子どものころ
思いきり甘えたことはありますか?
思いきり我がままを言ったことがありますか?
前の記事「ひとりでいられますか?」で母親(養育者)という安全基地があることで、乳幼児期の子どもは未知の世界に「ひとりで」向かうことができると書きました。
安心して「ひとりでいられる能力」を身につけた子どもは次の段階へと進みます。
ひとりで歩けるようになるころから徐々に自我が芽生えはじめ、親に甘えたりわがままを言うようになります。親(養育者)の自分への愛情を確かめようとするのです。そうすることで、自分はこのように「愛される価値のある存在」なのだと確認したいのです。
子どもは幼いほど甘える人を選びます。心から信頼できて信じたい人に対してだけ、思いきり甘えたりわがままを言います。甘えとわがままを繰り返し、何度でも受け入れてもらいながら、自分に対する存在価値を確信してゆくのですね。
「自分は無条件に愛されている」・・・その確信を得て、乳幼児期に育んだ安全基地をさらに深く内在化させてゆきます。この確信を得ることが、自分に自信をもち、安心して生きていく意欲やエネルギーの源になるわけです。そして自立へと歩み始めます。
発達心理学者のエリク・H・エリクソンは、心の発達を幼児期~老年期までを8段階に分け、それぞれの段階に必要な発達課題を示しました。そして「人間の心の成長には順序があり、決してどの段階も抜かすわけにはゆかない」と述べています。
この発達過程を順調に歩めないとき、子どもはいろいろなサインを出して教えようとします。それが指しゃぶりや夜尿といったかたちで表出されることもあります。その発達上のサインを見逃さず、ゆったりと優しく受け入れ、充分に愛情を注ぐことで子どもはその課題をあらためて達成してゆきます。
子どものとき、親に充分に甘えたりわがままを言えないまま過ごした子どもはどうなるでしょう。その時期の発達課題「自分は無条件に愛されているという確信」をもつことができないわけです。
そうした子どもが成長し青年期~成人期に入ったとき、「甘えとわがまま」を親以外へ向けていくケースも多く見られます。「甘え」は「依存」、「わがまま」は「反抗」と言い替えた方がわかり易いかもしれません。(この「反抗」には、幼児期・思春期における発達課題、アイデンティティ獲得のための親に対する反抗期も含まれます。)
たとえば、アルコール・薬・ギャンブル・恋愛・買い物・ゲーム・共依存etc.といったさまざまな依存症の人たちを調べると、親(養育者)と充分に愛着関係を育めず、甘えやわがままいっぱいに振る舞う機会に恵まれないまま大きくなったケースがひじょうに多いことが分かります。育ってきた家庭環境の経済的格差などよりも、母親がやさしかったかどうかのほうが、決定的な要因となっていました。
またヤンキーや暴走族と呼称される若者たちにも、依存症の人たちと同じような共通点があります。子ども時代に安心して親に甘えたり反抗したりできないまま、成長した若者が圧倒的に多いのです。その、子どものときに達成できなかった課題、甘えやわがままや反抗を、社会、あるいは他人である恋人などに対し、無意識のうちにやり直しているのです。
ある課題を果たしていないと、必ず後になってそれをやり直さなければならなくなる、ということです。
幼児期の「甘え」と「わがまま」は、人が自立してゆくための重要な課題の一つといえます。
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めずらしく暗くなる前に家路についたので、途中で買い物をして公園のなかを通っていると「カア」という鳴き声がする。
そばの落葉樹を見上げると、2~3枚の枯れ葉がついている太い枝に1羽のカラスがとまっている。
「なに?」と声を出すと、頭を傾けて片目で私を見下ろす。
この公園には、同じカラスではないけれど、何時もハグレカラスが1羽でいることが多い。ハグレているというより、個鳥主義なのかもしれない。
「カァ」。傾けた頭を元に戻して喉を膨らまし返事をする。
以前カラスオヤジに大きなため息をつかれて驚かされたが、今日のカラスは普通にカアと鳴いてくれる。
「夕方だし、お腹すいたの?」と聞くともういちど力強く「カァ!」。
ゥーン、我慢できない。そんなに返事してくれちゃうと、どうしても交流したい。で、買い物袋から突き出しているフランスパンの袋を片手で破り、先っぽをむしり取った。エサをやってはイカンという良識も無視。
見上げると小首をかしげ、「何をはじめる?」と興味津々で見ている。
「いいお返事だからご褒美」と言いながら、指でつまんだパンをよく見せてから樹の側の地面に置いた。
「はい、どーぞ」カラスを見ながらそこから十歩ばかり離れると、パンと私を交互に見ておもむろにフワリと舞い降りた。臆することもなくパンをくわえ、すぐにまた頭上の枝に飛び上がり、パンを足で押さえながら食べはじめる。
「じゃね」と言って耳を澄ましながら歩き出すと、今度は返事がなかった。振り返るとまだ夢中でパンをついばんでいる。
何だかよくわからないがカラスとスズメが大好きなのだ。
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十分な愛着によって母親と一体であった乳児は、つねに母親が自分を守ってくれるという安心感を身につけます。これを基本的信頼感といいます。
乳児は母親を安全基地として、未知の世界へ向けてハイハイしだします。その行動が「ひとりでいられる能力」です。
