僕的起業論 5
「人のせいにしてたら、僕は何の成長もできないんですわ」
先輩の社長がつぶやいた一言は、その方の経営者としての矜持を示していて、
僕は深く自分を考えさせられたのでした。
いくつかの事業の開発をやってきて、忘れられない失敗プロジェクトがあります。
(というか、成功したプロジェクトなど、ほとんどないのですが...トホホ)
1つは、リアルアフィリエイト事業で、実店舗からユーザーを誘導するというものでした。
既に事業化していたモバイルアフィリエイトを補完し、競合がほとんど出ていない状況だったので、
いち早く事業化しました。
いくつかのパートナー企業様とお話し、かなりの先行状況でスタートできました。
結果は、、全くとれない。
店舗のスタッフの皆様もオペレーションの負荷になる、とこの事業のインセンティブを
感じていただけませんでした。
もう1つは、モバイルSEO事業で、これも多くのアカウントのある前職の強みを
活かせると考え協業ベースで始めたものでした。
こちらは、内部の体制が追いついていかず、協業自体もうまく連動できず、
実質フェードアウトのような形になりました。
いずれも実質的には1年程度で、撤退、ということでした。
どちらも僕自身が担当ではなく、担当をつけて管理させてもらう形でしたが、
自分の未熟さを痛感した出来事でした。
多少は新規事業得意なんじゃねーか、と感じてた鼻っ柱を見事に折られた感じで、
いけてねーなー、オレ、と今だに思い返すと恥ずかしく申し訳ない思いでいっぱいです。
ただ、そんな数々の経験と失敗を経て、多くの仲間と戦友を経て、
イエルネットのリベンジをしようと思ってた僕は、
イエルネット以上の何かを感じるようになりました。
あのチーム、あの仕事ではなく、このチーム、この仕事を経験するようになり、
昔では想像できない権限や責任をもつ環境で仕事をさせてもらうなかで、
リベンジではなく、社会や顧客といった僕らの外に向けて価値を残したいとも思うようになりました。
そして起業をし、バタバタした状況の中でふと思います。
今、オフィスにいるのは1人でも、ここに新しいメンバーがいつか来る、
まだ何も持ってないけど、頭の中にあるサービスができあがる、
まだお取引先様は少ないけど、そのうちまだ見ぬお取引先様と仕事をするようになる。
そう思うと、ワクワクします。
今までしたこともなかったトイレ掃除を朝来て自分がやる。w
机の上をぞうきんで拭く。
そんな小さな行為さえ、未来への積み重ねだと思います。
それくらい何もないのだとも考えるし、幸せな時間なのだとも考えます。
つまり、「そのもの」はまだないのだけれど、「いつか一緒になるそれら」を想像してそのために動いている。
未来を信じるのは、こういうことなんだろう、と最近思います。
だからもう一度、
”そうそう、僕が言ってたリベンジって一体何だったんだろう?”
先輩の社長がつぶやいた一言は、その方の経営者としての矜持を示していて、
僕は深く自分を考えさせられたのでした。
いくつかの事業の開発をやってきて、忘れられない失敗プロジェクトがあります。
(というか、成功したプロジェクトなど、ほとんどないのですが...トホホ)
1つは、リアルアフィリエイト事業で、実店舗からユーザーを誘導するというものでした。
既に事業化していたモバイルアフィリエイトを補完し、競合がほとんど出ていない状況だったので、
いち早く事業化しました。
いくつかのパートナー企業様とお話し、かなりの先行状況でスタートできました。
結果は、、全くとれない。
店舗のスタッフの皆様もオペレーションの負荷になる、とこの事業のインセンティブを
感じていただけませんでした。
もう1つは、モバイルSEO事業で、これも多くのアカウントのある前職の強みを
活かせると考え協業ベースで始めたものでした。
こちらは、内部の体制が追いついていかず、協業自体もうまく連動できず、
実質フェードアウトのような形になりました。
いずれも実質的には1年程度で、撤退、ということでした。
どちらも僕自身が担当ではなく、担当をつけて管理させてもらう形でしたが、
自分の未熟さを痛感した出来事でした。
多少は新規事業得意なんじゃねーか、と感じてた鼻っ柱を見事に折られた感じで、
いけてねーなー、オレ、と今だに思い返すと恥ずかしく申し訳ない思いでいっぱいです。
ただ、そんな数々の経験と失敗を経て、多くの仲間と戦友を経て、
イエルネットのリベンジをしようと思ってた僕は、
イエルネット以上の何かを感じるようになりました。
あのチーム、あの仕事ではなく、このチーム、この仕事を経験するようになり、
昔では想像できない権限や責任をもつ環境で仕事をさせてもらうなかで、
リベンジではなく、社会や顧客といった僕らの外に向けて価値を残したいとも思うようになりました。
そして起業をし、バタバタした状況の中でふと思います。
今、オフィスにいるのは1人でも、ここに新しいメンバーがいつか来る、
まだ何も持ってないけど、頭の中にあるサービスができあがる、
まだお取引先様は少ないけど、そのうちまだ見ぬお取引先様と仕事をするようになる。
そう思うと、ワクワクします。
今までしたこともなかったトイレ掃除を朝来て自分がやる。w
机の上をぞうきんで拭く。
そんな小さな行為さえ、未来への積み重ねだと思います。
それくらい何もないのだとも考えるし、幸せな時間なのだとも考えます。
つまり、「そのもの」はまだないのだけれど、「いつか一緒になるそれら」を想像してそのために動いている。
未来を信じるのは、こういうことなんだろう、と最近思います。
だからもう一度、
”そうそう、僕が言ってたリベンジって一体何だったんだろう?”
