震災が私にもたらした能力《第1話》 | 裏庭のないしょ話

裏庭のないしょ話

心の中のこと

きっかけ

ある日、ふと、

「占い師に観てもらいたい・・・」


という衝動に駆られて、インターネットで占い師を探した。誰でもいいという訳ではなかった。本当のことが分かりそうな人。真実だけを伝えてくれそうな人。そんな人を捜していた。


なにを観てもらえばいいのかは自分でも分からなかった。でも、とにかく観てもらわなければという思いだけがどんどん膨らんでいき、そのえも言われぬ焦燥感を自分でどうにかすることは出来なかった。


いくつもいくつもホームページを観ているうちに、ふと「スピリチュアルマーケット」という文字が目に飛び込んできた。どうやらいろいろな占い師やヒーラーが集まるイベントのようなものらしい。


「ここならばいるかもしれない!!」


ほぼ直感でそこに行くことに決めた。


当時、2歳と3歳の息子は夫に預けて一人で東京の自宅から1時間半ほどの会場まで足を運んだ。
会場に到着するとそこは貸しホールのようなところで、広いスペースに所狭しと様々なブースが並べられていた。


手相鑑定士、ヒーラー、タロット占い、オーラを映す機械やパワーストーンショップ、何をする人なのかよくわからないけれども料金だけはべらぼうに高い外国人。スピリチュアル初心者の私にとっては、とにかく怪しさ満点の場所である。


出来るだけ誰にもここに入るところを見られたくなかった。私まで怪しい人だと思わるのがごめんだったのである。実は夫にも行き先は内緒にしてあった。この会場に行くことは私にとってそれほどまで勇気のいる決断であった。


最初は勧誘されるのが怖くて、ブースに近寄らないように遠巻きに眺めながら会場を一周回ってみた。どれもいまいちピンこない。会場のパンフレットをもう一度じっくり眺めて、ここかもしれないと思う場所にもう一度行ってみるけれど、やはりピンと来ない。


仕方がないので、なんとなく気になったヒーリング的なものを受けてみた。なんという名前だったか全く覚えていないのだけれど、やってもらっている最中にまぶたの裏に紫の光がいくつも浮かんでは消えたので、そのことを伝えると


「それはきっと、第3の目が開いたんですよ!」


と嬉しそうに言われた。その瞬間、


「それはあなたがそう思いたいだけなんじゃ・・・」

と思ったけれど、それはあえて口には出さなかった。
だって、自分としては全く何も変わっていないのだもの。
ああ、いらんもんにお金を使っちゃったな、そう思いながらも他にも2つ、3つ観てもらって、ワークショップにまで参加した。けれども、なんとなくそこに求めていたものはないように感じられた。


がっかりしながら会場を出て外の休憩コーナーに腰を下ろし、お茶を飲んでいると、背後に座った若い女の子の2人組が興奮気味に話す声が聞こえてきた。



「いまさー、パワーストーン買ってきたんだけど、そこの人が“台所にある白い茶箪笥の2段目の奥に青い石があるからそれを出しなさい”っていうの。なんで、うちの茶箪笥の色まで知ってるの?あの人、絶対に見えてるよね。」


「そうなんだ!で、その青い石っていうのはあるの?」


「それがさー、全然覚えがないんだけど、その石が死んだ彼からのメッセージだっていうの。私の彼が死んだなんて、その人には言ってないのにって思ってびっくりしたよ。」


その会話を聞きながら、


「いまどきの若い女の子でも茶箪笥って言う言葉を使うんだなー」

とか


「やっぱり本当にちゃんと見える人はいるのかな・・」

とか思ったけれど、その日はもやもやした気持ちを抱えたまま帰宅。
特別なことはなにも起こらなかった。
しかし、いま考えればこの会話はある意味で私に対するメッセージだったのである。


占いふたたび



自宅に戻ると、夫がどこに行ってきたのか聞きたいようなそぶりをみせていた。気が進まなかったけれど、その日のあらましを話してみることにした。
なんとなく話した方が良いように感じたからだ。すると、夫から意外な返事が返ってきた。



「俺も行ってみたかったな」

「ヘッ!?」


馬鹿にされると思って身構えていたので、この言葉にはかなり驚きだった。
そこで、同じイベントが別の会場で2週間後に行われることを思い出し、今度は家族全員で行くことに決めた。


