6/4(火)
いつもの散歩コースがある理由で閉鎖中になっていた。
文字の背景に狂暴そうなカラスのイラストを入れているところに作成者の遊び心を感じる。が、冗談抜きで、カラスって近くで見ると結構大きいし、鳴き声も威嚇的でなかなかに怖い。そんな奴が狂暴化しているとなればさらに怖い。宅配便のおじさんにも飼い主の後ろに隠れてしか吠えられないわが愛犬ランボーなど、本気出せばいちころだろう。
人間だって本気で襲ってこられたら敵わないよな…などと考えたので、夜、連想により思い出した1冊を手に取る。
そう、ものすごく安易な連想だけど、鳥が襲ってくるっていったらこれでしょう、
ダフネ・デュ・モーリア『鳥』。ヒッチコックの映画(1963年)の原作としても有名である。
結構前に購入してあったのだが、積ん読状態になっていた(Kindle版がないのが残念)。
映画は子供の頃見たので細かい内容は全然覚えていないけど、まだホラー映画とかをそれほど見せてもらえてない年齢だったので、『ジョーズ』とともに怖い映画の代表として記憶に残っていた。映画史上的にも動物パニック映画の原点とされている。
さて、原作の『鳥』。短編なのですぐ読み終わる。
話は超シンプルで、ある日突然そこらじゅうの鳥たちが人間を襲ってきてさぁ大変、というもの。
私好みの、かっこいい小説だった。
まず主人公の傷痍軍人で農場で働くナットの言動や、文体がハードボイルドっぽくてかっこいい。
六羽、七羽、いや、十二羽ものオオセグロカモメやセグロカモメが入り乱れて、攻撃してくる。ナットは鍬を放り出した。こんなものは役に立たない。両腕で頭をかばい、彼はコテージをめざして走りだした。鳥たちは空からつぎつぎ襲いかかってくる。声もなく、ただ、バタバタと恐ろしいはばたきの音だけを響かせて。両手が、手首が、首が、血に濡れていく。急降下してくるくちばしが、彼の肉を切り裂く。だが大事なのは目だ。他のことはどうでもいい。目だけは守り抜かなくては。
また、なんで鳥が急に人間を襲うようになったのかという理由が書かれないところもかっこいい。理由がわからないということは対処方法もわからないわけで、それが不気味さ、怖さを増している。
さらに、結局ナットや家族は助かるのか、事態は収束するのか不明なまま終わるところもニクくてかっこいい。スティーブン・キングの短編『霧』と似たものを感じる。(『霧』は『ミスト』として映画化されているけどラストが全然異なる)
読者は不安なまま取り残されることになるけれど、人生ってそうだよな、理由や結末がはっきりわかるもんじゃないよな、不条理とも思える恐怖にさらされることだってあるわな、って思う。いや、実際にはさらされたくないけれど。
6/5(水)
『生きのびるための事務』(坂口恭平 、道草晴子)読了。
坂口恭平さんの新刊だったから買ったのだけれど、漫画だったの知らなかった。
文章で読む方がやっぱり好きだけど、楽しんで読めた。
ここでいう「事務」とは、「スケジュール管理」と「お金の管理」と定義づけられている。要するに、好きなことを続けて生きていくために必要な環境や習慣を作ることを言う。
内容的には坂口さんの『継続するコツ』の中で書かれていることと同じことが書いてあるのだけど、頭の中の事務員、その名もジムという擬人化されたキャラクターとの対話形式で思考のプロセスが可視化されていることで、より分かりやすくなっている。
ジムが言う次のセリフ。
「恭平もこれからは作家になりたいなんて口走るのではなく、毎朝5時に起きて、9時まで原稿を書き続けたい、と言えばいいんです。
作家になるって、そういうことです。
本を書いてお金を稼ぐことじゃありません。それは断じて違います。」
これ、学生のときの私だったらよくわからなかったと思う。
弁護士になって稼ぎたい!とか思っていたし。
でも、私にとって幸福に生きることはそういうことではないということが今はわかる。
もし余命1年と言われたとしても送るだろう1日、10年後も同じ生活を送っていたいかと言われてイエスと答えられるような1日、そういう1日を過ごすことが私にとっての幸福だと今は思っているし、今後もそういう思想で生きていきたいと思っている。
こういう思想に中学生とか高校生のとき触れていたら世界の見え方も変わってくるような気がするので、読書はあまり得意じゃないけど漫画なら…っていう若い人にもたくさん読んでもらいたいなと思った本だった。
6/7(金)
朝8時過ぎに母から「花岡さんが(泣)」というLINEくる。朝ドラ『虎に翼』のことだ。
前回の放送では、岩ちゃん(岩田剛典)演じる裁判官の花岡が、戦後の食糧不足の中、食糧管理法違反事件(闇市などで不法な取引をした人を裁く事件)を担当していることから、自身は闇市で食料を買わずほんの少しのお弁当しか食べていないシーンがあったので、「なになに、花岡さん栄養失調で死ぬの?」と冗談のつもりで母に返信していたのだが、実際見たらその通りだったので驚いたし、調べたらモデルとなった裁判官がいると知ってもっと驚いた。
山口良忠判事という方で、1947年に33歳で餓死したということだ。食糧管理法違反事件を担当し、日記には「食管法は悪法だ」としながらも「自分はどれほど苦しくともヤミの買い出しなんかは絶対にしない」と書いていたとのこと。
まず連想したのは「悪法も法なり」と毒杯をあおって刑死したソクラテスだけど、「人としての正しさと、司法としての正しさがここまで乖離していくとは思いませんでした」との花岡のセリフでは、『レ・ミゼラブル』(ユーゴー)のジャベール警部も思い出した。
法の番人として元囚人のジャン・バルジャンを見逃すわけにはいかない自分と、ジャン・バルジャンの人柄に触れ、命まで助けられたことに対して、人として見逃したい自分。その狭間でジャベールは苦悩し、ジャン・バルジャンを見逃した後自殺する。
いやいや、そこは法律よりも人でしょ、命でしょ、死ななくていいでしょ、ってツッコむのは簡単なのだけど、そこにアイデンティティの問題も加わるから人間って難しい。
法の番人としての警部という立場にアイデンティティを置いていたジャベールと、法を司る者としての裁判官という立場にアイデンティティを置いていた花岡。たとえそれが悪法だと思っていても、いや悪法だからこそ、それを破ることは裁判官として自分が裁いた人たちに対しても不実であると考えたのかもしれない。
アイデンティティは強さであると同時に、それを失ったら生きていけないと思ってしまう点において弱さでもある。まぁそういう複雑な面を持っている動物だからこそ、愛おしく思うのかもしれないけれど。でもやっぱり悲しいぞ、花岡さん。