『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』(27) | 『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

『さいはひよいち』日本古来の人生観 常の理三つ子の魂 島根半島は勾玉宝船 山陰(島根鳥取)はたまをろち瑤大蛇 あれかし山の峠杣一日・著

島根県松江市東出雲町、あれかし山の峠杣一日です。
島根半島(島根島)は勾玉宝船、山陰(東方鳥取瑠璃光藥師少彦名神、西方島根極樂阿弥陀大国主神)は瑤大蛇(たまをろち)。常の理(とはのことわり)あれかし大明神鎮まる意宇の古都から常の親子(085)の物語を書いてゐます。


『なんぞころびやおき 大極楽本尊郷篇』

(27)

峠杣一日・著

理不尽(りふじん)。

何の因果(いんぐわ)ぞ。

氣狂ひ(きちがひ)蛆虫(うじむし)どもを、此の手で打(ぶ)ち殺して何が悪い。

人斬りは叫んだが、彼の生命である常の理(とはのことわり)は、其れを必ずしも善(よ)しとはしなかった。

何故なら、人の本質は常の理(とはのことわり)を育む働きであるからだ。

無論死刑はあって然(しか)る可(べ)きであらうが、其れは言はゞ生命を常の理(とはのことわり)に還(かへ)す儀式(ぎしき)であり、復讐(ふくしう)ではないのである。

彼が迷妄念々(めいまうねんゝゝ)に呑まれたのは、彼の苦しみと迷ひとを解(と)きほぐす程の常の理(とはのことわり)の育みが、彼自身にも彼の周りの者にも足らなかったからである。

迷ひの大蛇(まよひのをろち)を鎮(しづ)めるには、一人ひとりが常の理(とはのことわり)の人世観(人生観)を確(しっか)りと持ち、育むの他はない。

ひとりきりでは常の理(とはのことわり)は現せない、即ち生きられないのだから。

因みに、
大学受験で他校の引率教師(いんそつけうし)に指差され、「おいみんな見ろ!あんな奴も受ける!ぎゃはゝゝゝゝゝっ!お前達は絶対大丈夫だ!自信持て!」と爆笑されて逆上(ぎゃくじゃう)、花壇のコンクリブロックで屑教師(くづけうし)のどたまを陥没粉砕(かんぼつふんさい)、がりゝゝと磨(す)り潰(つぶ)した屍肉(しにく)で答案(たふあん)を書いた男、
また神社に参拝(さんぱい)してゐたら「何だあいつ!賽銭(さいせん)しょぼ!柏手(かしはで)下手(へた)!はいゝゝ、良い事あるといゝよなって無えけどな!」と社務所(しゃむしょ)で此方(こちら)を嘲笑(あざわら)ひ盛り上がる二人の糞神職(くそしんしょく)に忿怒(ふんぬ)、二人の旋毛(つむじ)に五寸釘(ごすんくぎ)をがんゝゝと打ち込んで殺害(さつがい)、内臓(ないざう)を引き出した二つの糞袋(くそぶくろ)に全財産を小銭に替(か)へて詰め込み神前に奉納(ほうなふ)した女、
…等々、迷妄念々(めいまうねんゝゝ)に呑まれた人殺し達とほくそ笑(ゑ)む迷ひの大蛇(まよひのをろち)の暗躍(あんやく)とを描いた挿話(さふわ)
「天誅一家」(てんちゅういっか)
に就(つ)いては本編が進まなくなるので割愛(かつあい)とす。

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つゞく。