あけましておめでとうございます(遅!)
心理カウンセラーの岸です。
今年もよろしくお願いいたします。
さて大阪で起きた体罰によって
高校2年生の男子が自殺した件、
本当にこういったこと、無くしたいです。
私もメルマガで思うところを書いてみました。
新年最初にこの記事を記しておこうと思います。
とにかく、教育の場に
「体罰」は、もちろんあるべきではないと思います。
「罰」とは、何らかのルールに反した場合に
課せられる行為。制裁とか○○の刑、とかいう行為です。
教育は教え、育てる場であって、司法の場ではありません。
その現場において、罰する必要があるとは思えません。
例えば校則などに違反したときに
決められたある程度の罰則というルールがあるのは
当然でしょう。それと「体罰」の問題はまったく別です。
試験で悪い点を取ろうが、部活でミスばっかりしていたとしても
その意味を教え、成長するための思考と行動に
結びつけることが教育ですよね。
ある意味、「罰する」ということは
「罰」を与えて許す、ということでもあると思いますので
育てる、ということには結びつかないとも
言えるのではないでしょうか。
人を自分の思うようにコントロールしようとする時
「体罰」を与えることは、短絡的な行為とも思います。
「痛みを味わいたくないから」
「怖い思いをしたくないから」
という気持ちを利用して
なかなかうまくできない子どもが
うまくできるようにする、ということは
ある意味カンタンなやり方です。
それに対し、
言葉で伝え、考えを促し、自発的に取り組ませ
うまくできるようにすることは
大変根気がいることですが
人がきちんと納得しながら成長するためには
必要なプロセスだと思います。
たしかに、今までの教育の場、
特に体育会系の部活動では
「体罰」は当たり前のごとくありましたし
「体罰」をしていた先生、イコール悪い先生ではない、
ということもあきらかだと思います。
でも、もういいかげん、無くすべき手法、
それが「体罰」だと考えます。
その上で私は、あと2つの視点も
忘れてはならないと思います。
ひとつは、「体罰」の問題だからといって
身体的暴力による行為を無くせばいい、という
わけではない、ということです。
「いじめ」や「虐待」と同じように
言葉や、態度で、執拗に相手を苦しめることが
できることを、人は知っています。
要するにこの問題は根深いのです。
そう考えると、先生の心のケアや
教育方法論を具体的に学ぶ機会や経験を
増やすなどの対策を立てることをしないで
ただ「体罰」をした教師や学校を権力で罰しても、
「体罰」の根っこの部分を無くすことはできないでしょう。
あとひとつは、子どもたちが
様々な苦境に陥った時、
「自殺」というゴールに行きつかないように
するためにはどうしたらいいのか、
あらためてこの点を真剣に
考えていかなければと思います。
これについては子どもの心をどのように育てるか、
そして子どもの環境的な問題もあるでしょうから
やはりむずかしいテーマだと思います。
しかし「いじめ」の問題でも同じですが
何とか自殺という方法以外の
行動が取れるような、子どもたちの
心の育成が大切だと思わずにはいられません。
最後にあと2点、
この騒動への対処が、
社会がただ関係者を責めるだけのような
形にならないこと。
体罰をした方、それを見過ごした関係者に
ただ罰を与えたとしても、罰を与えた心の要因は
結局いろいろな形で残り続けるように思えるのです。
例えば被害者の立場から考えると
同じ苦しみを与えてやりたい、と
加害者に思うのも当然かもしれません。
しかしその思いを果たしたとしても
体罰がなくなるわけではないでしょう。
そしてこの件があった学校の
他の学生や同世代の高校生たちの気持ちを考え
少しでもその高校生活のじゃまを
まわりがしないよう、最大限の配慮を
していただきたいということ、
切に願っております。
ついつい、思ったことがいっぱいありましたので
書き記してしまいました。
いろいろな悲しい事件が起きるごとに
自分の身の回りが少しでもいい方向の向かうよう
見直すきっかけとし、亡くなった方のご冥福をお祈りしたいです。