------と記しました。では、4層目の性格「役割性格」は変えられないのか、という疑問がでてくると思います。「役割性格」というのは、社会での様々な場面・状況に適応するために形成された性格で、状況に応じて瞬間的に変えることができます。
たとえば、家庭・学校・会社などにおいて、所属するそれぞれの社会集団及びそのメンバーに合わせて意識的・無意識的に変えたり変わったりする性格のことです。たとえば、家庭では優しい父親の顔、職場では厳しいビジネスマンの顔というふうに。ある意味、実社会で「役割性格」を上手に適応させるということは、大人である証と考えてもよいでしょう。
その「役割性格」は、それ以外の3層「気質」「狭義の性格」「習慣的性格」を基盤に形成されます。特に「習慣的性格」と連動して表出されるので、「役割性格」を変えるためにはまず、役割性格の基盤となる習慣的性格の変容が必須であると意味で、「性格を変える」というのは第3層目の「習慣的性格」を変えることを指す------としたわけです。
■「習慣的性格」とはどういうものか
「性格の(同心円)4層構造説」を唱えたのは、心理学という学門分野を広く世間に知らしめた心理学者の宮城音弥でした。私が青少年期のころ、本屋の心理学コーナーには宮城音弥の本がずらりと並んでいましたっけ。宮城音弥の解説したフロイト関連の書籍に接し、氏の精神分析への深い理解と論理的不備をつく容赦のない批判に、ひじょうな感銘を受けたことを思い出します。宮城音弥の、権威に惑わされない筋金入りの学者・研究者としての姿勢がとても好きなのです。
閑話休題。
宮城音弥は、第3層目の「習慣的性格・態度」を、住んでいる国・地域の文化的慣習や日常の生活習慣によって形成されていく性格の部分、と定義しています。別の言い方をすれば、先述した「自らの置かれた環境の中で、自分を守るために身につけた役割や手段を、習慣的に反復することで形成された個性」ということになるでしょうか。
宮城音弥の『日本人の性格・県民性と歴史的人物』、樋口清之 の 『出身県でわかる日本人診断』 という本では、膨大なデータを集めて、地理・歴史・文学・伝統文化といった側面から各県ごとの県民の性格を分析し、県民性(地域の文化的習慣)という観点から「習慣的性格」を分析しており、とても刺激的な内容となっています。
もちろん生まれ育った地域だけではなく、人は誕生の瞬間より、自己を取り巻く環境すべてから影響を受けて成長します。「狭義の性格(人格)」を形成する乳幼児期(誕生~2歳頃まで)以降、幼児期から児童期・学童期、青少年期、成人期に至るまでのあいだに、家庭(親・兄弟)・地域(近隣の人びと)・学校(教師・友人)・職場(上司・同僚)等々、様々な人から生活習慣や価値観、モノの考え方、倫理観などを繰り返し刷り込まれてゆきます。
それによって形成されるのが「習慣的性格」です。
習慣的性格は主に「人とどう接するか?」「人にどういう態度をとるか?」ということに表れます。
たとえば、親が挨拶のしつけをしない家庭で育った子どもの場合、近所の人に出会って挨拶をされても、うつむいて通り過ぎてしまうという習慣ができ上がったとします。するとその子は「恥ずかしがりや」「無愛想」などというように性格認定されるかもしれません。そうした他者の目を感じると、ますますかたくなに挨拶ができなくなり、「暗い子」「不良っぽい子」などという評価が加わるかもしれません。
けれども、学校をあげて「挨拶運動」に取り組み、知り合いに会ったら必ず挨拶をすることを徹底して習慣づけられると、きちんと挨拶ができるようになる場合もあります。学校の指導どおり、知っている近所のおばさんに思いきって挨拶をしてみます。すると「あら、挨拶ができていい子ね!」などと褒められます。結果「きちんと挨拶ができる子」「しっかりした子」などと性格認定されるかもしれません。すると嬉しくて、ますます元気に挨拶ができるようになり、「明るくて活発な子」という評価が加わるかもしれません。
上の例のように、学校で挨拶を習慣づけられても、なかなか挨拶ができない子もいます。それは遺伝的要因の「気質」や乳児期の養育者との関係性に依る「狭義の性格」との重層的相互作用が影響している場合もあるからです。それでも社会人となってから、本人の自覚と意志によって礼儀正しく振る舞えるようになったりするのが「習慣的性格」なのです。
また、挨拶するときに「にっこり笑って挨拶」するか「無表情に挨拶」するか。同じ行為でも行う態度に人それぞれ個性があり、そこにも性格を読み取ることができます。
気持ちが大きく動揺したときにも、さまざまな「習慣的性格」が表出します。
たとえば会社の仕事でうっかりミスをしてしまい、上司なり先輩なりに「事前にちゃんと確認してよ!」と注意されたとします。
そのときに、どのような思考が意識にのぼってくるか
「やっぱり私って何やってもダメだ。失敗ばかりしている・・」
「皆に迷惑をかけてしまった。どうやって取り戻そう・・・」