僕的起業論 4
今日は久しぶりに色々な人と話しました。
面談しまくる、というやつですね。
いやー、ぶっ通しで話しまくるというのは、頭がヒリヒリしていいもんですね。
久しぶりだったので、よかったです。
ともあれ、そうそう、前回はIMJに入ったところまででした。
IMJに入ってびっくりしたことは、制作に関しての分業が進んでいたことでした。
前職では僕1人でやっていた作業を、チームでこなす体制ができていました。
営業、プロデューサー、ディレクター、デザイナー、プランナー、と、提案1つとっても
厚みが違うし、フォローも違いました。
今、振り返ると当時のものは、それはそれでものすごく稚拙なものではあったけど、
それでもその時の僕には衝撃的でした。
「いやー、こりゃ勝てねえわ。。」
と思いつつも、いやいや、チームならこれくらいのことやっておかないといけないよね、会社だもの。
何やってたんだ、俺たちは。。
と恥ずかしい気持ちにもなったのでした。
僕がイエルネットで学んだもう1つの鉄則は、
「企業の生存の条件は、全て外部にある」
ということでした。
お客様しかり、パートナーしかり、競合しかり、重要な生存条件は全て、
企業の外にある。極論すれば内部にあるのはコストセンターだけなのです。
常に外を向いていなければ、絶対にその企業は衰退する。
イエルネットが倒産したときに、一番励ましてくれたのは外部のパートナー企業の方でした。
いつもお願いしていたサーバ会社の営業の方は、お疲れ様でした、と
社員全員分のお菓子を持ってきてくださいました。
親しい代理店の方は、転職しても、仕事を優先的に回してくださいました。
倒産のご報告にあがっても、ご自分の人生を語ってきただき、
温かいお言葉をいただくことばかりでした。
会社にとっての宝物は、外部にある。
だから、僕はお客様の視点を内部に浸透させることを自分の役目と規定しました。
1円でも売り上げることにこだわりぬきました。
新規でお客を捕まえることが何よりも大事だと考えました。
そんなこんなしているうち幸いなことに、広告事業を立ち上げに関わり、ペイブメントを立ち上げ、
そしてIMJモバイルの合併に参加することができました。
もちろん、すばらしい上司、先輩、同僚にめぐまれました。
IMJモバイルの取締役として、できたこと、できなかったことがありました。
ご迷惑をおかけしたこと、悲しいこと、残念なこと、当然いっぱいありました。
嬉しいこと、達成感、喜び、いっぱいあった。
その全てに、自分たちだけでなく、お客様やパートナーの会社様との歴史があった。
当然だ、自分たちだけでビジネスなどできやしないのだから。
その全てに新しい仲間と新しい経験の歴史があった。
当然、自分もまわりも変わっていくのだから。
そうして、イエルネット以外の戦友が増えていき、それ以外のお客様やパートナー様ができ、
それ以外の経験をしていく中で染み込んでいくようにふと思うのでした。
このメンバーって、イエルネットのメンバーと同じくらい大切だ。
このチャレンジは、イエルネットの経験と同じくらい貴重だ。
それより、未来の僕の仲間や経験って、どのようなものなんだろう。
そして、そうそう、僕が言ってたリベンジって一体何だったんだろう?
