先日、子供たちを公園に連れて行き、いつものごとく子供たちを解き放って遠くから見ていたら、70代と思しき男性が子供たちに近づいて行って、一緒にトンボとりを始めました。
止まった時にそーっと近づいて行って、素早く採る!
というような採り方を教えてくれるのかな?と思っていたら、そのじーちゃんもやっぱり飛んでるトンボを採ろうとするんですね。
じーっと立っていて、近くにトンボが来たらその見かけからは想像も出来ない素早さで虫取り網を素早く動かして捕まえる、みたいな。いや、実際捕まらないんですけど(笑)
で、やっているうちにどんどんじーちゃんの方が夢中になっちゃって、子供たちの存在を忘れてしまうという・・・。
それで、
「男のアホは6歳をピークに終わるのではなく、ピークは6歳だけどその後に治るわけではなく徐々に緩和されつつも、一生続くのでは?」
と疑いそうになりましたが、男性の場合、確実に採るのが目的なのではなく、それを射止めるまでの過程にロマンを感じるのかもしれないと思い直しました(笑)
そもそも、
「うちの子アホだな。こういう風にすれば、もっと簡単に採れるのに」
と思うなら、教えてあげろよっていう話ですよね。
でもね、教えてしまうのは簡単ですが、簡単な事と引き換えに子供たちの“自分で考える”というチャンスを奪ってしまうと思うので、私はヒントはあげても答えを教えるということはしません。
なんとしてでも捕まえたくて、捕まえたくて、走り回っているうちに
「ん?このやり方は疲れる上に、捕まらない。他にもっといい方法があるかもしれない」
と思って、何か考え始めるかもしれない。
もしかしたらあのじーちゃんがやっていた方法だって、そうやって自分なりに編み出した、最高の技なのかもしれません。
大切なのはそれが自分で考えたことなのかどうか。
子供たちには自分でものを考える力をつけて欲しいと思っています。
極端な話、自分でものをちゃんと考えられるのであれば学校の勉強は出来なくてもいいと思っています。
日本では数年に一度「世界にひとつだけの花」やら「みんなちがってみんないい」やら、そういう「一人一人違うんだから、みんなと違うことは誇りに思っていいんだよ」みたいな思想がブームになりますが、それがブームになるのはそれがあくまでも「理想」だからなんですよね。
それはそうなんだけど、やっぱり人と違うと馬鹿にされるし・・・
結局、そういう気持ちの方が勝ってしまって「世界にひとつだけの花」は結局理想になってしまうわけです。
私たち親世代がそういう「人と違うと馬鹿にされる」という思想をなくさない限り、日本のいじめもなくならないのではないかと私は思っています。
たとえば、うちの長男君は来年から小学生になるのでそろそろ周りではランドセルを買った話が聞かれ始めました。そのランドセルを選ぶときに、本人の主張よりもまず
「無難な黒にしておきなさい。黒だったらとりあえずみんなと一緒だから馬鹿にされないから」
と言ってしまう人が多いと思うんですよね。
これって暗に
「黒いランドセルでなければ、人と違うからおかしい。人と違うことはおかしいこと。いけないことだ」
と教えているようなものだと私は思うんです。
これを聞いて育った子供はどうなるでしょうね。
悪気はなくても、黒のランドセル以外を背負っているお友達に
「黒じゃないなんて変!」
って言ってしまうのではないでしょうか。
ましてそのお友達が、自分も欲しかった青や茶色のランドセルを持っていたら、嫉妬も手伝ってもっとひどい言いかたをするかもしれません。
だとしたら、私たちが子供たちに教えなければいけないことはなんでしょう?
みんなと違ってたら苛められるよ、なんていう価値観ではないですよね。
子供のイジメを心配するのであれば、まずは大人一人一人が人と違うことに怯えずに自分を表現する勇気を持つことがとても大切だと思います。
そして、本当の自分を表現することの素晴らしさを実感し、そのことを子供に伝えてほしいなと思います。
親によって自分を表現することを抑制されるという連鎖をそろそろ断ち切りませんか?
自分で考える力を身に付け、より豊かな未来を創造していきましょう。
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イジメに怯えるのではなく、人や物を大切にする心を育みませんか?
話が少しそれてしまったので、次回は「自分で考えること」についてもう少し掘り下げたいと思います。