「きっと皆にできないヤツって思われている。恥ずかしい・・・」
「また私のあらを探して上から目線、自分だってミスるくせに・・・」
「ああ情けない。二度と同じミスを繰り返さないようにしよう・・・」
その「パターン化された思考(自動思考)」は気分(感情)と行動に影響を及ぼし、その結果「パターン化された態度」となって表れ、その人の性格と認識されます。
生きてゆく上で出合う無数の「人や物、事態」に対して、自分は「どういう態度をとるか? とってしまうのか?」。それが習慣的性格です。
「○○さんは、これこれこういう人」という場合も、この習慣的性格を指しているわけです。(つづく)
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といっても、ツタヤの宅配レンタルで主にアクション&サスペンスの映画(A~D級)や海外ドラマを借りてTV画像で観るだけのお手軽鑑賞なんですけれど。
それなのに5~6日ごとに郵便ポストのなかにツタヤのDVDが届いている。ツタヤの宅配レンタルでは指定したDVDが2枚ずつ届き、それを見終わって送り返すと、次の指定の2枚が送られてくるというシステム。無期限なので、返送しないかぎり次がくることはない。したがって間断なく届いているということは、 3浪への道を悠然と歩んでいる息子が、いつの間にか勝手にどんどん借りまくっているのだ。勉学は?
その不埒な息子が「これ観てみる?」と差し出すDVD、巷で有名な「ONE PIECE」のアニメで『冬に咲く、奇跡の桜』という作品。サイドストーリーの劇場版だとか。息子はONE PIECEの漫画も読んでおらず、唯一観たアニメだそうだが好きな作品らしい。例によって唐突に、自分の守備範疇の欠片を差し出して味わってみよといって くる。
この歳でお子様アニメって言われてもね、とぶつくさ言いながら観てみましたよ、大人気のONE PIECE。それが情けないことに、波状攻撃のような感動に涙垂れ流し状態。アニメでこんなに泣くとは思わなんだ。
何だかよく分からない設定の上、何だかよく分からない生物(人間含)がゾロゾロ出てくるのであるが、その純なストーリーにやられてしまった。なんとも説明しがたき世界観なれど、よく見れば懐かしい人間そのものを描いている。人は人恋しい生き物なのだ。
てな感想を、鼻を赤くしながら告げましたところ、ニヤリとして「あなたでも涙したわけね」とひとこと言い残し自室に去る。ヾ(ーー )ォィどういう意味かね?
興味の湧いた方には実際にご覧になっていただくしかない。古生代もとい、昭和(中期~後期)生まれなら大丈夫ついてゆける。と思う・・・。
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引き続き狭義の性格(人格)が形成される要因となる、乳幼児期の発達心理の研究緒論。
マイケル・バリント(フロイト派)
フロイト派の精神分析家バリントは、多くの治療を行う中で、フロイトの精神分析技法では改善しないどころか、なぜか病的な退行(現在の状態より以前の状態、あるいはより未発達な段階へと逆戻りする)を引き起こしてしまう症例をいくつか経験します。つまり、従来の精神分析ではまったく対応しきれない、重大な精神病理の存在を知るわけです。
その症例では、成人であっても自我が脆弱で、問題と向かい合って葛藤をすることができない。また、他者との対等な関係が結べず、特定な相手との依存的な二者関係に陥いってゆく。したがって、古典的精神分析技法による解釈が可能なほどの自我を形成できておらず、「エディプス水準(神経症)」に達していないと見なしました。
この原因を、人生の最早期における養育者(母親)と子ども間の不十分な養育上の問題からくるものとし、「基底欠損 basic fault」と名付け、「基底欠損領域」という概念を想定し、この領域において言葉は本来の伝達手段となりえないとしました。
ドナルド・ウィニコット(小児科医・精神分析家)
ウィ ニコットは、フロイトのリビドー発達論に基ずく性格の発達段階説には懐疑的でした。リビドー発達論が対象関係の存在しない個人の充足欲求を基盤としている のに対し、ウィニコットは母親と子どもの関係性を抜きにして、乳児期における精神発達を考えることはできないとしたからです。
小児科医と しての豊富な臨床経験によって、子どもが情緒や行動面で問題をもっている場合、その子どもが乳児の頃から情緒的発達に問題を抱えていることに気づきます。 その乳児たちは様々な理由によって、生まれた直後から母親のケアや愛情を注がれていなかったことが分かります。
ウィニコットは、母親が赤ちゃんと一体化した熱中状態を「原初的母性的没頭 (primary maternal preoccupation)」と呼びます。妊娠から出産、出産後の数週間において、文字通り母親が我が子へ夢中になって全身的に関わることです。
なぜ母親は「原初的母性的没頭」状態となるのか?