(続く)
面談しまくる、というやつですね。
いやー、ぶっ通しで話しまくるというのは、頭がヒリヒリしていいもんですね。
久しぶりだったので、よかったです。
ともあれ、そうそう、前回はIMJに入ったところまででした。
IMJに入ってびっくりしたことは、制作に関しての分業が進んでいたことでした。
前職では僕1人でやっていた作業を、チームでこなす体制ができていました。
営業、プロデューサー、ディレクター、デザイナー、プランナー、と、提案1つとっても
厚みが違うし、フォローも違いました。
今、振り返ると当時のものは、それはそれでものすごく稚拙なものではあったけど、
それでもその時の僕には衝撃的でした。
「いやー、こりゃ勝てねえわ。。」
と思いつつも、いやいや、チームならこれくらいのことやっておかないといけないよね、会社だもの。
何やってたんだ、俺たちは。。
と恥ずかしい気持ちにもなったのでした。
僕がイエルネットで学んだもう1つの鉄則は、
「企業の生存の条件は、全て外部にある」
ということでした。
お客様しかり、パートナーしかり、競合しかり、重要な生存条件は全て、
企業の外にある。極論すれば内部にあるのはコストセンターだけなのです。
常に外を向いていなければ、絶対にその企業は衰退する。
イエルネットが倒産したときに、一番励ましてくれたのは外部のパートナー企業の方でした。
いつもお願いしていたサーバ会社の営業の方は、お疲れ様でした、と
社員全員分のお菓子を持ってきてくださいました。
親しい代理店の方は、転職しても、仕事を優先的に回してくださいました。
倒産のご報告にあがっても、ご自分の人生を語ってきただき、
温かいお言葉をいただくことばかりでした。
会社にとっての宝物は、外部にある。
だから、僕はお客様の視点を内部に浸透させることを自分の役目と規定しました。
1円でも売り上げることにこだわりぬきました。
新規でお客を捕まえることが何よりも大事だと考えました。
そんなこんなしているうち幸いなことに、広告事業を立ち上げに関わり、ペイブメントを立ち上げ、
そしてIMJモバイルの合併に参加することができました。
もちろん、すばらしい上司、先輩、同僚にめぐまれました。
IMJモバイルの取締役として、できたこと、できなかったことがありました。
ご迷惑をおかけしたこと、悲しいこと、残念なこと、当然いっぱいありました。
嬉しいこと、達成感、喜び、いっぱいあった。
その全てに、自分たちだけでなく、お客様やパートナーの会社様との歴史があった。
当然だ、自分たちだけでビジネスなどできやしないのだから。
その全てに新しい仲間と新しい経験の歴史があった。
当然、自分もまわりも変わっていくのだから。
そうして、イエルネット以外の戦友が増えていき、それ以外のお客様やパートナー様ができ、
それ以外の経験をしていく中で染み込んでいくようにふと思うのでした。
このメンバーって、イエルネットのメンバーと同じくらい大切だ。
このチャレンジは、イエルネットの経験と同じくらい貴重だ。
それより、未来の僕の仲間や経験って、どのようなものなんだろう。
そして、そうそう、僕が言ってたリベンジって一体何だったんだろう?
(続く)
僕的起業論 3
イエルネットで学んだことは極めて当たり前のことでした。
「経営者が企業の全てを規定する」
事実上倒産したイエルネットを見届けIMJに転職をしたのは、樫野孝人がそこにいたからでした。
IMJを辞めた理由はいくつかありますが、IMJに決めた理由はそれだけでした。
初めて彼と出会ったときのことを今でも覚えています。
「キミの夢を実現させるためには、これこれこういうことが足りないと思う。
そして、IMJと僕は以下の4つのことで、君の夢をサポートできます」
その4つが何だったか今となっては忘れてしまったけれど、
面接でそのように言うリーダーに僕は初めて会ったのでした。
確かに、彼は僕が初めて見た”経営者”でした。
そして、最も優秀な”人事マン”であり”プランナー”でした。
(こんなエラそうなことを言ってると怒られそうですが…)
そして僕はもう一度、イエルネットのリベンジをしたかったのです。
自分の未熟さが、能力のなさが、意識の持ち方が足りなかったことに気づき、
リベンジのために事業家って、経営者ってどういうものか、学びたかったのです。
そして、そういう自分にとって 得るものが多い人だと直感しました。
だから、僕はIMJに入社をしました。
職種は、制作の営業でした。
僕はそのとき27歳で、本当に何も持っていませんでした。
(続く)
