『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』(29) | 『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

島根県松江市東出雲町、あれかし山の峠杣一日です。
島根半島(島根島)は勾玉宝船、山陰(東方鳥取瑠璃光藥師少彦名神、西方島根極樂阿弥陀大国主神)は瑤大蛇(たまをろち)。常の理(とはのことわり)あれかし大明神鎮まる意宇の古都から常の親子(085)の物語を書いてゐます。


『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』

(29)

峠杣一日・著

「おのれ神よ」

「おのれ我が命よ」

「おのれ、おのれぇ」

譫言(うはごと)を発しながら、蓮台(れんだい)の上でぴくゝゝと痙攣(けいれん)を繰り返す迷妄念々(めいまうねんゝゝ)。

父×母=子

神仏と言ひ命と言ふのは三つ子の魂(みつごのたましひ)たる一(いち)、即ち常の理(とはのことわり)(常の親子(とはのおやこ))であり、私達の本質に他ならない。

因(よ)って、常の理(とはのことわり)を育む働きこそが幸ひ(さいはひ・幸せ)に結ぶのである。

言ひ換へれば、幸ひ(さいはひ)の核心(かくしん)は常の理(とはのことわり)の得心(とくしん)にあるのだ。

常の理(とはのことわり)たる自分の命(自分を有らしめてゐる命・自分の本質)を貴(たふと)ぶ事に因ってのみ、本当の和(やは)らぎが育まれるのである。

自ら(みづから)の命に自殺的な反撥(はんぱつ・反発)を試(こゝろ)みるのは勝手だが、其の様な迷ひは地獄の一丁目、呑み込まれて了(しま)っては目も当てられない…。

「私、此れ知ってる!
本で見た事あるもん!」

小蛇娘(ころちむすめ)のお嶺(おみね)が言ふと、

「あっ、本当だ!」

「うん、見たみた!」

「それ!」

児瑤大蛇(このたまをろち)の小蛇八郎(ころちはちらう)も同じ本で、来迎(らいかう)、一目(かずま)、一枝(ひとえ)、三葉(みつば)もテレビ漫画「機関摩天楼偉大雷天狗」(からくりまてんろうグレートいかづちてんぐ)で見た事があったのだ。

小蛇(ころち)と子供達が迷妄念々(めいまうねんゝゝ)の乗った蓮台(れんだい)をずるゝゝと引き摺(ず)り、そしてざぶゝゝと三途の川(さんづのかは)へと入って行く。

「よし、神輿(みこし)だわっしょい!」

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つゞく。