生まれたばかりの乳児は絶対的な依存状態にあります。乳児の肉体的、生理的、心理的な欲求に母親が答えてくれなければ、子どもは「絶滅の脅威にさらされる」とウィニコットは述べています。そのためには母親が、乳児の心理的欲求をも含めた全ニーズを受けとめる感受性をもたなければならない。そのために、乳児だけに向けられる鋭敏な感受性と集中力「原初的母性的没頭」が必要になるというのです。
さらにウィルコットは、乳児は自分の欲求を以心伝心で満たしてくれる母親の原初的母性的没頭によって、はじめて自分の存在を、連続性をもった確かなものとして感じられるようになると考えました。
逆に何らかの理由によって、母親が乳児の欲求に何も応えてくれない状態が続くと、自我の連続性の発達は損なわれ、自己を防衛する働きが生まれるとします。その防御によって「本物の自己」とは別の「偽りの自己」へ分裂を起こすと考えました。
バリントの「基底欠損 」やウィニコットの「偽りの自己」の 状態は、「狭義の性格(人格)」を形成する上で重いパーソナリティ障害の要因のひとつになることが示唆されています。とはいっても、生まれつきの遺伝的要 因、その後の生活環境等の相互作用によって影響の表れ方は千差万別、ひとりひとり異なるということを忘れてはなりません。
以上のように、人生の最早期における子どもと養育者(母親)との関係は、自我の基盤をつくり、狭義の性格(人格)の形成にも大きな影響を及ぼすことがわかっています。
けれども、これはあくまでも現段階での「4層構造による性格論」なんですね。事実の一側面であって、絶対的判断基準ではないのです。
心 理学は一義的なものではありません。現在も実験心理学や行動心理学など、限りなく科学的であろうとしてはいますが、常にそれだけではカバーしきれない領域 を持つ世界です。扱う対象が、「見える部分(行動・生理的反応)」と「見えない部分(思考・感情)」を併せ持っている「心」だからです。
過去を振り返って、乳幼児期に不十分な生育歴をもっているから・・・なんてことに囚われない方がよいのです。完全な育児なんていうものは存在しませんし、私は完全な養育歴だったワ・・なんていう人も存在しないでしょう。
前 にも記した通り「狭義の性格は大人になってからはほとんど変わらない」とされています。けれども私見ですが、たとえ乳幼児期に充分な親の愛情とケアを受け ることができなかったとしても、幼年期~少年期~青年期~成人期、どの段階であっても、人とのあいだに愛情に満ちた豊かな関わりを持つことができたなら、 「狭義の性格」の領域を含めて、性格の変容は十分に可能であると考えています。
次回からは「習慣的性格」についてです。「性格は変えることができる」という場合、この第3層目の「習慣的性格」を指します。(つづく)
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私の若い頃、「自己実現」という言葉が流行ったことがある。
「自己実現」はもともと心理学用語であったものだが、そのうちに経済学や巷の人生哲学などでよく使われるようになり、いつの間にか単純に「自己実現=夢を叶える」といったような概念として広く一般化した。
「自己実現」・・・最近でも使われているのだろうか。
最近ブログを書くのに必要で、心理学関連の本やノートを手当たり次第読み直している。そのなかで何人かの心理学者が自己実現論を展開しているのだが、アブラハム・マズローの自己実現理論はあらためて印象に残った。
マズローは幼少期から酒と女に走った父親と宗教に嵌った母親に育てられ、親を反面教師として育った心理学者。そのせいかどうかは分からないが、心理学に創造性や倫理、神秘体験などを取り入れているのが特徴。
したがってマズローの自己実現理論は客観的・分析的なものではなく、自己実現した著名人(アインシュタイン、シュバイツァー、鈴木大拙etc.)や至高体験のある一般人のデータをもとに、多大な修正と検討を繰り返しながら構築したものを定義としている。