「経営者が企業の全てを規定する」
事実上倒産したイエルネットを見届けIMJに転職をしたのは、樫野孝人がそこにいたからでした。
IMJを辞めた理由はいくつかありますが、IMJに決めた理由はそれだけでした。
初めて彼と出会ったときのことを今でも覚えています。
「キミの夢を実現させるためには、これこれこういうことが足りないと思う。
そして、IMJと僕は以下の4つのことで、君の夢をサポートできます」
その4つが何だったか今となっては忘れてしまったけれど、
面接でそのように言うリーダーに僕は初めて会ったのでした。
確かに、彼は僕が初めて見た”経営者”でした。
そして、最も優秀な”人事マン”であり”プランナー”でした。
(こんなエラそうなことを言ってると怒られそうですが…)
そして僕はもう一度、イエルネットのリベンジをしたかったのです。
自分の未熟さが、能力のなさが、意識の持ち方が足りなかったことに気づき、
リベンジのために事業家って、経営者ってどういうものか、学びたかったのです。
そして、そういう自分にとって 得るものが多い人だと直感しました。
だから、僕はIMJに入社をしました。
職種は、制作の営業でした。
僕はそのとき27歳で、本当に何も持っていませんでした。
(続く)
僕的起業論 2
僕はラオスでHotmailを見て、びっくりしたという話でした。
何しろ、お互いがアカウントを持っていれば、そしてどこのパソコンでもネットにつながっていれば、
コミュニケーションができるのだと。
その頃の僕の日本との連絡手段といえば、カオサン通りの定宿の手紙を届けてもらう、
というなんともアナログなものだったのだ。
ただ1つ残念なことは、僕にはパソコンも、アカウントを持っているような友人も、
さらには連絡を頻繁にする、というニーズもなかったということだった。
時は過ぎ、僕はイエルネットという会社で働いていた。
その時のネットの思い出があったのだろう。その時ネットベンチャーに僕はいた。
いい会社だった。そしてひどい会社だった。
仲間がよかった。
同年代が多かった。
クラリスにつぶやくまでもなく、気持ちのいい連中ばかりだった。
何かを実現したいという気持ちをもっていて、基本能力が高く、熱かった。
お互いを信頼していたし、チームワークも強くとてもいいものを作っていた。
そしてひどかった。
事業を回すということすら誰も知らなく、経営などというものがなされる気配もなく、
売上げるということの価値を知る人間すらわずかだった。
外を見る人間はわずかだった。中の世界しか知らない人間ばかりだった。
そして悲しくも愚かな経営陣のいざこざやら、体制変更やらだけが続いていた。
何より経営陣も含め、誰もが未熟だった。
わぁわぁ言うとります。お時間です。
キャッシュは続かなくなり、会社は営業停止ということになり、
メンバーは誰もいなくなった。
会社自体は、どこかの会社にびた一文で売られたみたいだが、その後は誰も知らない。
これが悲劇ではなく喜劇で済んだのは、まだみんな若かったからだ。
「みんなを最後まで見送ってから自分の身の振り方を考える」とうそぶいていた創業者は、
一番最初にソニーへ転職した。
イエルネットは、創業者の壮大な転職活動だった、ということで、
コント以外の何者でもなかった。
でも、社長だろうと誰だろうと、みんながみんな、変わらず愚かだったんだ。
自分たちのやりたいことをお客様の要望より優先する企業は、死ぬしかない。
何より会社をやるってことを、事業するってことを根本から分かっていない会社は倒産するしかない。
当たり前のことが何も分かってなかったんだって僕は後から思い返すことになる。
ただ、でもその時、倒産間際の必死の状況と大きな脱力感を胸に、
僕は「リベンジ」という言葉を使うようになる。
こんないいメンバーだったのに、経営のせいで倒産した。
このメンバーで絶対何かを達成してやる。勝ってやる。
イエルネットのリベンジをもう1回。
呪いのセリフのように、つぶやいていくのでした。
(続く)
何しろ、お互いがアカウントを持っていれば、そしてどこのパソコンでもネットにつながっていれば、
コミュニケーションができるのだと。
その頃の僕の日本との連絡手段といえば、カオサン通りの定宿の手紙を届けてもらう、
というなんともアナログなものだったのだ。
ただ1つ残念なことは、僕にはパソコンも、アカウントを持っているような友人も、
さらには連絡を頻繁にする、というニーズもなかったということだった。
時は過ぎ、僕はイエルネットという会社で働いていた。