2週間後。


向かった先はKFCホールという貸しホール。てっきり、ケンタッキーフライドチキン系列のビルだと思っていたら、国際ファッションセンターの略であった。


今回の会場も前回と同様、ありとあらゆるスピリチュアルな人たちが所狭しとブースを並べていた。
ふと見た先に、「心のブロックを解除します」という看板が見えて気になったのだけれど、今回の目的はそこじゃないと感じて、また4人で歩き出した。





会場を半周ほどしたところで、女性に声をかけられて足を止めた。

「すいませ~ん。岡山で有名な霊媒師なんですけど~次に来るのは半年後だし、いまなら1枠だけ空いているので見ていきませんか?ね?ね?」

かなり強引な勧誘である。


あと1枠というのもこちらの気持ちを煽るためのお決まり文句だろうと思い、予約表をのぞいてみたら本当に5分後の30分間だけぽっかりと予約が空いていた。


有名な霊媒師という言葉と、待たなくて済むという言葉にあっさりとつられてこの人に観てもらうことにした。夫は私が何を言われるかをみてから、自分も観てもらうかどうかを決めるつもりらしい。


5分後、言われた席に座ると、目の前にいたのは先ほどの女性ではなく、彼女より少し年上の感じの細身の女性であった。どうも先ほどの女性は、この霊媒師のマネージャーであるらしい。


座ったはいいけれど、まだ何を観てもらうのか決まっていない。
この人は手相占いが専門であるらしいから、手相からなにか観てもらおうかと思いメニュー表を覗き込んだ。するとメニューの端に小さく


「守護霊観ます」


と書かれているのが目が止まった。誘われるように


「守護霊をみてください」

という言葉が口をついて出た。

「分かりました」

そう告げると、霊媒師が私の左肩の上の方をじっと凝視し始めた。
10秒
・20秒
・・30秒
・・・1分


待てど暮らせど、霊媒師はなにも言わない。


「この人、実は見えないんじゃ・・・」


不安に思い始めた時、ようやく霊媒師が口を開いた。



「あんな・・・」

「はい・・・」

「見えへんねん」

「はい?(やっぱり・・)」

「なんかな、白いボヤ~としたおばあさんみたいな人が、邪魔しとってな。守護霊さんが出てこられへんねん。」

こんな岡山弁だったかどうかはさておき、とにかく西の方の方言で霊媒師は私にそう告げた。


「白いぼや~っとしたおばあさんですか・・・」

「そう、髪型がこんな風でな、白髪頭やな」

たいがいのおばあさんが白髪頭である。紫メッシュのおばあさんは霊や守護霊になっても紫メッシュのままなのだろうか???

私がそんなくだらないことを考えている間にもなお霊媒師は話を続けながら、その邪魔しているというおばあさんの絵を描き始めた。

お世辞にも上手とは言えないその人物像は、あまりにも抽象的すぎてどうとでもとれるような絵であった。
ただ1つだけ、気になる点があった。

それは、霊媒師が告げたこの言葉である。

「あんな、こんな風に腰がきゅ~って曲がってんねん。こんなおばあさん、知っとる?」

知っとるも何も、こんなに腰がきゅ~っと曲がっているおばあさんなんて、私の周りでは一人しか思い当たらない。


2011年3月11日に東日本大震災で亡くなった気仙沼に住む母方の祖母である。



故郷を襲った津波と火災


思わぬ展開に胸が高鳴った。

2011年3月のその日、私は東京のボロアパートの1室でパートさんと一緒に仕事をしていた。

突然の横揺れに驚き、慌てて駐車場まで飛び出すと、そこに停められていた車はすべて波に揺られるようにユラユラと前後に揺れていた。

隣のゴルフ練習場の柱はしなるように揺れ、いまにも倒れてきそうな勢いだった。
あまりに大きな揺れに、震源は東京に違いないと思った。
しばらくして揺れがおさまると、駐車場に停めていた車に乗り込み、カーラジオをつけた。
予想に反して、ラジオの声が震源は宮城だと告げていた。


それから大急ぎで荷物を片付けて自宅に戻った。
母には地震後すぐにメールを入れたけれど、返信がなかった。車を運転して家に向かっている途中でメールの着信音が鳴った。母からのメールである。