母親から少し離れて自由を感じ、少し怖くなってまた母親のもとへ戻る。
そして再び広い世界へとハイハイで向かう。
ハイハイの途中で目の前に電気コードが波をうっています。子どもは一瞬おどろいて振り返り母親の顔を見ます。
ニッコリ笑ってうなずく母親の顔を見て、子どもはすぐに安心し、またハイハイしながらさらに新しい冒険の旅に向かいます。
これを繰り返しながら、安全という感覚を身につけてゆきます。そしてもっと遠い世界へ歩み出すのです。
母親が居てくれる、自分には安全基地がある、だから安心して「ひとりになることができる」という感覚。この感覚は、その後成人してもずっと持ち続けています。
このときに育んだ基本的信頼感があるからこそ、人は人と交流できるし、たったひとり孤独の時間を楽しむこともできるわけです。
「ひとりでいられる能力」を身につけることができなかった子どもは、一人でいることが不安でしかたなく、どうしようもない寂しさを抱えることになります。それは成人しても変わりません。
そういう場合はどうしたらいいのでしょう。
仕事や利害に関係のない人と、信頼と安心に基づいた交流の機会を積極的につくることです。人は人との関係性のなかでしか、信頼感、安心感を育むことができないのですから。
『ショーシャンクの空に』という映画をご覧になった方も多いと思う。
先日久しぶりに録画してあったのを観た。
レッドが出所してからラストに至るまでの後半、毎度のことながらジワッと泪。
この映画はヒューマニズムを謳ったものでも、司法制度や刑務所問題を問うたものでもない。主人公アンディは無実の罪で収監されているが、けっして単純な善人ではない。
そこに、この映画の価値があると思っている。
どのような絶望状態に陥っても、自らの置かれた状況のなかで、最大限に、知恵を絞り、手を尽くし、チャンスを利用し、状況を楽しみ、決して希望を失わない。ひとりの強靭な意志力をもった男を描いた作品である。
そして、レッドとの友情。もうね、泣けるわ。
ふたりのような友情は男にだけ許されている、と密かに思っている。(フェミニストの方、偏見ご免なさい)
要するに、レッドの言う「たいした奴」を原作者のスティーヴン・キングは書きたかったのだろう。そして映画でもそれはみごとに表現されている。
終身刑で50年も刑務所暮らしをしている老人が出てくる。彼は刑務所のなかでこそ自尊と存在価値を感じることができたが、仮釈放されたあと、50年ぶりの娑婆に安心の居場所を見いだせず、生きる価値を失い、自殺する。
レッドは言う。「刑務所のなかで死なせてやりたかった」。罪は十分に償った。その結果として仮釈放というさらなる苦役を彼は背負うことになる。翻訳では「施設慣れ」としていた。ある特定の集団環境に対する依存である。
慣れることで生きる、慣れることを拒否しながら生きる。どちらを選択してもいいと思う。アンディは断固拒否し続けた。
印象に残るシーンも多い。
銀行家(副頭取)の知識を利用し、主任刑務官に取り入って囚人仲間にビールをふるまう。刑務所始まって以来の冷えたビールに喉を潤す仲間たち。彼らを満足顔で眺め入るアンディ。そのときアンディは刑務所のなかで、確かに幸福感に満たされていた。
レコードの『フィガロの結婚』を、放送室を占拠して刑務所内の全スピーカで流す。あまりにも場違いなオペラの歌声に、囚人たちは全員棒立ちで聴き入る。
レッドがアンディとの約束を果たすため、指定された場所に行き、目印の大きな樫の木を見つけたときの牧草地広がる美しい風景。
まだまだ心に残るシーンが書ききれない程ある。
ショーシャンク刑務所での約20年にわたるアンディの日常において、実にさまざまな伏線が張られているる。それがラストで一つ残らずみごとに回収され、鮮やかなフィニッシュを決める。同時にちょっと言葉にならないほどのカタルシスを味わえる。(道徳観念強固な人は別かも?)
まだご覧になっていない方、興味があったらどうぞ。
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「人間とは、パラドックスの体現であり、矛盾の塊である」
と言ったのは、社会学の祖として知られるオギュスト・コントでした。
カウンセリングの場面でも、しばしば人の心の複雑な仕組みを目の当たりにします。
幸福を望みながら、幸福を拒否する
人が恋しいけれど、人嫌い
分かってほしいけれど、分かってたまるか
私は嘘つきだという、正直な告白
嬉しいけれど、悲しい
背反するふたつの心が、同時に存在することもあります。
両方とも真実であり、偽りでもあるのです。
矛盾に満ちた心と向き合うことが、無意識に深く降りてゆくことにつながります。
カウンセリングという非暴力・安心・安全の雰囲気のなかで、相談者とカウンセラーの交流により、新しい気の流れと時空間が出現します。
それは両者におだやかな影響を及ぼし、すこしづつ身体的・心理的変容を促します。
自由で柔らかな関係性のなかで、カウンセラーは相談者が語る心の情景を大切に取り扱い、そこに創造されるものがたりを読み解き、フィードバックします。
相談者は強制されることなく、安心のなか、ゆっくりと自分のペースで心に向き合うことができます。
ときには背反する二つの心に出逢うこともありますが、恐れることではありません。
心のありのままを受け入れながら、少しずつ確実に、問題解決能力や健康性を促進してゆくのがカウンセリングです。
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