『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』
(29)
峠杣一日・著
「おのれ神よ」
「おのれ我が命よ」
「おのれ、おのれぇ」
譫言(うはごと)を発しながら、蓮台(れんだい)の上でぴくゝゝと痙攣(けいれん)を繰り返す迷妄念々(めいまうねんゝゝ)。
父×母=子
神仏と言ひ命と言ふのは三つ子の魂(みつごのたましひ)たる一(いち)、即ち常の理(とはのことわり)(常の親子(とはのおやこ))であり、私達の本質に他ならない。
因(よ)って、常の理(とはのことわり)を育む働きこそが幸ひ(さいはひ・幸せ)に結ぶのである。
言ひ換へれば、幸ひ(さいはひ)の核心(かくしん)は常の理(とはのことわり)の得心(とくしん)にあるのだ。
常の理(とはのことわり)たる自分の命(自分を有らしめてゐる命・自分の本質)を貴(たふと)ぶ事に因ってのみ、本当の和(やは)らぎが育まれるのである。
自ら(みづから)の命に自殺的な反撥(はんぱつ・反発)を試(こゝろ)みるのは勝手だが、其の様な迷ひは地獄の一丁目、呑み込まれて了(しま)っては目も当てられない…。
「私、此れ知ってる!
本で見た事あるもん!」
小蛇娘(ころちむすめ)のお嶺(おみね)が言ふと、
「あっ、本当だ!」
「うん、見たみた!」
「それ!」
児瑤大蛇(このたまをろち)の小蛇八郎(ころちはちらう)も同じ本で、来迎(らいかう)、一目(かずま)、一枝(ひとえ)、三葉(みつば)もテレビ漫画「機関摩天楼偉大雷天狗」(からくりまてんろうグレートいかづちてんぐ)で見た事があったのだ。
小蛇(ころち)と子供達が迷妄念々(めいまうねんゝゝ)の乗った蓮台(れんだい)をずるゝゝと引き摺(ず)り、そしてざぶゝゝと三途の川(さんづのかは)へと入って行く。
「よし、神輿(みこし)だわっしょい!」
つゞく。