その時のネットの思い出があったのだろう。その時ネットベンチャーに僕はいた。
いい会社だった。そしてひどい会社だった。
仲間がよかった。
同年代が多かった。
クラリスにつぶやくまでもなく、気持ちのいい連中ばかりだった。
何かを実現したいという気持ちをもっていて、基本能力が高く、熱かった。
お互いを信頼していたし、チームワークも強くとてもいいものを作っていた。
そしてひどかった。
事業を回すということすら誰も知らなく、経営などというものがなされる気配もなく、
売上げるということの価値を知る人間すらわずかだった。
外を見る人間はわずかだった。中の世界しか知らない人間ばかりだった。
そして悲しくも愚かな経営陣のいざこざやら、体制変更やらだけが続いていた。
何より経営陣も含め、誰もが未熟だった。
わぁわぁ言うとります。お時間です。
キャッシュは続かなくなり、会社は営業停止ということになり、
メンバーは誰もいなくなった。
会社自体は、どこかの会社にびた一文で売られたみたいだが、その後は誰も知らない。
これが悲劇ではなく喜劇で済んだのは、まだみんな若かったからだ。
「みんなを最後まで見送ってから自分の身の振り方を考える」とうそぶいていた創業者は、
一番最初にソニーへ転職した。
イエルネットは、創業者の壮大な転職活動だった、ということで、
コント以外の何者でもなかった。
でも、社長だろうと誰だろうと、みんながみんな、変わらず愚かだったんだ。
自分たちのやりたいことをお客様の要望より優先する企業は、死ぬしかない。
何より会社をやるってことを、事業するってことを根本から分かっていない会社は倒産するしかない。
当たり前のことが何も分かってなかったんだって僕は後から思い返すことになる。
ただ、でもその時、倒産間際の必死の状況と大きな脱力感を胸に、
僕は「リベンジ」という言葉を使うようになる。
こんないいメンバーだったのに、経営のせいで倒産した。
このメンバーで絶対何かを達成してやる。勝ってやる。
イエルネットのリベンジをもう1回。
呪いのセリフのように、つぶやいていくのでした。
(続く)
僕的起業論 1
少し、更新の間があきました。
その間、何をしていたか、というとベトナムに出張しておりました。
もう6回目か7回目ですが(でもこんなもんか)、行く度に車窓から眺める景色が大きく変わり、国自体成長しているのがわかります。
ベトナムの基本情報を少し。
2009年のデータですが、人口は約8,579万人、増加率が1.2%ですから2011年だと8800万人弱。
9000万に近い人口を擁している国です。
タイが6000万強、マレーシアが3000万弱ですから、かなり大きいボリュームを持つ国だといえます。
驚くべきは平均年齢。2010年で27.4歳。44歳の日本と比べると驚くべき若さを持ちます。
国民1人あたりのGDPはようやく1000ドルを超えたばかりです。
1000ドルを超えた段階から一気に成長が加速されると言われます。
(ちなみに、中国が超えたのは2003年です、一気に成長しました)
んなベトナムに、僕が初めて行ったのは97年で、まだ車などほとんど見なかったような気がします。
その時は、ホーチミンからハノイまで、1か月かけて縦断したのでした。
自分が起業をしたその年に、ベトナムとこんなに仕事をし始めるとは予想もしませんでした。
そう、起業してるのでした。
僕が前職を退職し起業する、と言った時、父親には相当反対されたし怒られました。
子供3人いて、どういうことよ、と。
「私の会社も東京支社を出しましたが1年で5000万の赤をだしました、それをオマエは..」
と。僕の話を聞いて、ますます財布の紐をきつくせねば、と思ったぞ、と。そういうことであります。
1年で5000万の赤って、それはアンタの経営能力がいかがなものなのか、というセリフを飲み込みつつも、キャーーッ!!である。
おっしゃるとおりですね、としか言いようがないですね。
そう、何も言うことがないです。
何なのだ、と。僕ってやつは何なのだ、と。
そういうことであります。
前職ではそれなりの責任と地位と決裁範囲を任されて業務を遂行していました。
熱く心通わせる(恋みたいだなw、そう恋なのです)仲間もいました。
尊敬できる同僚、先輩もいらっしゃった。
なのに、であります。
起業します、とか言ってます。
起業します、とつぶやく36歳を過ぎたおっさんがそこにいるのであります。
もうこれは業としかいいようがない。
どうしようもない何かがそこにあるのだ、と。
それはもう、夢を追うという簡単な言葉では言い表せない、どうしようもない僕のどうしようもなさ、なのだ、とハッキリと断言しておきましょう。
