『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』
(30)
峠杣一日・著
三途の川(さんづのかは)の川面(かはも)。
小蛇(ころち)と子供達がぎっこんばったん、迷妄念々(めいまうねんゝゝ)を乗せた蓮台(れんだい)を威勢(ゐせい)良く揺(ゆ)らし始めた。
ざぶゝゝわっしょい!
ざぶゝゝわっしょい!
おゝ、蓮台(れんだい)が再び月虹(げっこう)の光を放つと、迷妄念々(めいまうねんゝゝ)の心奥(しんあう)から常の命(とはのいのち)の奔流(ほんりう)が堰(せき)を切った様に迸(ほとばし)り、迷妄念々(めいまうねんゝゝ)の存在そのものを包み込んで還元(くわんげん)して行く。
ざぶゝゝわっしょい!
ざぶゝゝわっしょい!
「噫(あゝ)、此れで漸(やうや)く」
「噫(あゝ)、お母さん、お父さん」
やがて僅(わづ)かに鼓動(こどう)の様な明滅(めいめつ)…迷妄念々(めいまうねんゝゝ)の最期(さいご)だ。
「噫(あゝ)、有り難う(ありがたう)、小さき命の親(いのちのおや)達よ…」
遂(つひ)に此処に、悪逆無道(あくぎゃくむだう)の限りを尽くした迷妄念々(めいまうねんゝゝ)は消滅(せうめつ)、常の命(とはのいのち(常の故郷トハノフルサト))へと還(かへ)ったのである。
言はずもがな、世の中から迷妄念々(めいまうねんゝゝ)を根絶(こんぜつ)したくば、対症療法(たいしゃうれうはふ)(刑罰ケイバツ等)だけでは鼬(いたち)ごっこで埒(らち)が明(あ)かない。
可惜(あたら)命を徒死(とし)とさせない為にも、自他共に常の理(とはのことわり)を丁寧(ていねい)に育むの他は無いのだ。
私達の本質が常の理(とはのことわり)の現し世(うつしよ)を育む働きである限り、此れ以外の方途(はうと)は未来永劫(みらいえいごふ)見出だせないだらう。
さて、迷妄念々(めいまうねんゝゝ)が消えた蓮台(れんだい)の上に、小さな包みがひとつ。
開いて見ると、やあ此れはまた美しい山吹色(やまぶきいろ・小判)が一枚。
迷妄(めいまう)を去った命達からの、謝儀(しゃぎ)の贈り物であった。
や、何時(いつ)の間(ま)にか、空一面(そらいちめん)が緋色(ひいろ)に染(そ)まってゐる。
無数の彼岸花(ひがんばな)の花片(はなびら)が、同じ方向を指して浮かんでゐるのだ。
然(さ)うだ、あれは極楽浄土(ごくらくじゃうど)へ渡る浄土舟(じゃうどぶね)。
やゝ何と、次々と浄土舟(じゃうどぶね)に変はってゐるのは、屍(しかばね)と横たはったかと思はれた業火の烏天狗(ごふくわのからすてんぐ)、三途の川子(さんづのかはこ)、賽塊の鬼(さいころのおに)、骨肉一家(こつにくいっか)、それに骨肉六地蔵(こつにくろくぢざう)の面々(めんゝゝ)である。
やゝゝ、そんな彼等の浄土舟(じゃうどぶね)が宙(ちう)の一点にぐるゝゝと渦(うづ)を巻くと、すうっと巨大な仏(ほとけ)の姿を現した。
此れぞ阿弥陀仏(あみだぶつ)の化身(けしん)のひとつ、骨肉大明神(こつにくだいみゃうじん)である。
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つゞく。