「10メートルの津波が来るって。怖いよ」


そう書かれていた。その後、電話も携帯もつながらなくなり、ぷっつりと連絡が取れなくなってしまった。すでに、地震発生から30分が過ぎていた。津波というものが、地震が発生してからどれぐらいで到着するのか、当時の私にはさっぱり分からなかった。
津波はもう到着したのか、それともまだなのか。


当時小学校1年生と2年生の甥っ子たちは下校の時間帯だった。
海岸沿いを歩いて帰るあの子たちはいまどこにいるだろう?無事にどこかに避難しているだろうか。
私が子供の頃から通学路には「地震が来たら 津波に用心」と書かれた石碑が建っていた。
あの子たちもきっと毎日それを見ながら登下校していたはずだ。
きっと分かっている、大丈夫。大丈夫。
何度も自分に言い聞かせた。


40年以上もマグロ漁船に乗り続けていた父は海の素晴らしさも怖さも知っている。
父はきっと大丈夫。
海岸沿いのオフィスで働く姉はどうだろう。
母は、いまどこにいるのだろう。


「怖いよ」


というメールのやりとりが最後になってしまったらどうしよう。
さまざまな思いが胸をよぎった。


帰宅してすぐにテレビのスイッチを入れると、名取の閖上地区がゆっくりと波に飲まれていく様子が映し出されていた。
ゆっくり、ゆっくり。
けれどもその破壊力は凄まじく、家も車もどんどん流されていく。


渋滞で停まっていた貨物用トラックの屋根の上に登り、迫りくる波を凝視している運転手たちの姿が何人も映し出された。
あとほんの数メートルでそのトラックが飲み込まれる・・という瞬間に映像がパッと切り替わった。
その後、あの人たちがどうなったかを考えるのはとても怖かった。


仙台空港、青森、宮古、たくさんの地域の被害情報が映像とともに流れてくる。
しかし、待てど暮らせど気仙沼の映像が出てこないのである。
何時間観ていても、流れてくる映像は同じ物ばかりだったが、それでもテレビの前のこたつに足を入れてずっとチャンネルをあちらこちらに変えながらテレビにかじりついていた。


そして地震発生から6時間後の20時40分。
ついに気仙沼の映像が流れた。


「ご覧下さい!気仙沼の街が火の海です。」


ヘリコプターに乗ったアナウンサーがカメラに向かってそう叫んでいる。
何時間も待ってようやく映った故郷の映像は、津波どころか広大な火の海であった。


「あの炎の中で、幼い甥っ子たちが「熱いよ」って泣き叫んでいたらどうしよう・・・」

映像を見て、とっさに思ったのはそのことだった。
両親や姉のことは頭に浮かばず、なぜか甥っ子だけがとにかく心配だった。


気仙沼とひと口にいっても、まさか街全体が燃えている訳ではないだろう。
では、一体どのあたりが燃えているのか。燃えているのが沿岸部であればまだ逃げ場がある。


でも、燃えているのが仮に気仙沼大島だったとしたら?
彼らに逃げ場はあるのだろうか?
炎に追いつめられる人々の様子を想像して胸が締め付けられた。
どうか、どうか、みんな無事で。


テレビを見ている途中で、夫とともに出掛けていた子供たちが帰宅した。
まだろくに喋れない子供たちが、


「どどーんってじちんがちたんだよ」


そう言いながら、ニコニコして抱きついてきた。そのとき、ふっと気が緩んで思わず涙が出た。


「だいじょうぶだよ~。なかないで」


とさらにニコニコする子供たちに、思わずこちらも微笑んだ。


子供たちが不安にならないように、笑っていなくちゃ。

その後は、不安に押しつぶされそうになってもニコニコしていられた。
子供ってすごい。本当にすごい。子供の存在にとにかく感謝しまくった。
子供がいなければ、きっとずっとしかめ面をしてテレビをにらみ続けていたことだろう。
子供の笑顔が張りつめていた気持ちを和らげてくれた。


後で山形に住む友人に聞いた話だけれど、彼女も気仙沼の実家を心配しながらも、夫は自衛隊で石巻にかり出された時、幼い子供たち3人がいてくれたおかげで不安に押しつぶされることなく笑っていられたと言っていた。