圧倒的な才能を目の当たりにしたことがあります。
これも97年、香港で出会った女性アーティストのスミは、そのエネルギーとアウトプットが僕の想像を超えていました。
彼女の作品は、生々しい素晴らしい輝きをもったもので、何より彼女の存在自体がファンキーでした。
そして、才能とは圧倒的な欠落である、と気づいたのも彼女からでした。
数分前のことを全く覚えていない、自分の身の回りのことが全くできない、そして熱中するとまわりが全く見えない。
しかし、その全てが、彼女の作品の素晴らしさを支えているのだ、とも気づいたのでした。
そして、僕が始めてネットを知ったのは、ベトナムからその香港をめぐり、たどり着いたラオスの首都、ヴィエンチャンのインターネットカフェだった。
その頃僕はバックパッカーで、日本を出て数ヶ月経っていた。
2年遅れのWindows95の垂幕が、もうものすごく自信ありげにはためいていた。
僕はそこではじめてHotmailを知ったのだった。
(続く)
その間、何をしていたか、というとベトナムに出張しておりました。
もう6回目か7回目ですが(でもこんなもんか)、行く度に車窓から眺める景色が大きく変わり、国自体成長しているのがわかります。
ベトナムの基本情報を少し。
2009年のデータですが、人口は約8,579万人、増加率が1.2%ですから2011年だと8800万人弱。
9000万に近い人口を擁している国です。
タイが6000万強、マレーシアが3000万弱ですから、かなり大きいボリュームを持つ国だといえます。
驚くべきは平均年齢。2010年で27.4歳。44歳の日本と比べると驚くべき若さを持ちます。
国民1人あたりのGDPはようやく1000ドルを超えたばかりです。
1000ドルを超えた段階から一気に成長が加速されると言われます。
(ちなみに、中国が超えたのは2003年です、一気に成長しました)
んなベトナムに、僕が初めて行ったのは97年で、まだ車などほとんど見なかったような気がします。
その時は、ホーチミンからハノイまで、1か月かけて縦断したのでした。
自分が起業をしたその年に、ベトナムとこんなに仕事をし始めるとは予想もしませんでした。
そう、起業してるのでした。
僕が前職を退職し起業する、と言った時、父親には相当反対されたし怒られました。
子供3人いて、どういうことよ、と。
「私の会社も東京支社を出しましたが1年で5000万の赤をだしました、それをオマエは..」
と。僕の話を聞いて、ますます財布の紐をきつくせねば、と思ったぞ、と。そういうことであります。
1年で5000万の赤って、それはアンタの経営能力がいかがなものなのか、というセリフを飲み込みつつも、キャーーッ!!である。
おっしゃるとおりですね、としか言いようがないですね。
そう、何も言うことがないです。
何なのだ、と。僕ってやつは何なのだ、と。
そういうことであります。
前職ではそれなりの責任と地位と決裁範囲を任されて業務を遂行していました。
熱く心通わせる(恋みたいだなw、そう恋なのです)仲間もいました。
尊敬できる同僚、先輩もいらっしゃった。
なのに、であります。
起業します、とか言ってます。
起業します、とつぶやく36歳を過ぎたおっさんがそこにいるのであります。
もうこれは業としかいいようがない。
どうしようもない何かがそこにあるのだ、と。
それはもう、夢を追うという簡単な言葉では言い表せない、どうしようもない僕のどうしようもなさ、なのだ、とハッキリと断言しておきましょう。
圧倒的な才能を目の当たりにしたことがあります。
これも97年、香港で出会った女性アーティストのスミは、そのエネルギーとアウトプットが僕の想像を超えていました。
彼女の作品は、生々しい素晴らしい輝きをもったもので、何より彼女の存在自体がファンキーでした。
そして、才能とは圧倒的な欠落である、と気づいたのも彼女からでした。
数分前のことを全く覚えていない、自分の身の回りのことが全くできない、そして熱中するとまわりが全く見えない。
しかし、その全てが、彼女の作品の素晴らしさを支えているのだ、とも気づいたのでした。
そして、僕が始めてネットを知ったのは、ベトナムからその香港をめぐり、たどり着いたラオスの首都、ヴィエンチャンのインターネットカフェだった。
その頃僕はバックパッカーで、日本を出て数ヶ月経っていた。
2年遅れのWindows95の垂幕が、もうものすごく自信ありげにはためいていた。
僕はそこではじめてHotmailを知ったのだった。
(続く)