マズローは「人間は自ら成長しようと欲求を抱いている」とする点に着目し、その基本的欲求を5段階に分けてピラミッド型に表現した「欲求段階説」を唱えた。
下から生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求→承認の欲求(ここまでの4つは欠乏欲求)→自己実現の欲求(達成欲求)とし、自己実現の欲求(Self-actualization)を最も難関として最上階層に位置づけている。
最も原始的な欲求を生理的欲求とし、欲求は下から順次満たされていくもので、途中でどれかの欲求が満たされないと、次の欲求が充足することはできないとした。
マズローは、自己実現できる人とはどういう人間かを次のような特徴で挙げている。
1. 現実を的確にとらえ、より快適な関係を保つ
2. 自己、他者、自然をあるがままに受け入れる
3. 考えや行動が自由で自然かつシンプルである
4. 自己中心的ではなく課題中心的
5. 他者へのプライバシー欲求の超越
6. 文化と環境からの独立、能動的人間、自律性
7. 常に認識を新たにする
8. 至高な神秘的体験がある
9. 共同社会感情
10. 少数の人と深く満足できる人間関係を形成できる
11. 人類の幸福への関心
12. 手段と目的、善悪の判断の区別
13. ユーモアがある
14. ひじょうに創造的である
15. 文化的になることへの抵抗・超越
なるほど、うんうん、意外だ、そうかな?・・・・
納得できる項目、できない項目、いろいろ感じると思う。
カウンセリングでは1、2の感じがクライエントさんが力を付けてきた証だけれど、私が特に注目するのは13の「ユーモアがある」という項目。
ここでいうユーモアというのは、面白いことを言えるかどうかということではなく、「自分を笑えるか」ということ。つまり、自分自身を笑い者にできるかどうか。
社会心理学者のゴードン・オールポートも「成熟した人間の定義」として、自分自身を笑いの対象にできるユーモア感覚を挙げている。
他人を笑い者にするのではなく、自分自身を笑う。つまり、自分を客観視したうえで笑い者にできる余裕をユーモアとしているのね。
ものすごい苦境に立ったときに、自分の状況を笑い飛ばしながらもそれに立ち向かっている人はひじょうに魅力的に感じる。
苦悩と悲しみのなかにいた人が、「わたしってほんとうにバカみたい」とかすかに微笑むことができるようになったとき、心理的に大きく前進している。
10の「少数の人と深く満足できる人間関係を形成できる」というのはどうだろう。「多くの人」ではなく「少ない人」というところがミソ。
100人の友だちなど必要ない。八方美人的に、誰にでも愛想よくする必要も、好かれる必要もない。
過度の執着も依存もない、互いに尊重し理解し尊敬しあえる関係。
長い人生の中で「この人」といえる人と出逢えたら、それがたとえたった一人であろうも、それだけでこの世を生きてゆく価値がある。といったら言い過ぎかな。
自己実現のためだけではないが、ほんとうに苦しいとき辛いときに、その気持ちをありのままに話せる人を、ひとりつくってほしい。周りにどうしてもいないときには、自分に合った信頼できるカウンセラーをなんとか見つけてほしい。
心が折れそうなとき、他者にすべてを受け入れ聴いてもらう。これは心理的苦境を乗り越えるとき、とても重要なことなのだ。
マズローは基本的欲求を5段階に分けたと書いたが、晩年には「自己実現」のさらに一段階上に6段階目の「自己超越(self-transcendence)」という概念を加えた。
自己超越者の特徴として11項目を挙げているけれど、なんだか悟りをひらいた聖者のような特徴でね・・。そのなかで笑ったのがヾ(ーー )ォィ、最後の項目の「外見は普通(very normal on the outside)」というの。
「外見が普通・普通ではない」の定義は何なのだとマズローさんを小一時間問い詰め(以下略)。
ところであなたの自己実現とはなんですか?
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