結局、その夜は炎に包まれる映像が繰り返されるばかりで、他には何の情報も得られなかった。
その間、ずっと埼玉に単身赴任していた義兄と連絡を取り続けていた。


そして翌朝。
夜が明けると同時に私の制止を振り切り、義兄は車で気仙沼へと向かった。
余震はまだ頻繁に続いていた。
高速道路もあちらこちらが陥没して通行止めになっていた。


テレビやインターネットで得た情報をもとに、


「あそこの道路はまだ通れるらしい」
「被災地では○○がなくて困っているようだから、買っていった方が良い」
「○○まで行くとガソリンがないようだから、途中でガソリンを入れていった方が良い」


そんなメールを義兄に送り続けた。
そうこうしているうちに、気仙沼に自衛隊が入っていく様子がテレビの画面にぽつりぽつりと映り始めた。どうやら朝方までに波は引いたらしいことが映像から分かった。


そこから3日間はテレビの映像と、インターネットの情報だけが頼りだった。
震災から3日後、私の携帯が鳴った。
慌てて携帯を取り上げると、電話をかけてきた相手は私の制止を振り切って気仙沼に向かった義兄だった。

電気がないせいで充電がなくなりそうだとかで、とにかく家族全員無事だということだけ伝えられた。
だから、本当に全員無事なのだと思っていた。
いや、正確には一緒に住んでいた家族は全員無事だったのだから、義兄の報告は間違いではないのだ。


兄からの電話は本当にありがたかった。


私の友人は、震災後一週間も家族との連絡が取れず、悶々とした日々を過ごしていたからだ。
その一週間がどれだけ長く感じたことだろう。


義兄が向かってくれなければ、私もこんなに早く生死を確認することは出来ずにイライラとした日々を過ごしていたに違いない。


実家までは義兄の入っていた寮から高速道路で7時間はかかる。
義兄は、あと1時間で実家につくというところでガソリンがなくなってしまい、そこに車を乗り捨ててヒッチハイクなどを繰り返しながら実家についたらしい。


「らしい」というのは、義兄自身、どうやって家までたどり着いたのか全く覚えていなかったからだ。
それほどまでに義兄は


家族を失いたくない。もし子供たちが津波に飲まれていたら、俺が助けなければ・・


そんな思いで必死だったのだと思う。
父子家庭で厳しい父に育てられた義兄。
その父親も数年前に癌で亡くしていた。
もう家族を失いたくないと思うのも当然のこと。だから我が身の危険も顧みずに被災地へと向かったのだ。


1週間ほど経った頃、町役場で携帯電話の充電が出来るようになったとかで、震災直後よりはわりと自由に連絡が取れるようになった。


母ともようやく話が出来るようになった。
母の話は落ち着いているようで、支離滅裂で、真意を確かめるのにとても苦労した。
それとも私が傷つかないよう、言葉を選んでいるうちに、よく分からない話になってしまったんだろうか。


母は昔からそうだった。
私が傷つかないように、傷つかないように気を使って、それが全部裏目に出る。


とにかく母が言う話の断片をつなぎ合わせてまとめると
1、震災の前日に母方の祖母は老人ホームに入ったらしい。
2、どうもその入所した施設に津波が来たらしい。
3、でも、祖母は流されることなく、首までは冷たい海水につかったけれど救急車で病院までは搬送されたらしい


そこまでは分かった。
でも、肝心なところがよく分からなかった。
母が現実を受け入れられなかったのか、それとも私を気遣っていたのか。


数日後、練馬に住む叔母と連絡が繋がった。
母の姉であるその人はなぜか明るい口調で、
この状況で、なぜあんなに明るくしていられるんだろう?
ととても不思議だった。


これも後から聞いた話だけれど、叔母もこのとき相当辛く苦しかったらしい。
でも、私や周りの人を気遣って懸命に明るく振る舞っていたのだ。
彼女なりの優しさだった。


叔母の話から、母方の祖母が亡くなったのだということがようやく分かった。
救急車に運び込まれるとき、


「大丈夫だよ」


とでもいうかのように、祖母はホームの職員さんに向かってニッコリと微笑んだのだそうだ。
それでホームの人も安心していた。


祖母の運び込まれた病院は市内で唯一の大病院で、祖母が運び込まれたとき、その病院は停電と次々と搬送されてくる人たちで混乱を極めていた。


そんな中、祖母は誰にも気づかれないようにひっそりと亡くなっていた。

第2話につづく・・・

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